見出し画像

東日本大震災の食べもののうらみ

3月11日をむかえてみなが震災の思い出を書いているので、わたしも書きます。わたしの病院は津波とは縁遠い仙台市内の山のほうにあります。耐震設備もしっかりしていて、揺れもたいしたことなかったですが、とにかく長かったと覚えています。すぐに電気が使えなくなって情報から遮断され、沿岸での甚大な被害も知りませんでした。

自家発電による電気は通常の10%程度で、人工呼吸器や集中治療室の暖房優先で、病院内は日中でも暗くとにかく寒かったです。電気も水もだめになった市内のほかの病院は次々と機能を停止しましたが、水道が奇跡的に生き残った当院に救急や転院が次第に集まってきて、昼夜を問わず徐々に忙しくなりました。

電気や水、ガスなどのライフラインの復旧は病院を最優先とさてくれて、4日目に照明がいっせいに点灯したときは院内から歓声があがりました。震災から10日間は妊産婦さんがひっきりなしに飛び込んできてはお産となりました。電話が通じないのでとにかく自分で病院をさがして行くしかなかったからです。

100万都市仙台で機能する分娩施設は3つしかなく、三等分した地域のひとつを担当しました。10日を過ぎるころより機能回復した病院が増えて、ようやくすこし息をつけました。当時は3人の産科医で3日に1回の当直でしたが、電話呼出ができないので緊急帝切は1人でやるか、外科医を適宜拉致し助手にしました。

滅茶苦茶忙しかった直後の10日間でもっともつらかったのはとにかく食べ物がないことでした。電気水が止まり流通も完全に停止すると、コンビニやスーパー、外食産業はアウトです。病院で暇な人は食物集めに奔走しています。山形側から被災地沿岸に物資を運ぶ頭上のヘリを、恨めしげに仰ぎ見ていました。

あちこちで食料を少しずつ分けてもらうのにこども病院のブランドは多少の役に立ちました。それで多少の食料が運びこまれても、しかしほとんどは子どもや妊婦さんなどの入院患者用となって、われわれの口まではなかなか届きません。耐えず飢餓感に苛まされていましたが、栄養学的にみるとそれは精神的なものだったと思います。

どこかのマクドナルドショップも一時的に店を閉めることになり,冷凍庫にあったパティ(牛肉)をすべてうちの病院に寄付してくれました.これで肉が食えるとみなで大喜びしましたが,肉はすべて入院患者さんの給食にまわり,医局にきたのはおおきなごみ袋みたいな袋にはいったたくさんのバンズでした.バンズというのはハンバーガーのパンですね.

かわいて硬いバンズは,飲みものやおかずなしの状態ではなかなか喉をとおりませんでした.結局,医局費で購入して多量にあったふりかけ(「大人のふりかけ」)をバンズにふりかけて食べました.飢えていたわたしたちにとっては,まあ食べられればなんでもおいしかったですけどね.

「いまの状況は単に流通が停止しているためで、日本そのものが壊滅したわけでないから、10日もすればよくなるから」と阪神淡路経験者がなぐさめてくれましたが、実際にまったくそのとおりになりました。院内の食堂のおばちゃんたちが,がんばって米をどこかから調達して,食堂でご飯と切り干し大根をだしてくれました.あのときのあたたかいご飯はほんとうにおいしかったですね。

東北地方の多くは食料生産地です。流通がとまったあのときは、野菜とか牛乳が現地で多量に腐っていたと聞きました。田舎の実家に帰って米とか卵などを多量に持って帰り、病院に差し入れしてくれた看護師さんも多かったです。東日本大震災では餓死者などはひとりもでませんでした。みなが融通しあって耐えしのぎました。

これがもし首都直下型地震だったらどうなったでしょう。ライフラインと流通が完全停止したとき、東京にある食糧は何日間もつのでしょうか。外からの支援物資を待つのも、東京を脱出するのも、どちらもかなりの地獄だと覚悟する必要があります。首都圏のみなさまの幸運をお祈りいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?