見出し画像

東京国立博物館にて、朝護孫子寺では出会えなかった絵巻物と出会う。そして護法童子に思いを馳せてみた。

つい先日東京国立博物館で開催中の特別展「やまと絵~受け継がれる王朝の美」を見てきました。

当初は行く予定はなかったんですよね、名称からしてありがちな「ニッポンすごい!」系の内容で表現が表面的で面白みのない(あくまで個人的な意見です)「御用絵師系」の絵師たちの作品が展示される展覧会だと勝手に思い込んでいたので。しかしネット上でもけっこう話題になっていたので公式サイトで確認してみるとどうやらぜんぜん違うらしい。

なんだか面白そう…というよりわたくしにどストライクな内容ではなかろうか!ということで行くことにしたのでした。

展覧会では歴史関連の本でよく紹介される絵巻物の作品がズラ~りと展示、はじめて実物を見るものも多く、「いや~お噂はかねがねうかがっておりました」と声をかけたくなるような作品も多数。「地獄草紙」をはじめとした妖怪系(?)などもあってじつに楽しい内容となっていました。

そのなかでもとくにお目当てとなったのが有名な神護寺所蔵の肖像画、伝源頼朝、平重盛、藤原光能の「神護寺三尊」(実際には足利直義、足利尊氏、足利義詮を描いたのでは?との説でも名高い)と、「信貴山縁起絵巻」でした。

この「信貴山縁起絵巻」、「日本四大絵巻」にも数えられ、奈良県の信貴山朝護孫子寺が所蔵しているものです。ただし普段は奈良国立博物館に寄託されており秋の特別公開期間を除けばお寺に訪れても見ることができません(模本を見ることができますが)。東京在住の人間にはなかなかハードルが高かったのですが、ようやく実物を見る機会を得ることができました。

そんなわけで、以前から朝護孫子寺について投稿しようと思っていたのですが、ついに機は熟した!って感じ。

この信貴山縁起絵巻の第二巻、「延喜加持の巻」には「剣鎧護法童子」なる存在が登場します。そして朝護孫子寺にはこの剣鎧護法を祀った「剣鎧護法堂」というお堂も存在しています。↓です。

↑は信貴山縁起絵巻に登場する剣鎧護法の様子とストーリーの説明です。↓の朝護孫子寺の公式サイトもご参照ください。

この剣鎧護法童子とはどうやら毘沙門天の使者のような立ち位置のようなのですが、仏教説話などではこの「護法童子」なる存在が毘沙門天信仰かどうかにかかわりなくよく登場します。仏教の世界では毘沙門天に限らず、仏に帰依する高僧を守護しつつ力を貸すボディガード兼助っ人のような存在として扱われているようです。

もともと「童子」とは「子ども」の意味だけでなく、社会に秩序に組み込まれていない存在、あるいは逸脱した存在に対して使われていた…とよく言われます。本来なら成長して子供から大人になる過程で通過儀礼などを経て社会秩序の一員に加わるわけですが、そうした過程を経ずにずっと社会の外に留まり続ける(=子供であり続ける)ているのが「童子」である、と。

この「童子」定義がネガティブな方向で機能しているのが酒吞童子や茨木童子に代表される社会に不安と脅威をもたらす「鬼たち」であり、ポジティブな方向に機能したのがこの護法童子ということになるのでしょう。そして今も昔も子どもは神秘的な存在として扱われることがありますが、子供の姿をした「童子」は魔物と戦う神秘的な力を備えた存在として非常にふさわしい形態なのかもしれません。

ほかにもポジティブな「童子」では矜羯羅童子と制多迦童子 に代表される不動明王の「八大童子」もよく知られていますね。仏教説話では彼らが護法童子とほぼ同じ役割で登場することもあります。

そしてネガティブな鬼たちにしろ、ポジティブな護法童子にしろ、髪の毛を伸ばしっぱなしで後ろで結んでいる姿でよく描かれます。これはどちらも社会の秩序から逸脱していることを外見で示したものなのでしょう。ということは…

現代の長髪のロックミュージシャンやロックファンもまた大人になることを拒否した「童子」なのである!つまり童子の価値観は日本だけのものではなく、しかも現代においても生き続けているということになる!

…彼らが(わたくしもなんですけど)神秘的な力を持っているかどうかはまた別の話ですが(笑)

ではこの「護法童子」とはそもそもなんぞや?

