新卒の公務員、鬱だしADHDだってさ。

お疲れ様です。初めての人は初めまして、有機栽培と申します。

ジブレキサ、ロラゼパム、アリピプラゾールそしてストラテラ。これが今私が服薬している薬です。へへっ、立派な病人になっちまったよ。おかしいな、そんなはずじゃなかったのに。効いてるのか分からない薬に頼ることしか、今の私にはできません。

どこから間違えてしまったのか。小学生の頃から、好きな教科は満点、苦手科目は赤点な子供でした。英語の授業はいつも寝てたけど、世界史の授業は教科書をほぼ暗記していたし、センター試験で満点だった。

明るい人間だと自負していた。周りからも「世界が終わっても生きてそうだよね」「あなたみたいな人には会ったことない」と褒められた。得意で奇異な人間だと言われ続けたけど、それは悪口じゃなかった。誰もが温かみのある、羨望した視線をこちらに向けてくれていた。人前に出るのも苦ではなかったし、課題もそれなりにこなしたし、成績も悪くなかった。友達も沢山いた。大学卒業までずっとだ。

今思えばこの楽しかった学生時代も、周囲の優しい目から生まれた勘違いだったのかと思うと、何も信じられなくなる。絶望とはこのことだ。よかったことはいじめらなかったこと、夢を見させてもらえたこと。落ち着きがなく、集中力がなく、協調性のない変な子ども。正しくADHDなのだろう。

人生の雲行きが怪しくなったのは就職活動の時期からだ。「明るくて行動力のある私」は地方を飛び出して東京で就職活動をしていた。しかし全く上手くいかない。原因は明白だった。私は保守的なメーカーを希望していたが、海外を女1人で英語も喋れずに渡り歩いた私の経歴は奇異なものだった。そして面接中、相手の顔が全く見れなかったのだ。

乖離する自己分析と挙動不審な面接態度。普通じゃない返答に、扱いづらそうな自尊心と経歴。ちぐはぐな就活生はそれだけで不信感を煽る。50社を落ちたところで数えるのをやめた。4ヶ月間乗り続けた夜行バスは、私の唯一のゆりかごだった。

結果的に受かったのは防災メーカーとダンボールと大手印刷、そして地元の役所だった。安定志向が強いので親に言われるまま役所を選んだ。笑えるが、これが最良の結果だと思っていたのである。東京と就活に挫折した私は、そのまま新社会人生活をスタートさせた。

田舎の人間にとって、私は快活に見えるらしい。国立大卒の私は期待をされていたのか、この自治体じゃ新人が1度も所属したことがないと言われる企画課に配属された。

地元と言っても、地元なんて大嫌いだったからなんも知らない。知らないのに知ってる前提で話しかけてくる住民、電話越しで方言ばかり話す住人、この土地から出たことがない住人。

安定志向の職員、自分が一年目のことを忘れてるのか過度な要求をしてくる職員、誰も何も教えてくれなくてファイルから学べと訴える視線、周囲に何故か同期が居ないひとりぼっちの私の席、早く来て掃除をしてゴミを捨てろという風潮、田舎から出たことないから結婚と子育てと車しか娯楽がないと思ってる同僚。

絶え間ない無遠慮な県からの照会文書。知らない人からの的外れな訴え。毎日来るクレーマーおじさんの罵声に怯える時間。呆れてこちらを見る上司、威圧感を出してくる上司、定期的にやってくる会計処理。目まぐるしい、目まぐるしいし苦しい。

課長が役所の中で1番恐れられてて、気分屋だから、常に怒ってて死にたくてたまらない。会話なんてしたくない。飲み会では「いい上司になりたい」と呟き、面談で「仕事をひとつでも好きになって欲しい」とのたまう課長。ぶん殴ってやろうかと思った。

夜の10時に明日が来るのが嫌で帰りたくなくて、ぐるぐると家の周りを車でドライブ。人生を呪いながら大声で泣きながら飛ばした国道。ご飯が食べれなくなって、トイレでやっとおにぎりを飲み込む。それすら出来なくなって、床にうずくまってさ、1畳以下の安全地帯で昼休みをやり過ごす。昼すら30分もとれないけど。

