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ウディ・アレンの新作は葬られるべきか

ウディ・アレンの最新作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の日本公開が近づいてきた。ここ数年のアレンは、養女に対する幼児虐待疑惑が再燃したことで、ハリウッドから追放されたも同然の状況が続いている。映画ライター的にも何かしらの立ち位置を表明しないといけない段階になっている気がするので、もう迷いをそのまま書く。いや、迷った人間が書きながら考える。

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もう長いこと、ウディ・アレンとどう向き合うべきなのか考えあぐねている。ここ数日も、アレンがいまだに渦中にいる1992年の幼女性的虐待疑惑について延々とリサーチしていた。今の状況下において、この件をスルーしたままアレンのことを語るのは、もはや職業ライターとして許されなくなっている気がするからだ。

日本でも「もはやアレンの映画を公開すべきではない」という意見があるのは知っている。個人的には、アレンの置かれている現状を見て「ああいう人だから」とか「あの人はもうダメだね」としたり顔をするのも嫌だし、一連の騒動など知らないフリをして作品の話題だけに集中するのも違和感がある。

少なくとも自分のスタンスくらいは決めておかないと、この先、アレンについて書く時には常にモヤモヤを抱えるハメになるだろう。映画ライターとしてそれだけはなんとしても避けたい。

ちなみに自分は現時点で『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を含むアレン関連の原稿は一切依頼されていない(それも残念だが)。自分がここで擁護しようが非難しようが、利害関係が発生しないことは断っておきたい。

発端は約30年前の幼児虐待疑惑

まずは疑惑の概要をおさらいしてみる。既に知っている方も多い事件だろうが、人間関係が複雑で全貌が見えづらく、事実誤認や誹謗中傷まがいの記事も少なくないので、なるべくゴシップ的な要素を外し、時系列に沿って箇条書きにする(とはいえゴシップ的な要素を完全に排除するのが難しい件ではある)。

ことの発端は1992年に遡る。アレンと13年間パートナー関係にあった女優のミア・ファローが、子どもの親権をめぐる裁判で、アレンが当時7歳だった娘ディラン・ファローに性的虐待をはたらいたと訴えたのだ。

以下、主要人物の名前のみ太字にする。ややこしいので相関図も作ってみた。

相関図修正の修正

1)ミア・ファローは21歳の時に50歳の歌手のフランク・シナトラと結婚した。二年後に離婚して、1970年に作曲家のアンドレ・プレヴィンと再婚する。プレヴィンとの間には3人の子どもが生まれ、さらに養子を3人迎えている。養子のひとりとなったのが、韓国の路上で保護された少女スン=イーだった。

2)ファローはアンドレ・プレヴィンと1979年に離婚。翌1980年には韓国系の少年モーゼスを養子に迎えている。時を同じくして、ファローとアレンの交際が始まる。夫婦だったと書かれることがあるが、婚姻関係はなく同居もしていなかった。

さらに1985年には5人目の養子として娘のディランを迎えている。1987年にはアレンとファローとの間に息子サッチェル(現在はローナンと名乗っている)も生まれた。1991年にはアレンモーゼスディランの共同親権を得ている。
※ミア・ファローは後にサッチェルの実父はフランク・シナトラかも知れないと発言しているが、DNA検査はされておらず、真偽がわからないのでこの件は脇に置く。

3)1992年、ファローアレンの自宅でスン=イーの裸のポラロイド写真を見つけ、アレンスン=イー(当時21歳)が性的関係を持っていたことが発覚する。ファローアレンは破局し、アレンモーゼスディランサッチェルの単独親権を要求する。
※アレンとスン=イーの間柄は真剣交際に発展して97年に結婚、現在に至るまで夫婦として暮らしている。

4)親権を争う裁判の中で、ファローは「アレンが1992年の夏に養女のディラン(当時7歳)を性的虐待した」と告発。スン=イーとの関係が発覚した後に、コネチカット州のファローの邸宅をアレンが訪れた時の出来事だったという。アレンは全面的に否定し「ファローによってディランがウソを信じ込まされている」と主張。複数の機関によって調査が行われたが、性的虐待の事実は立証されず、アレンは性的虐待では不起訴となるが、親権についてはファローのものとする判決が出る。

5)2014年、29歳になったディラン・ファローがニューヨークタイムズ誌に「アレンの性的虐待を告発する公開書簡」を寄稿。以降、公の場でアレンの性的虐待について非難するようになる。またジャーナリストになったローナン(=サッチェル)も姉ディランへの支持を表明する。

6)かつてアレン作品に出演した俳優たちが次々と「アレンとは二度と仕事をしない」と表明。アレンと専属契約を結んでいたアマゾンスタジオは全米での『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』の公開を無期延期とし、4本分の新作映画の契約を破棄。アレンは訴訟を起こす。

7)2018年、モーゼスが自身のブログにアレンを擁護する声明を投稿。アレンの「ファローがディランを洗脳した」という当初からの主張に賛同し、ディランの証言の矛盾を指摘する。またファローが自分を含む子どもたちを虐待していたことを明かしている。スン=イーもまた取材に応じてアレンを擁護し、母親としてのファローからの虐待について話している。

