つらつら(めっちゃヘコんでたときにnoteに書いてた文章)

つらいつらい

辛かった 辛かった

侮辱を受けた。正確には侮辱ではないが、侮辱と受け取られるかもしれない言い方をされた。誤解を恐れずそういうことを言えるってことは、もう侮辱しているのだ。侮辱になる可能性があると気づかないほど、気の回らない人ではないのだ。

ともすれば嫌われていたということになる。5日目だ。その人に会ってから。5日で嫌われるのか、僕は。それもつらい。僕はその人を嫌いなわけではないのだ。

その人に限らず、僕は大体の人が嫌いじゃない。優しい言葉をかけようと思うし、かけられたいとも思っている。

でも、そんなにうまくはいかないということだ。辛すぎる。何をしたというんだ。「嫌われた」だけ、受動態だ。その人が僕を嫌った。僕が嫌われるようなことをした、ということだ。

嫌いじゃないのに嫌われることをした、ということだ。これは由々しき事態だ。5日でだ。効率がいい。つらい効率だ。

意図してないし、何をして嫌われたのか分からない。ということは、これからも嫌われる行為をしてしまうということだ。意図せずにだ。地獄か?その人が僕を全く理解できていないか、僕が全くその人を理解できていないか、その両方かだ。

言葉は通じるはずなのに、コミュニケーションに圧倒的な壁が生まれてしまっている。その壁には無数の棘がついていて、歩み寄ろうとすると必ず傷つくのだ。思わず押しやられた壁は、当然相手の方に飛んでいってずたずたにするのだ。そいつが僕だ。当たり前につらい。つらいはずだ。

重くて苦しい。詰まったように胸が苦しい。叫びたいが近所迷惑だ。つらいつらいと書くしかない。

つらい思い出が頭の中で何度でも甦る。あの顔、あの発言、その時の自分の顔のひくつき、声のうわずり、視界のぼやけ。あれは涙じゃない。心の血だ。心が傷ついたら流れる血だ。生きているのだから、当たり前に流れるものだ。

しかし僕は良い大人だ。涙を見せたら呆れられる。呆れられる恥ずかしさはかつてあった。が、実はこの経験はかれこれ3回目だ。相手も状況も違うが、よく僕は泣くものだ。つらいときは涙が出てしまう。これを我慢しようとはいまいち、思えなくなってしまっている。悲しくて泣いてるとか、最早そういうわけではないのだ。

泣いていたその瞬間は、やってしまったなぁと客観的に自分をみる心地になった。過去2回、制御しようと思ってもできなかったのだ。変なのか。変なことを言っているのか。そんな馬鹿な。みんな何故泣かない。

何で泣くのか、自分でも分からない。心が傷ついたことは何となく分かる。ものすごく自分が貶されて、ありとあらゆる手段で惨めにされて、そんな自分を反省すると、溶けた心臓が流れ落ちていくような、ずうんとした心地になる。

こうなっては外部からのどんな働きかけも無意味だ。心に大きなナイフが刺さったような感覚。噴き出してくるものは胸から鼻や目に伝わって溢れ出す。

まずは顔がひくひくと動く。制御できない。どうにか表情を作ってコミュニケーションを取ろうとするが、声が震える。音程も不安定で、ビブラートがかかって間抜けなしゃべり方に聞こえる。だんだん眼球に水分が集まってきて、まつげを十分に湿らせてから機を見てポタリと落ちる。ハンカチで目を抑えると、過剰に濡れていた分だけハンカチに水分が移り、その分だけ眼球に水分が補充される。それも吸っていく。ハンカチがどんどん濡れる。

話す内容は考えられるし、相手の言ってることも理解できる。ベストコンディションなわけはないが、僕の脳みそ自体はそこまで乱れていない。受け答えの内容は作り出せるが、全く身体が言うことを聞かない。完全に声を震わせてなくモードに入ってしまうのだ。

自分がひどく傷ついていて話すこともままならない状況である、ということを伝えるにはあまりにも適切な身体表現だが、社会からみると正しい表現とは言えない。公の場で泣き崩れるのだから、それは失禁や嘔吐に等しく生理現象に支配された患者である。それが悔しい。

強がりに聞こえるかもしれないが、そこまで悲しくないのだ。つらいが、それはそういう体験をした後の気分が最悪だという話で、

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