とうとうなんでもない時でも話しかけられたら涙が出るようになった。自律神経が死んでいた。固形物が胃に通らなくなって、1週間絶食した。転職に反対してた親に泣きついたのは10月。

「お願いします、精神科に連れていってください。死なれるのとどっちがいいんだ」

予約を取ってもらって、フラフラと精神科に行き着いた。先生が「十分に頑張ったね、もういいんだよ」って言ってくれた瞬間、貯めてた涙がボロボロ零れる。ここ数ヶ月間、誰一人味方じゃなかったからだ。

私が疑われたのは躁鬱とADHD。このまま2ヶ月間通院して、診断が出た。

・仕事の順序がわからない・物事を後回しにしてしまう・得意科目と苦手科目の差が激しい・人が何を言ってるのかわからない時がある・折り紙が上手く折れない・部屋が片付けられない・忘れ物が多かった・落ち着きがない幼少期を過ごしたなどなど、これ以外にも沢山言われた気がする。

それらに頷いていたら、出た答えは「ADHDによる挫折感からの抑うつ状態」だった。ふと、肩の荷が降りた気がした。私が抱えてきた生きづらさや、ふつうの人ができて私ができなかった物事が許されたように感じたのだ。今までの葛藤や挫折感は私だけの問題じゃなかったのだ。

しかしここから新しい地獄が始まる。ADHDは薬では完璧に治らない。発達「障害」を抱えながらこれからも生きていかないといけないのだ。そして先生は言う「症状が良くなるまで公務員は辞めるな」と。どうすればいいんだよ。

どんなに睡眠をとっても、仕事中必ず気絶するように眠ってしまう。学生時代だったそれもADHDらしい。物事を後回しにしてしまって、照会期限ぎりぎりに気づいて取り組むのもADHD。十何人ものの補助金申請のために分厚くなる伝票を貼ると汚くなってしまうのもADHD。公務員は、企画課は、ADHDの私にとって最も向いていない仕事だった。

何より救われたと思っていたが、今は「障害」の2文字が重くのしかかる。折角子育てをも終えた親に、私は生まれながら不出来な人間でしたと言うなんて、そんな親不孝あってたまるか。私は、ずっとふつうな人間だと思っていたのに、何一つ普通じゃなかったという現実に押しつぶされそうだ。

すくすく育った自尊心はぺちゃんこになってしまった。一度東京で転職活動を行ったが、ズタボロのメンタルじゃ思うままに面接を受けることも出来なくて、挫折した。

今のところ明るい未来はない。とにかく今年中に公務員を辞めることを第一に考えている。仕事を辞めて、次は何をやろうかな。辞めろと言われる営業でもやってみようか。公務員を辞めるなんて馬鹿だと言われるのだろうか。道に外れたものに人権はない。まずもう明日の仕事が嫌だ。明日なんか一生来なくていい。寝させてくれ、何も言わないで。

先日、大学の友達に会う機会があったので、鬱になって精神科に行ってADHDになったと言ったら全員が驚いていた。みんなやめろと言ってくれたので、私は堂々と公務員を辞めるつもりだ。自分を押し殺して死ぬくらいなら、荒地を裸足で歩きたい。

これからも私はADHDと付き合って生きていかないといけない。不安である。不安であるけど、公務員を辞めれたら少しはマシになるんじゃないかな。私の精神を殺した役所を墓標に、とにかくここから脱却したい。一年目で学んだことは、役所は「慣れるか、死か」のどちらかしかなく、前者以外は後ろ指さされながら辞めていくのだ。「どうして辞めるんだろうね」と馬鹿にされながら。

あーあ、早く腹立つ上司や若い職員全員胃がんになって苦しんで死なねぇかな。死体の上で食べるご飯は美味しいかい?次はどんな車を買って、誰が結婚するんだい?



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