観音開紅姫改メと浦原喜助の考察

結論

記事の書き方が全然安定しないがとりあえず初手結論。
紅姫、観音開紅姫改メは斬魄刀じゃない。
浦原喜助は死神じゃない。
まぁ、確かに紅姫は浦原喜助の斬魄刀解放で出てくるし、浦原喜助も死神として護廷十三隊にいた事はいたわけだし、多分肉体的には紅姫は斬魄刀、浦原喜助は死神なんだろう。
だけど違う。
紅姫こそが本体、死神であった存在で浦原喜助こそが本来斬魄刀の中に存在するべきであった存在。
「転神体」
一護の卍解習得のために使われた道具であり、作中では一護を除けば浦原喜助が成功させたのみ。
ただ「結果」として卍解を短時間で習得できる可能性がある、という事を夜一、そして読者が知っているだけなのである。

根拠・始解「紅姫」

始解である紅姫はいくつか技を持っているがその中で「血」を使った技がある。
紅姫の身体を使った攻撃でほかにも「突ッ撥紅姫」などある。
紅姫という名前もあって「血」についてそこまで違和感はないのかもしれないが「虚」と同質である斬魄刀の中の存在が人間、あるいは死神のように「血」を流す筈がない。
仮に斬魄刀も血を流すのであれば紅姫以外の斬魄刀だって人の形の存在は多い。
それに「血」 で攻撃できるなら鬼道やら瞬歩やらがある世界だ。死神自身が血を出して使えば良い。
一刀火葬のような犠牲破道に近いものなのだろう。
だからごく僅かな血でも強力な力を発揮出来る。
そんなリスキーな技、本来なら使いづらいがいざとなれば出し惜しみしないのが浦原喜助。
そしてその浦原喜助をネットでは「サイコパス」と言う。

サイコパスの定義

この項で説明するのはあくまで例え話であり、差別的な話をするわけではない。
またBLEACHとはあまり関係ない話になる。
サイコパス、よく使われる言葉になってしまったがどういう認識で使っているだろうか。
自己中心?非情?犯罪者?
自分は「女性の性質の上に男性の性質が乗っている」という例えを使う。
まず女性の性質とは何か。
それは「決断する性質」、「最低限で満足する性質」「捨てる性質」 と考えている。
女性は人間、としてではなく動物的な雌として優秀な雄を選ぶ必要がある。
また古代からマルチタスクで家事、育児、その他雑用をこなす必要がある。
そのためには「迷う」事は極力減らさなければならない。
「拘る」事も少ないほうがいい。
もっといえば「タスク」そのものが少ない方がいい。
一方男は、というとその逆で「迷う性質」「満点に拘る性質」「集める性質」である。
「どちらが良いか」という迷いから「吟味」が生まれる。
「満点に拘る」から「情熱」が生まれる。
「物を集める」から「選択肢」が生まれる。
では自分の説明した「女性の上に男性」とはどういう状態か。
「最低限」という狭い範囲、それは「自分」の事。
その自分に対して「100点満点」を追い求める。
単に自己中心などではない。
自己中心はあくまで中心。世界を認識したうえで自分が中心。
サイコパスのそれは世界も見ていない。自分のみ。
自分のために他者を喰らい、世界を利用する。
だからサイコパスは何を言われてもピンとこない。ピンとこないから成長もしないし、後悔もしない。
一方で仕事の能力は非常に高い。恥などないから世界のルールを上手く利用して多くのものを吸収する。
そして他人に対する情けもないから他人への配慮を無視して他人が受け取る筈の報酬、それは単に金銭的な物に留まらず感謝などの精神的な報酬についても躊躇無く奪う事ができる。
つまりは弱肉強食の精神性。
よく日本でも「世界は弱肉強食」なんて言われたりするがサイコパスを擁護してどうする、サイコパスに憧れてどうする、としか自分は思えない。
早い話、ケダモノ、それがサイコパスである。

根拠・サイコパス、浦原喜助

少し考察とは関係ない事でヒートアップしたがつまりは浦原喜助はサイコパス、ケダモノである。
それが虚の証拠、というのは少し弱い。
しかしこの浦原喜助、サイコパスと言われているがもし「卍解」の性格だとしたら非常に優れている。
何せ「千の内、一でも使えれば上等」の考えだ。
よく名言とされていてネットを見れば感銘を受けた、としている人すらいる。
そう。
こんな浦原喜助のような性質、能力の斬魄刀があったら使う側の死神としては滅茶苦茶楽なのである。
ありとあらゆる選択肢を明示し、即座に行動。
しかもコストは殆どない。「生きてさえいれば丸儲け」 。
この性質が斬魄刀に反映されているから観音開紅姫改メは浦原喜助の斬魄刀、というは今度はサイコパスの話での「ケダモノには精神性の成長はない」に引っかかるのである。

