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「命の選別」はいまや思考停止のいいわけ

中絶について議論するとき,かならず「命の選別」という単語がでてきます.新聞雑誌でもテレビでも見出しにはかならずそう書かれます.数年前に記者さんと徹底的に議論したことがあって,そこでも議論をもとに記事を書いていただいたことがありました.「命の選別」はいまや単なる思考停止,思考の怠慢にすぎないから,そこを乗りこえていこうと同意し,それなりの記事になりました.

記事のなかには「命の選別」ということばは一度もでてきません.それにもかかわらず,デスクと呼ばれる編集長が見出しのなかに勝手に「命の選別」といれてしまったのです.「命の選別」はおそらく80年代にはじめてでてきた概念で,みなの注目を浴びて一世を風靡しました.新聞の編集長世代は,わかいときにそういった議論の渦中にいて,40年ちかくたったいまもそこで思考がとまっているわけです.

この真意は,女性はなんらかの意味で中絶する権利をもつことを認めるが,胎児を選んで中絶してはいけない,出生前診断で胎児の性別や病気の有無で中絶をおこなってはいけないということです.

胎児の属性について知らないうちは中絶に関しては自由ですが,一度それを知ってしまえば,中絶するのは「命の選別」になってしまうので,自分でそれを決めることはできなくなる.言いかえればそういうことです.ふつうに中絶することは自由ですが,選択的中絶はゆるされないのは一種不合理な論理です.

西欧的な理性主義からいえば矛盾していて,なかなか理解がむずかしいでしょう.きわめて道徳主義的,あるいは神秘主義的なにおいもします.一般的にいって,中絶をおこなえばなんらかの価値あるものが失われるという感覚は,中絶許容派にも中絶反対派にも共通してもっていると思います.

女性の中絶する権利を認めても,女性当事者やそれをサポートする医療者にたいして,道徳的になんらかの歯止めをかけたいという意思がコモンセンスにはあるのかもしれません.「命の選別」概念でそれをおこなうのがはたして有効なことなのか.感覚的に「命の選別」を振りかざすことに意味があるのか.

なにがいいたいのかというと,結局,中絶についての意思決定の是非は,その状況と独立に存在している人間の権利や道徳原則によって決められるものではないだろうということです.

たとえば出生前診断で21トリソミーがわかったとき,経済状況やほかの家族のためにきちんと世話することができないといろいろと思い悩んだうえで中絶を決めたならば,それも中絶の理由のひとつといてありえることであり、胎児の価値を尊重したことになるでしょう.

それとは逆に(きわめて極端な例になってしまいますが),「そういった赤ちゃんの世話などめんどうくさくってやってられない」と考えて中絶するならば,それは道徳的に反することだと多くのひとが考えるのがふつうです.

中絶の意思決定の背後にある本人の性向や動機によって,その行為の是非が判断されるのがふつうです.中絶をめぐる倫理的な問題の所在が,まずもって権利とか「命の選択」などの抽象概念ではなく,行為の根底にある動機づけなど,女性がおかれている状況や文脈にあると考えるべきではないのでしょうか.

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