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フランドルの冬

何年か前にブリュッセルからブルージュまでフランドル地方を旅しました。フランドルの風土や気質といったものに触れたくて手にとったのがこの小説です。1967年に出版された加賀乙彦の処女作です。加賀乙彦は70〜80年代にもっとも旺盛な創作活動をおこなっていましたが、なぜかこれまで縁がなくてはじめて読む作家でした。

フランドル平野はベルギー北部からフランスの北端まで広がっていて、そんな国境にちかいフランスの僻地が舞台です。この地方はフラマン語、すなわちオランダ語方言が母語で、町の居酒屋の労働者のあいだではフラマン語が飛びかっていますが、登場人物たちが働く精神病院はすべてフランス語の世界です。

日本からフランスに留学した精神科医コバヤシが一応の主人公ですが、章ごとに別な人間の視点から描かれいて、小説は複数の人間の複数の内面が交錯し複雑な構造をしています。くわしい分析などしていませんが、おそらく事前に綿密に構想を練り、そのメモに基づいて小説をつくりあげた気配があります。

小説の題名は「冬」とありように、デュピベル家のクリスマスパーティの準備の場面からはじまります。しかし小説の時間軸は登場人物の視点により行きつ戻りつします。第3章になってはじめて主人公コバヤシの内面が描かれますが、そこで物語はパリからフランドルの病院へ移る一年前まで一気に戻ります。

コバヤシの視点では、パリからフランドルの病院に移る春に物語はもどります。春から夏にかけて神父の脳梗塞での急死や、県知事の病院視察での騒動があり、秋にコバヤシが美しい看護婦のニコルと愛しあって同棲をはじめますが、クリスマスのあとに別れることになります。

そのあとにクルトンが自殺し、コバヤシも交通事故で重症をおい、ドロマールが同性愛を告白する、とことばにすると単純なものになりますが、その一年間のできごとが、それぞれの登場人物の視点から描写され、小説はその都度なんどもなんども時間を反復して語られることになります。

小説を読むわたしたちは迷宮のなかにいる感覚におそわれます。それぞれの視点からのみ語られるので、本当の事実がわからなくなっていくのです。たとえば例をあげると、ニコルは妊娠して流産するが、その父親はコバヤシなのか? あるいはクルトンなのか? 最後まで読者にはあきらかにされません。

事実があきらかにならない、いやそもそも客観的な事実というものが存在するのかが疑わしくなってきます。これは実は19世紀に隆盛をきわめた小説の「神の視点」にたいするアンチテーゼです。すなわち両大戦間から戦後のしばらくのあいだに欧米でなされた「全体小説」の試みがこの小説でなされています。

日本の伝統的な、たとえば私小説といった形式などとはまったく異なる小説です。批評家の江藤淳がこの小説を「フォニイ」(つくりものといった意味)といって嫌ったのもこのあたりにゆえんがありそうです。加賀乙彦のつかった構造は、かれのような心をうけとめるのに適していなかったのかもしれません。

ですから表現が構造をはなれるとき、人物ははるかに生き生きとして自由に動きだしています。コバヤシとニコルの恋愛の描写はフォニイなのかもしれませんが、それでもふたりが語らい愛撫しあうときなど、小説家の筆は構成の枠組を逸脱して、小説の醍醐味ともいうべき世界にはいっていくようです。

当時、加賀乙彦とおなじような問題意識をもって小説を書いたのは、もちろんそれぞれ小説家としての資質は異なりますが、中村真一郎や福永武彦、辻邦生、あるいはスタンダリアンとしての大岡昇平といった作家がいたでしょうか。しかしその後の日本の文学は、かれらの意図した方向には進みませんでした。

彼らのあとに来たのは、きわめて個人的なできごとを「普遍」に一気に転化させる超レアリズムの小説を書く大江健三郎だったり、それこそかの村上春樹だったりしたのでした。時代の変化を感じさせます。

写真は車窓からみたフランドル平野の朝霧。

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