わたくしがこの存在に興味を持ったきっかけは妖怪好きの間ではおなじみ、妖怪研究家(?)の小松和彦氏の著作「憑依信仰論」でした。現在でも護法童子に関する知識のほとんどはこの著作によっているため、以下受け売りの形になってしまいますが、ちょっと取り上げてみたいと思います。

憑依信仰論 講談社学術文庫 この方が一般向けに書いた著作の中でももっとも面白い1冊だと思います。

もともと僧侶が魔物や災いなどを調伏するための手段として「護法」という呪術とも儀式ともとれる方法が存在していたそうです。なんと「枕草子」にも登場します。そしてこの護法を行う際に僧侶の手助けをするのが護法童子、という立ち位置らしい。

しかもこの手順がとってもまわりくどい。さらに「護法」による調伏だけでなく、かつて行われていた加持祈祷による魔物・災いの調伏そのものがずいぶんとまどろっこしい手順を踏んで行われていたようです。

簡単に言うと…

1:病気や狂気など、魔物に取り憑かれているために悪いことが起こっていると考えられる人に対して僧侶が読経や呪文の詠唱を行う

2:その災厄の原因となっている魔物(物怪)の正体を暴く

3:その物怪を憑坐(よりまし)に転移(憑依)させる

4:憑坐に憑依した物怪を調伏する、または退散させる

ですから、伝奇小説などに見られるように高僧が物怪に憑依されて暴れ回っている人と戦う、といった構図は実際には起こり得なかったようです。

さらに、「護法」の呪術・儀式ではこの基本的な調伏の手順に護法童子が加わることでさらに面倒くさくなります。

1:魔物に取り憑かれている人に僧侶が読経、呪文の詠唱を行う

2:この読経、呪文によって僧侶に助力する護法(童子)の力が活性化する

3:魔物・物怪の存在を暴き出す

4:護法童子が取り憑かれている人の体に憑依する

5:護法童子がその人に取り憑いている魔物・物怪を追い出す

6:追い出された魔物・物怪が憑坐に転移・憑依する

7:憑坐に憑依した物怪を調伏する、または退散させる

さらに、状況によっては7の場面の後で憑坐の体から追い出された魔物・物怪が護法童子によって退治される、というパターンもあるようです。

面倒くさいですねぇ。

この面倒くさいパターンや信貴山縁起絵巻のエピソードから「護法童子」は人間と魔物、または仏の間を取り持つ役割を持っていることが見て取れそうです。仏にお祈りをしたときには仏が直接本人の前に現れるのではなく、護法童子が使者となって祈りを叶えることが伝えられる。そして僧侶が魔物と対決したときには僧侶が魔物と直接戦うのではなく、護法童子が代わりに戦う。ですからボディガードであると童子に僧侶の代理人、武器のような役割も備えていることになります。

こうした護法童子の役割を考えると朝護孫子寺の剣鎧護法堂は祈りを捧げた人のもとに護法童子が直接出向いて災いを追い払ってくれるとってもありがた~いお堂なのかもしれませんね!

そしてこの護法童子がどれだけ優れた力を持っているか、魔物と戦って退治する力を持っているかは護法を執り行う僧侶の験力に左右される。厳しい修行を積んだ優れた僧侶ほど強力な護法童子を使役(力を借りる)することができるため、加持祈祷と魔物調伏の効果も高くなる、というわけですね。

そのため、小松和彦氏はこの仏教僧における護法童子の存在を陰陽師における式神の存在と対比させています。どちらも本人が直接魔物と戦わない。

いかがでしょうか?この護法童子や式神の活躍についてまわる回りくどさは日本人のメンタリティと非常に密接な関わりがあると思いませんか?

日本の歴史を見ると、そして現代の社会の構造を見ても「偉い人ほど奥に引っ込んで表に出てこない。直接行動し、手を下すのは下の人」という構図が見られます。天皇・貴族と武士、天皇と将軍、さらには天皇と摂関、鎌倉将軍と北条家の執権、さらに北条家の執権と得宗…あげたらキリがありません。

そしてこうした二重構造の体制においてなにか問題が生じたときには責任を取らされたり、滅ぼされたりするのはつねに下の実際に手を下していた人たち。奥に引っ込んでいる「偉い人たち」は責任を問われることもなくその地位に留まり続ける。

これを護法童子や式神による魔物の調伏に当てはめてみましょう。もし調伏に失敗した場合、何が問題だったのか?僧侶の験力が不足していたのか?はたまた仏が十分に力を貸してくれなかったのか?護法童子が力不足だったのか、あるいは憑坐が求められる役割を発揮できなかったのか?

