みゅぜぶらん八女の蔵書⑪

 蔵書No.91
(著者)三浦つとむ
(書名)日本語はどういう言語か
(総ページ数)278頁
(書籍の大きさ)15cm(縦)×10.6cm(横)(文庫版)
(発行所)講談社
(発行年)1976年

(解説)
『この本』には、色とりどりの付箋が付けられている。そして、これでもかというくらいの傍線が引かれている。27頁以下の「作者の体験と鑑賞者の追体験」の箇所は、何度読んでも面白い。という訳で、何を考えようとしているのかが、自分自身でも、訳が分からなくなっている時、いまでも、書棚から取り出して時々読んでいる。このように、『この本』を繰り返し手に取っているのは、考えている(というコトを行っている)私自身が、<「ことば」を使っているというコト>をあらためて意識させてくれるからであろう。 (今から見ると)妙な箇所に、かつての私が、なぜだか、傍線を引いている。

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蔵書No.92
(著者)リュス・イリガライ(浜名優美 訳)
(書名)差異の文化のために
(総ページ数)138頁
(書籍の大きさ)19.5cm(縦)×13.4cm(横)
(発行所)法政大学出版局
(発行年)1993年

(解説)
邦訳された『この本』の原著は、Luce Irigaray“JE,TU,NOUS-Pour une culture de la difference-”(Éditions Grassert & Fasquelle,Paris,1990)である。コノ本が訳出される少し前、日本では、1985年に「男女雇用機会均等法」が制定されている。「男」・「女」という「ことば」を使っての、制度としての「均等(≑平等)」促進であった。そのようなときに、私は『この本』をどのようなモノとして読んだのであろうか。はっきりとは覚えていないが、「ことば」というものに傾注するきっかけを作ってくれた一冊が、多分、『この本』なのであろう。『この本』は、ソレまで気づくことのなかったコトの多くのコトを、私に教えてくれた。

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蔵書No.93
(著者)立川健二・山田広昭
(書名)現代言語論-ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン-
(総ページ数)262頁
(書籍の大きさ)19cm(縦)×13 cm(横)
(発行所)新曜社
(発行年)1994年(7刷)

(解説)
「法的思考」や「行政的思考」が基本であった私が、「ことばというモノ」全体についての「見取り図」はないかと思って購入した一冊が『この本』である。結果は(私にとっては)「大当たり」で、とても分かりやすい『本』であった。有難いことに、「なるほど、このように表現すればよいのか」という具合に、表現方法も学ばせて頂いた。『蔵書No.91』と同じくらいに、色とりどりの付箋が張り付けられているママである。

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蔵書No.94
(著者)マリナ・ヤゲーロ(青柳悦子 訳)
(書名)言葉の国のアリス-あなたにも分かる言語学-
(総ページ数)334頁
(書籍の大きさ)21cm(縦)×15 cm(横)
(発行所)夏目書房
(発行年)1997年

(解説)
邦訳された『この本』の原著は、Marina Yaguello“Alice au pays du langage-Pour comprendrela
linguistique-”(Éditions du Seuil,Paris,1981)である。『蔵書No.91』、『蔵書No.93』と同じく『この本』にも、付箋が貼りまくられている。『この本』を読む楽しみは、基本的な事柄についてのフランス語(原文)表現を上手く残して訳出していることと、多分、関係している。そのようなコトから、「言語学」から遠い私が、楽しみながら読んでいるうちに、じわじわと「言語学的な頭」になっていった。

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蔵書No.95
(著者)ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明 訳)
(書名)言葉と物—-人文哲学の考古学--
(総ページ数)413頁(巻末に索引61頁)
(書籍の大きさ)19.7cm(縦)×14 cm(横)[ケース20.4cm(縦)×14.3 cm(横)]
(発行所)新潮社
(発行年)2004年(40刷)

(解説)
翻訳された『この本』の原著は、Michel Foucault“Les mots et les choses—-UNE ARCHÉOLOGIE DES SCIENCES HUMAINES--”(Éditions Gallmard,Paris,1966)である。私の手元には、もう少し初期の刷があったような気がしていたが、どこかに行ってしまったようで、手元にあるのは40刷(2004年)のモノである。『この本』の冒頭部分にある「シナのある百科事典」(13頁)を使用している箇所の意味するところのコトは、(なんとなく ???)よくわかる。私が気にいっている「アナトミー」の分厚い一冊を手にとって、ずいぶん昔の(無茶苦茶なような)「絵表現」のコトを、私がどのようなモノとして他者に紹介するかというときにも、類似のコトが生じるのであろう。もし時間があれば、ということになるが、全体をゆっくり読みたい。

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蔵書No.96
(著者)野矢茂樹
(書名)他者の声 実在の声
(総ページ数)329頁
(書籍の大きさ)19.5cm(縦)×14 cm(横)
(発行所)産業図書
(発行年)2010年(3刷)

