遊ぼうぜ、自分。
なにかしなきゃ、自分も動かなきゃ、と焦りを感じているときはさ、多分、誰かと自分を、比べてしまっているときかもしれないなぁ。
誰かの影響を受けたりしてさ、このままじゃ自分はだめだ、と発奮するのはいいけれど、その発奮って続かないよね。だって、遊んでないから。遊びじゃなくて、使命感や危機感から動いてるから、あんまり面白くないんだ。あ、これは自分に対して言っているよ。
面白くないことをしてるときって、やっぱり長続きしない。だって、つまらないんだもん。情熱を保てなくなるんだろうなあ、と思う。
たとえば親から、勉強をしなさい、と尻を叩かれてはじめる勉強って、あんまり身が入らない。まあ、そうだよな、やらなきゃな、って重い腰を上げてしぶしぶ勉強してるときって、面白いとは感じていない。
でも自分から、これを学んでみたい、とエンジンかけてスロットルを開いたときって、どんどんのめり込んで、気がつくと朝になってたりする。誰にも邪魔されたくないくらい、熱中してる。
これは多分、遊んでるから。
知的好奇心を満たしたかったり、知らないものにふれる感動を味わっていたり、知りたかったことのより深みを知れたりすると、とても面白く感じる。これは、遊びだよね。
腰が重いなぁ、と思ってるときって、それをやる必要がないと僕は思ってる。やりたいときにやればいい。こんな考え方をしてるから、快楽主義者だって叱られるんだろうけれど、やりたくないものを無理してやるのは、やっぱりつまらないんだからしょうがない。
気がのらないときって、誰かの顔がちらついてるときだったりもする。それで、やましさを感じて、やらなきゃなぁ、と腰が重くなっているのかも。
そういえば、あれをやると宣言しちゃったなぁ、とか、はやくやって見せてよ、と急かされたりして、どんどん気が重くなる。遊んでないよね。
ちゃんとやろうとするから、気が重くなるのかもしれない、と、僕はうんと前に気がついた。遊び半分、冗談半分で悪ノリができていないから気が重いんだろう、って。
やるからにはちゃんと成果を出したい、とか、きちんとしたものを見せたい、とか、そう考えてるんだね。きっと。大事かもしれないけどね。それが邪魔をしてるんだったら、ちゃんとしたものとかいらないよね。
やっぱりさ、誰かの顔がちらついてるのかもしれない。恥ずかしいものは見せられないとかさ。それってある種、不自由な状態だよなぁ。
どんなものでもいいから、まずはやってみる。遊び半分で、ノリが大事だ。
誰がどう思おうと関係ないや。ちゃんとしたものなんて、後からでいいんだ。まずはどんなもんか、お試しの気持ちでちゃちゃっとやってみる。そのときのノリとか、スピードが大事よね。
気がのらないのは、きっと、遊んでないからかもね。
さあ、遊ぼう!
ときには悪ノリが大事だ!
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