根拠・大いなる業、錬金術

錬金術、と言われて何を想像するかは人それぞれだがとりあえず「賢者の石」と呼ばれるフィクションでは有名な「何でも出来る石」を作る作業。
観音開紅姫改メの能力はコレに近い。
この賢者の石の制作過程には過去には5、最終的に統合された過程があり3段階になっている。
1段階目→ニグレド(黒化)。不純物の燃焼、個性化、浄化。
2段階目→アルベド(白化)。精神的な浄化、啓発。
最終段階→ルベド(赤化)。神人合一、有限と無限の合一。
このルベド、赤化によって作られるのが賢者の石という神の如き力を持つ石であるがコレらの工程が人間の成長段階も示しており、作られる黄金を人格形成に例えられるものでもある。
つまりサイコパスの浦原喜助が人格的に成長しないのであればニグレドの工程までしか辿り着けない。
観音開紅姫改メのような完成された能力とは程遠い力になる。
一方で浦原喜助がサイコパスではなく、精神的な修行の後にたどり着いた思想が現在の浦原喜助なのだとすれば納得はいくがそれならば実年齢ではなく、人格の成長で変化する死神達で判断すると浦原喜助は若すぎる。
山本元立斎くらいの年齢ならまだしも、見た目的にはどう高く見積もっても30代。
青春期である。朱夏にすら至っていない。
山本元柳斎の残火の太刀での考察で北→東→南→西の順番で人生の季節が表されると考察し、それに当てはめて考えた場合の独自解釈ではあるが、どちらにしろ観音開紅姫改メの能力は強すぎる上に完成されすぎている以上、ここから先の発展は見えないのである。

根拠・観音菩薩

そもそもとして観音開紅姫改メの名前を見て「観音菩薩」がモチーフなんじゃないか、というのは神話に疎い人間でも分かるだろう。
自分もそう思っているし、観音菩薩の力は「自在」。
観音開紅姫改メの能力にも当てはまっている。
しかし、この観音菩薩。
発祥とされるインドにおいては男性とされ、それから伝わる中で中国において男尊女卑、女性蔑視に苦しむ女性達の声により男性から女性に性転換した存在でもあり、一応「自在」とあることから性別すらも自在に変えられるという解釈はできるが現実の観音菩薩は男→女に変化して以降変化はなし。
女の姿が完成体とするならやはりBLEACHの観音開紅姫改メも「男」の姿から「女」の姿が未来の姿、最終形態と捉えるのが自然に思える。

菅原紅姫

自分は歴史はまるで苦手なのだが菅原道真公の子に紅姫という名前の娘がいたらしい。
菅原道真公が左遷させられた時に病床だった母に別れを告げて弟とともに父、道真公と京都へ。
しかし旅の道中、弟が死に、母も死んだ知らせを受け、さらに父も死ぬ、とまさに踏んだり蹴ったりの人生で最終的には紅姫自身も死んでしまう。
BLEACHの紅姫がこの道真公の娘の紅姫がモデルかどうかは分からない。
しかしこの紅姫がモデルだとして斬魄刀は果たしてあんな能力になっただろうかと疑問に思う。
ところが逆にもしもこの非業の死を遂げた弱い紅姫が死神であったなら。
斬魄刀に浦原喜助のような理想を強く念じたと考えてもおかしくないのではないか。

零番隊、修多羅千手丸との関連性

ネットでは修多羅千手丸と浦原喜助の関連性、また何処となく修多羅千手丸と紅姫が似ているという事もあり何かあるのでは?という話もある。
自分は以前、別の記事で零番隊は王悦以外はそれぞれが自分の斬魄刀、と言っている武器のフルブリングによって具象化した存在、王悦親衛隊みたいな存在だと思うと書いた。
ではその具象化された魂はどこから来たのか、といえば現実に過去に居たのだからそこから切り分けられた魂と考えるのが自然だろう。
ドラゴンボールの神様とピッコロみたいな物だ。
元々は修多羅千手丸という12番隊の死神がいて零番隊に昇進した。
その際に修多羅千手丸という力の塊、強さの大部分を持って行かれて死神として弱体化したのが紅姫。
紅姫が力を強く願い手にしたのが浦原喜助。
別の記事で書くつもりだが多分この段階では「直接攻撃系」の斬魄刀だと思う。
しかし弱体化した紅姫には直接攻撃系の始解など無価値に等しい。
早く力を、と焦って転神体を起動させて立場が逆転。
本来なら「 今」の自分が死神で「過去」の自分が斬魄刀。
しかしそれが逆転したおかげで「今」の浦原喜助にとって「未来」の自分が紅姫。
過去の自分なら血を使って戦えば身体に影響が出るかもしれない。
しかし「未来」の自分ならいくら血を流そうと「今」には無関係。
いくら血を流そうと無数にある未来の可能性の一つの紅姫でしかない。
実質弾数無限である。

虚は嘘がつけない 

魂魄について考察した時に「嘘」をつけるのは、つまり過去のウルキオラのエピソードで登場した仮面無しの虚が口を持ってはいるが「本能的」な行為、捕食にしか使わない。
また「魄」、白い鬼である過去のクインシーには眼しかない。
つまり嘘つけるのは「魂」 、「 云う」 鬼でありそれが霊王である。
霊王には「口」と「眼」、そして恥(耳と心)を感じる事ができる「耳」を持つため「云う」事ができ、「嘘」を告げる事ができる。
ネットの浦原喜助についての話にはサイコパスであると言う評価と「藍染惣右介と違って嘘は言わないが肝心な事も言わない」 というのが割と目につく。 
果たして浦原喜助は「嘘」 を「 言わない」だけなのだろうか。
口を本能的な生きるための行為にしか使えないから嘘を「 言えない」のではないか。

まとめ

一応そんな感じでの理屈をつけました。
やってる事は考察というより連想ゲームに近いが
・ 観音菩薩は男から女に性転換した事。
・サイコパスはケダモノ
・虚の「嘘」についての性質
・浦原喜助の若さに反して完成されすぎた観音開紅姫改メの力。
信じるも信じないもこの記事を見た人の好きにしたらよろしい。
自分なりに楽しんで考察して公開してるだけなので。

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