見出し画像

『TENNET テネット』と『007』、そしてノーランとの避けられない断絶

のっけから「断絶」とキツめの言葉を使ったが、正直、他愛のない話しかしないつもりだ。『TENNET テネット』を観て改めて、クリストファー・ノーランという映画作家と自分との歩調の合わなさが可笑しくなってきたので、その“溝”について書いてみたい(ネタバレあり、時間逆行のカラクリについては一切触れません)。

筆者はおそらくノーランのいい観客ではない。好きな作品もあればそれほどではない作品もあるが、大抵の場合、心のどこかで「だからなんやねん!」とも思ってしまうのだ。

毎度毎度、映像表現の革新に挑戦し、世界でただ一人フルサイズIMAXの可能性を探求し続け、ちゃんと結果を残していることは本当にスゴい。ノーランの新作と聞けばとりあえず観に行く。なのに心底夢中になることが少ないのは、いつもエモーションやドラマを描くのがヘタだなあと思ってしまうからで、理詰めが過ぎて語るに落ちてしまう人、という印象がある。

本人はわりとベタなメロドラマも描こうとしているのだが、ついロジックに頼ってしまう。そんな不器用さは愛嬌にもなり得るのだが、近年は作品自体から愛嬌を感じることが減った気がしていて少し寂しい。いずれにせよ、かなりアンバランスでアンビバレントな作家だと思う。

で、『TENNET テネット』(20)だ。『TENNET』はノーラン流のスパイアクション映画だ。いや、スパイアクションというよりほぼほぼ「007」映画だ。ノーランは「007」シリーズの大ファンで、シリーズに関わろうと名乗りを上げたこともあるという。『インセプション』(10)の雪山シーンなんてあからさまに『女王陛下の007』(69)オマージュだったし、「好きなジャンルを自分でもやってみたい!」という素直さは映画ファンとして共感するところでもある。

ただ『TENNET』を実際に観てみると、形式を借りたどころの騒ぎじゃない。本筋に入る前のド派手な冒頭アクション、世界を飛び回る名所巡り、ちょこっと出てくる秘密兵器担当者、主人公といい感じになるワケあり美女、豪華クルーザー船に乗っている巨大な犯罪組織のボス、壮大だが荒唐無稽でナンセンスな悪巧み……。(サヴィル・ロウへの言及もあったっけか?) 笑ってしまうくらい「007」を構成する要素のオンパレードだ。

しかし観ていてどうしても違和感がつきまとう。ここまで律儀に「007」フォーマットを踏襲しているのに、「007」を観る悦びをノーランとは共有できそうにないからだ。ノーランは、「007」とは切っても切り離せないケレン味から、不自然に遠ざかろうとしているように思える。筆者の不満を端的に言うと「ここまで007なら、もうガチで007にしてくれよ!」である。

「007」映画は極端で特殊なファンタジーだ。アクション、お色気、ハードボイルド、ガジェット、おちゃらけなど様々な要素で構成されているが、中心には常に007=ジェームズ・ボンドがいて、問答無用のセクシーパワーとカリスマ性で「どんな窮地も切り抜けるスーパースパイ」という大ウソを成立させてしまうのだ。さすがに近年は酒池肉林なモテモテ描写は控え目になったが、次々と登場する美女とただならぬ関係になるお約束も「まあボンドだからな」で納得してしまう。
(「M:I」シリーズのトム・クルーズも似た存在かも知れないが、あちらはジャンルとトムクルがほぼ同義のまた別のフォーマットである)

だからこそ、ノーランのしかつめらしいリアリズム路線とは食い合わせが悪い。『TENNET』では、エリザベス・デベッキ扮するワケあり美女と主人公が、わりと唐突に男女のナニゴト感を醸し始める(恋愛とか性愛とは限らないが)。完全にボンドとボンドガールの関係性なのだが、これがどうにも盛り上がらない。男女のナニゴトが形骸化したお作法に留まっていることは別に構わない。そういうジャンルなのだから。しかし、ジョン・デヴィッド・ワシントンは終始深刻で沈鬱な表情をしているばかりで、この強引で豪快な見世物の座長が務まってはいない(ワシントンの演技のせいというより、おそらくノーランの調理の問題ではないか)。