責任の所在がよくわかりません。もし僧侶が失敗を責められたとしても「今回は護法童子が失敗した」「憑坐がもっとしっかり憑依されるべきだった」などと言い訳ができちゃう。

現代でも企業で不祥事が発覚すると必ず「それは現場の判断であって上層部は関与していなかった」という言い訳が登場します。この日本社会に見られる一種の無責任体質が天皇制を現代まで維持させてきた大きな一つの理由となっているはずですが、そんな社会のシステムと信仰の仕組みとの間に共通点が見られるということは…

このような日本社会の歴史的なシステムは権力者の都合によって構築・維持されただけでなく、日本人全員が共有しているメンタリティによって支えられていた面もある、ということも意味していないでしょうか?

ちょっとゲンナリしてくる考え方ですが、どうも日本人はこうした「大事なものは奥に引っ込む」考え方が好きなのは間違いないと思います。寺社仏閣の「奥の院」の概念なんかもこうした考え方が関わっているのでしょう。

こうした日本人のメンタリティが枕草子の時代にはすでにあったことを考えると…密室政治に代表される日本社会のマイナス点を解消するのはそう簡単なことではないのかもしれませんねぇ。

というわけで、朝護孫子寺。現在では巨大な虎の張り子ですっかり有名になっていまして、「珍スポット」として取り上げられたりもするのですが、古い歴史とさまざまな伝承を伝える見どころいっぱいのお寺です。聖徳太子ゆかりの地としても知られ、彼が廃仏派の物部守屋と戦った際に毘沙門天の加護を得て勝利することができたのを感謝して堂宇を建立したのが歴史の始まりと言われています。

いまやこのお寺の「顔」となった巨大な張り子。「世界一」と誇っていますが、そもそも他に競争相手がいないだけじゃ…(笑)
虎仕様のポスト。念のために言っておきますが、わたくしは某虎球団のファンではありません
樹齢1500年というカヤの木とそれを御神体(?)とした「かやの木稲荷大明神」なる稲荷神社。すぐ近くに聖徳太子の像も立っていました。
本堂から見下ろした剣鎧護法堂
毘沙門天の使い(もしくは化身)と言えば虎に加えてムカデも有名ですが…やっぱりいました。

なにしろ広大な境内に多数のスポットがあるので紹介しきれませんが、先述した剣鎧護法堂のほかにこちらも信貴山縁起絵巻とかかわりがある伝承を持つ「空鉢護法堂」なんてスポットもあります。


さらにこの空鉢護法堂のすぐ近くには「信貴山城址」の碑も。そう、この地は戦国時代随一の梟雄として名高い松永久秀が爆死した(これも伝承の類なのでしょうけど)信貴山城があった場所でもあります。


日本で最初に天守閣を備えたお城はどこか?についてはいくつかの説があると思いますが、この信貴山城はその有力候補のひとつ。松永久秀の滅亡後に廃城となったため当時を偲ばせる遺構はほとんど残っていませんが、かろうじて当時の名残を伝える…というか想像力を働かせれば歴史のロマンを味わえそうな痕跡を見ることができます。

何しろ伝えられる松永久秀の死に方が死に方ですから、このあたりを歩いていると「この辺に平蜘蛛の欠片でも落っこってるんじゃないの?あったら大発見じゃん」とスケベ心がムラムラと込み上げてきてついつい視線が下に向いてしまったことを正直に告白しておきます。

というわけで、東京国立博物館の「やまと絵」展は美術が好きな人よりもむしろ歴史や古典文学が好きな文系の人のほうが楽しめる展覧会ではないかと感じました。

わたしが見に行ってきた時に展示されていた信貴山縁起絵巻は残念ながら護法童子が登場する巻ではありませんでしたが、展示替えで11月7日から護法童子が登場する「延喜加持巻」が公開されます。見逃すな!…って見逃した人間に言われたくないですね(笑)

最後にもう一つ、この展覧会とも朝護孫子寺とも直接関係ありませんが、ちょっと面白い絵巻物を紹介します。「是害坊絵巻」と呼ばれるもので、室町時代に作られたと考えられています。

これは是害坊という中国からやってきた自称「大天狗」が日本を制圧しようと試みるものの、その試みがことごとく僧侶の験力の前に失敗するという話。しかもこの是害坊は超強気な性格をしており、毎回大口を叩いてはコテンパンにやられる、という展開が繰り返されます。これがとてもおもしろくて、「うわ~、こいつバカだわ」とツッコミ入れつつ楽しく読めます。

慶應義塾大学のメディアセンターデジタルコレクションのサイトでこの絵巻の一部を見ることができます。↓

そのなかに是害坊が童子たちにタコ殴りにされているシーンがあるのでぜひ見て笑ってやってください🤣。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?