敗戦記録 「本居宣長」(小林秀雄著)

遂に読めない本が出てきてしまいました。日本語で書いてるのにね。

敗戦というのはつまりそういうことで、「読破=勝利」の式が成り立っているので、その反作用で敗戦という概念が生まれるのです。

勝利の後の宴の気持ちで読書感想文を書いて、優越感や自己陶酔はアルコールの何倍も気持ちいいんです。そう、トリップに等しい。ともすればこの敗北は典型的なバッドトリップ、ドラッグの話ですが。

でも書きます。お金がもったいないし。良い本なんだか知りませんが、ブックオフの中でも結構いいお値段しました。ブックオフで値が落ちない本っていうのは、良い本なんです。

内容は言わずもがな、本居宣長についての本です。本居宣長の半生が綴られたとかそういう本ではなく、本居宣長が考えたことが本居宣長の著作から読み取れるよね~、みたいな主張の本です。

江戸時代の中期?幕末でも出来立てでもない頃ですか?思想家として名高いそうで、その時代には画期的な思想家でいらっしゃったそうですよ?彼は。「もののあはれ」ってのが大事なんだとおっしゃってたそうです。

200ページきっかりで読むのをやめた自分が解釈したところでは、歌だの物語だの聞いたり読んだりする際には、作者の時代や書いてるときの気持ち的なものを大いに汲んでその作品を感じて楽しむことが大事、みたいなことでしたね。何?違うって?でしょうね。

例えば、本居宣長が言うには、ある凄腕の陶芸家の作品を、ただ見てまねるだけじゃあその陶芸家の作品以上のものは作れないぞ、と。その陶芸家がどんな意識や意図でその作品を作ったか、その凝らしどころを汲むのが肝要だぞ、と。これが「もののあはれ」ってやつなんだわ。

世の中のものは「あはれ」を感じてなんぼのものなのよ。陶芸の「あはれ」を心得ることで初めて作品の「あはれ」要素を見抜けるし、そうなると作品の美しい造形は、作品をみる人がもつ「あはれ」の心があって初めて存在できるよね。みんなも「あはれ」心得よう!とまでは言わないけど、俺はこの「あはれ」、信じて突っ走るからよぉ...!夜露死苦ぅ!

みたいな感じでしたね。後半は創作しました。ゴミ解釈です。

こんな文章じゃわかりませんよね。ともかく、ほかの人が解説したものより自分で感じることが大切、的なことも言ってたような気がします。なんか本居宣長の時代は古典の読み方が、やれ教養だのやれ学問だのと固っ苦しくてつまんなかったらしく、そんな時代に画期的な古典解釈というかイカした読解をしたのが本居宣長なんですってさ。

で、なんで読めなかったの?って話なんですが、古文の引用が多くて全然意味わかりませんでした。

実は前述してるんですが、やっぱ人の解釈より自分のマインドが重要だよね、みたいな本居宣長の主張になるんで、解説抜きの引用が引っ張り出されてきて、「ほら、宣長もこう言ってるから!」という流れで本が書かれてるんすわ。

いや読めんが?ってなってしまい、つらい気持ちで日本語を追いかけましたが、200ページぴったりまで読んで、日本語として意味がわかるの100ページくらいでしたかね。主張として理解できたのは数ページ分?理解したものが本の主張と合ってるかどうかを確率で考えると、この本を読んで分かったことは0に収束する?

何も読んでいない?ではこの時間は一体?

となってしまって読むのを諦めました。手ひどくやられた気分。

この本がおすすめな人はやっぱり古文をすらすら読める人?その筋の方ですかね。古文を大学で専攻してる人?高校で古文めちゃ得意だった人も書かれてることの意味は何となく分かるのでしょうか。もしくは本居宣長ファン?源氏物語ファン?古事記ファン?失礼ですが、もう堅気じゃないですね。

まったくもって古典やくざの必読書ですな!

遠吠えはもう十分なので、めそめそと文を繋ぎます。いやはや、読んでいて大変な気持ちになりました。

200ページぴったりまで文字を目で追ったのは、やっぱこれを読んだら教養が大変な人物になれるのでは?とか少なくとも読む前の自分とは違ったものの見方ができるのでは?とか思ったからです。お金ももったいないし。

読んでて、ページ数確認して、ふと天井を見上げたら、「やーめた」という言葉が口から出てきましてね。なんだか淋しくなって、読むのをやめました。

でももう淋しくないですね!ここに書いてすっきりしました。本選びは慎重にしないと、こんな気持ちになるんですから。

あぁ、これが「あはれ」ってマインドなんすかね?

違うか。

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