『オースティン・パワーズ』(97)や『ジョニー・イングリッシュ』(03)みたいなパロディなら、マイク・マイヤーズやローワン・アトキンソンが主演でいい。しかし『TENNET』は大真面目に「007」フォーマットをなぞっているからこそ、色気や軽やかさ、つまり「ジェームズ・ボンド」が圧倒的に不足してるのである。

実は筆者は、途中からこの主人公はダニエル・クレイグ(が演じる敏腕スパイ)なのだと脳内で置き換えながら観た。映画が化けた。どんな荒唐無稽なことが起きてもスッと入ってくるし、この映画、ムチャクチャ面白いなオイ!

しかもロバート・パティンソンが演じた相棒のニールなんて、「007」で言えばCIAのフェリックス・ライターですよ! ニールはクライマックスを一人でかっさらう美味しいキャラでもある。ああ、ボンドの親友設定のわりに目立たず、見せ場といえば鮫に足を食い千切られるくらいだったフェリックス・ライターに、こんな晴れ舞台を与えてくれたかと思うと目頭が熱くなってくる。(あとクレマンス・ポエジーがQ役なのも最高だと思う)

これまた妄想の域だが、もし「007」のイーオン・プロダクションズがシリーズの新作として『TENNET』を作っていれば、ボンド史に新風を起こすエッジな傑作になりはしなかったか? 「007」に「過去の世界を滅ぼそうとする未来人」はさすがに難色を示されそうだが、「全人類を道連れにしようする末期がんの麻薬王」はいけそうだ。「時間を逆行させる謎のマシン」も『007は二度死ぬ』(67)や『ダイ・アナザー・デイ』(02)のハチャメチャさがアリなのだからアリなのではないか。(でもイーオンはタランティーノの『カジノ・ロワイヤル』を却下したくらいだからさすがにムリか)

筆者は基本的に、作り手に観客の期待に応える義理はないと考えている。「思っていた映画と違った」と不満を唱える人がいるが、それは「そういう映画ではありません」というだけのこと。こんな『TENNET』への苦言も、ノーランにすれば迷惑な押し付けでしかなかろう。

しかし、ジャンル映画を扱う以上、ジャンルの歴史と対峙することは避けられないとも思う。継承するにせよブッ壊すにせよ、作り手がそのジャンルをないがしろにしていいとは思えないし、自分のようなめんどくさいファンの戯言もまた、ジャンルの歴史の一部であると信じたい。ノーランはいつも通りのアプローチで独自の新解釈を披露しようとしたのだろうが、結果的に「ハネない007」になってしまっていることがとてももどかしい。暴論ですけどノーランと「007」なら「007」のが偉い! 少なくとも筆者にとっては。

オールドタイマーの後ろ向きな言いがかりと言われればまあその通りなんですが、ジャンルを換骨奪胎して、問答無用でこちらの勝手な思い入れなんてねじ伏せて欲しい、と思っているのも本当の気持ちです。

最後に付け加えると、難解と言われがちなストーリーや裏設定はもはやノーランの癖だが、『TENNET』の物語の骨子は決して複雑ではない。『ターミネーター2』(91)、『ラ・ジュテ』(62)、『オーロラの彼方へ』(00)なんかの変奏だと思えばこれまたスッと理解できる。要するに『TENNET』って「ジェームズ・ボンドがジョン・コナーになるお話」でしょう? そう捉えると、ノーランの本質はやはり「途方もない中二病」にほかならず、今でも愛嬌は失われてない気がしてきたので、次も期待してますよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?