(解説)
蔵書No.91から蔵書No.95までの流れを理解していただければ、蔵書No.96がココにあることはそれほど不思議なコトではない、となるはずである。私の場合でいうならば、蔵書No.96の前にウィトゲンシュタインが潜んでいるのであるが。ということで、『この本』にも「付箋」と「傍線」が山のように。私事で言うなら、野矢茂樹氏の[「思考しているコト」と「ソレについての説明の方法」]については、ずいぶん以前から魅了されていた。とはいっても、私のほうが、かなり年上なのだが。野矢茂樹氏が、様々な箇所で執筆したモノを、見事に「一つのモノ」(という形)にした一冊が『この本』であると言ってもよいであろう。

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蔵書No.97
(著者)フェルディナン・ド・ソシュール(トゥリオ・デ・マウロ 序/菅田茂昭 新対訳)
(書名)一般言語学講義 抄
(総ページ数)223頁
(書籍の大きさ)21cm(縦)×15 cm(横)
(発行所)大学書林
(発行年)2013年

(解説)
付記によれば、邦訳された『この本』の原書は、Ferdinand de Saussure, “Cours linguistique générale”, publié par Charles Bally et Albert Sechehaye avec la collaboration de Albert Riedlinger,(édition critique prepare par Tullio De Mauro Payot,Paris,1972)(テキスト自体は旧版のまま)ということである。どういう訳だか、11頁の「・・・対象が観点に先行してあるのではなく、観点によって対象が作り出されることになり・・・」の部分に、クロのボールペンでアンダーラインが引かれている。

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蔵書No.98
(著者)J.L.オースティン(坂本百大 訳)
(書名)言語と行為
(総ページ数)383頁
(書籍の大きさ)19.5cm(縦)×13.8cm(横)
(発行所)大修館書店
(発行年)2014年(16刷)

(解説)
訳者の「あとがき」によれば、『この本』は、1955年、J.L.AustnIがアメリカのハーヴァード大学で行った講義“How to Do Things with Words”(「いかにして言語を用いてことをなすか」)を、オースティンの没後1960年に、J.A.Urmsonが編集して、同題名の下にオックスフォード大学出版局から出版されたモノの邦訳である。『この本』の組み立ては、「前提となるコト」を了解(≒理解)していないと「そのあとのコト」が理解できないという、ガチガチのモノであるから、13頁の「言うことが行うことであり得るか」あたりまでは楽しく進むのであるが、そのあとがなかなか進まない。読者である私は、「オースティンの何か」を使ってやろう、なんて邪なことを、多分、考えているのであろう。

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蔵書No.99
(編者)早稲田大学 平山郁夫記念 ボランティアセンター
(書名)体験の言語化
(総ページ数)281頁
(書籍の大きさ)21cm(縦)×15 cm(横)
(発行所)成文堂
(発行年)2016年

(解説)
『この本』は、私が在職中2年間近く副所長を務めた箇所(=平山郁夫記念 ボランティアセンター)で提供していた、同名の講義の成果を一冊にまとめたモノである。執筆陣は、当時の総長を始め、平山郁夫記念ボランティアセンターの関係者である。とはいっても、中心的な執筆者は、講義担当経験者である。『体験の言語化』というタイトルに期待して読んだ方がいたなら、読後、感じるであろうコトの一つは、キーワードである[「体験」と「言語化」]の構造について、なんとか踏ん張って執筆したというモノがほとんどない、というコトであろう。折角一冊にまとめるチャンスを頂きながら、執筆者である講義担当経験者の多くが、講義名(=固有名詞)としての「体験の言語化」に縛られ、一般化できるところまでの考察が出来ていないコトは大変残念である。

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蔵書No.100
(著者)ラッセル・B.グッドマン(嘉指信雄・岡本由紀子・大厩諒・乘立雄輝 訳)
(書名)ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ・・・プラグマティズムの水脈・・・
(総ページ数)324頁(訳注・原注・索引を除く)
(書籍の大きさ)19.5cm(縦)×13.5cm(横)
(発行所)岩波書店
(発行年)2017年

(解説)
『この本』は、Russell B. Goodman“Wittgenstein and William James”(Cambridge University Press, Cambridge ,2002)の全訳である。『この本』にも、付箋が貼りまくられている。法学を基盤としていた私が、チョットしたきっかけで、ウィトゲンシュタインに惹かれていった。とはいっても、正直なところ、ウィトゲンシュタインだけを読んでいても、深みにはまってしまい、何が何だかよくわからない。そんな時、出会ったのが『この本』である。とりわけ、「人間であるとは、どのようなことなのか?」(第4章・157頁以下)は楽しませてくれる。歳をとってからの私の思考方法に大きな指針を与えてくれた一冊である。

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