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ジョジョ・ラビット【戦時下のドイツ】

すごい映画を見た。
ジョジョ・ラビット。

内容を要約すると
「ナチスドイツ化で洗脳されていた男の子が、当時迫害されていたユダヤ人の女の子との出会いをきっかけに、自らの洗脳と無意識的に向き合っていく話」である。

この映画の面白かったところは、
「コメディとシリアスの揺さぶりが加速度的に強くなっていく」ところである。

基本的にはコメディ調なのだが、それが、途中で差し込まれるシリアスなシーン、戦時下ならではのキツいシーンのエグみを増大させる。

そして、そのエグみが、また次のコメディシーンの緩和を増大させ、それがテンポ良く繰り出されることで、揺さぶりの幅が大きくなっていく。
(作品の作り方としてのお笑いの勉強にもなりました)

そして、最後は祝祭で終わる。


話は変わるが、
教育学を学んだものとして、この映画を通じて「教育」と言う機能が持つ恐ろしさをひしひしと感じた。
恐ろしさは主観が入ってる言葉なので、より客観的に言えば「強さ」である。

「教育」は、「教えるもの」と「学ぶもの」の間に生じる作用であり、
学校教育、社会教育、家庭教育など、さまざまな種類がある。

陳腐な表現で恐縮だが、「教育」は武器となる。今回の映画では、まだ就学前の子どもである主人公がユダヤ人に対して明確な差別意識を持っていた。そして、戦争に向かうことが勇敢とされていた。男として、ドイツ人として。

一方で、この子どもを見た時にかわいそうと思えるのも、これまた僕たちが受けてきた教育の成果なのである。

「教育」の力は強いが、万能ではない。
特別なものでもない。
どこにでも発生するエネルギーなのである。


また、今回、興味深かったのは、主人公の思想が無意識的に変わったところである。
子どもが持つ言葉や語彙は少ない。
それは、(一般的な言説空間の領域において)視野狭窄状態であることと等しい。創造性などを代表とする非言語領域の豊かさは別の話である。

だから、レトリックに騙されやすいし、ポピュリズムの罠に陥りやすい。
ナチスドイツ化で、ユダヤ人の差別意識を養った主人公は、「なぜユダヤ人を嫌いなのか」を言語化できていなかった。理由なき差別である。

しかし、最終的に主人公は、洗脳が解ける。ヒトラー(らしき人)を吹き飛ばすのである。
洗脳が解けたのは、愛と痛みのおかげであった。
そこに言葉における理由はない。つまり、「なぜ差別しなくなったのか」の答えとなる明確な言葉は示されていない。
悲しくて、そして愛しているから考えが変わったのである。

これらを、映画として描いた本作は、非言語的な「教育」のあり方を描いたとも言える。


昨今中東地域の情勢に関する報道が多い。
クレイジージャーニーでは、とある難民キャンプの実情が語られていた。
ジョジョ・ラビットで描かれていた世界に近い。
是非今こそ見て欲しい一作である。(少々ショックなシーンあるので気をつけて!激しいグロとか、ホラー要素はないです)


今回はちょっと真面目すぎたけれど、
気軽な投稿も全然するので、ちらっとまた覗きに来てください
おすすめ映画も募集中です。

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