8)アレンとアマゾン側は和解して契約を解消。『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』の全米公開は実現せず、2019年にヨーロッパ圏を中心に公開された。今年に入ってアレンは回想録「Apropos of Nothing」を出版し、改めて疑惑を否定。『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』の日本公開は2020年7月3日に決定している。

批判と擁護で2つに割れたハリウッドセレブたち

現在、アメリカにおけるアレンへの逆風は凄まじい。姉ディランをサポートしているローナンが、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ事件の調査報道で脚光を集め、ピューリッツァー賞を受賞するなど#MeToo運動の旗手となっていることも「反アレン」の追い風になった。

アレンの監督作『ローマでアモーレ』に出演したグレタ・ガーウィグは「事件について知っていたら出演しなかった、今後アレン作品に出演することはない」と発言した。『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に出演したティモシー・シャラメやレベッカ・ホールは出演料をすべてチャリティに寄付すると発表。コリン・ファース、ミラ・ソルヴィーノ、エレン・ペイジらディランを支持すると名言したセレブは数多い。

一方で、アレンの元恋人でもある女優ダイアン・キートンは、いち早く「アレンを信じる」と表明。スカーレット・ヨハンソン、ハビエル・バルデム、ジュード・ロウやアラン・アルダらも、声がかかればまた一緒に仕事をすると発言している。

この件の難しさは、疑惑の中心が家庭内で起きた性被害疑惑であり、しかも30年近く経った今では、どちらの側も立証が非常に困難であること。そしてアレンディランという当事者同士だけでなく、ミア・ファローの子どもたちも2つの立場に引き裂かれ、家族間の不幸な泥仕合になってしまっていることだろう。

アレンファロースン=イーの三角関係は下世話なゴシップネタとして消費されまくったし、アレン側のスン=イーモーゼスは、最近になって母親のファローが自分たちを虐待していた過去まで告白している。

アレンにとって決定的に不利だったのが、スン=イーとの情事が一大スキャンダルになったことだろう。アレンファローは共に13本の映画を作っており、公私に渡るパートナーとして認知されていた。それがファローの養女(世間はアレンも父親と見なした)と浮気をしたというのだ。「アレンはペドフィリア(幼児性愛者)である」というイメージが広がり、多くの人が「アレンは娘(スン=イー)に手をかけた変態ジジイだから、7歳のディランに性的虐待をしたとしても不思議はない」と考えたのだ。

客観的な事実を述べると、スン=イーミア・ファローとアンドレ・プレヴィンの養子であって、アレンの養子ではない。また、アレンと関係を持った時、スン=イーは既に成人していた。
※ちなみにスン=イーは「自分の父親はアンドレ・プレヴィンであり、アレンは母親の恋人で、父親と感じたこと一度もない」と語っている。

アレンが子育てに関わったのは、ファローとの交際時にまだ幼かったモーゼスディランサッチェルローナン)の三人のみで、数多いファローの養子の中で共同親権を持ったのもモーゼスディランだけだった。ファローにしてみればアレンスン=イーの情事は酷い裏切り行為だっただろうが、「アレンが年端も行かない養女と浮気した」というイメージは、少なくとも法的には間違っている。

そしてアレンにかけられた性的虐待疑惑は、複数の調査の結果として立件されていない。推定無罪の原則では無罪なのである(ただしローナンはアレンが大金を使って捜査を妨害したと主張している)。アレンの監督作『ブルージャスミン』でアカデミー主演女優賞に輝いたケイト・ブランシェットは、法的に審理されるべきであるという前提で以下の発言をしている。

If these allegations need to be reexamined, which, in my understanding, they’ve been through court, then I'm a big believer in the justice system and setting legal precedents...If the case needs to be reopened, I am absolutely, wholeheartedly in support of that.
もし疑惑が再検討される必要があるなら、私の理解では既に法廷を通過していますし、司法制度や判例に大きな信頼を寄せていますが……もし審理が再開される必要があるのなら、絶対に、心から支持します。
※当該記事(https://www.telegraph.co.uk/films/2018/03/23/cate-blanchett-denies-staying-silent-metoo-working-woody-allen/

家庭内の虐待という闇の深さ

しかし法的な審理にも限界はある。とりわけ家庭内で起きる性的虐待は被害者に深刻なトラウマを残すにも関わらず、前述したように被害を立証するのは容易でない。当時7歳だった少女にはなおさらで、ディランの告発に関しても、被害者の声なき声をかき消すようなことはあってはならない。そんな感覚が多くの人に共有される時代になったことは、歓迎すべき進歩だと思っている。

ただ、正直に言うと、自分はディランの公開書簡とモーゼスの公開書簡の両方を読んで、モーゼスの書簡に大きく心を動かされた。つとめて冷静であろうとしつつも気持ちがこもった(ように読める)文章に惹きつけられた。もしかすると、もともとファンであるアレンに有利な証言を信じたいという深層心理も働いているのかも知れない。

一方で、ディランの激しい怒りに満ちた告発文によりリアルを感じる人もいるだろう(前述のグレタ・ガーウィグは「ディランの公開書簡を読んで胸が張り裂けそうになった」と語っている)。テレビ番組で涙を浮かべて訴えたディランの姿が胸に迫ったという人の気持ちも本物だと思う。

しかし、直感や印象で決められる問題ではないのだ。推理小説よろしく類推することはできる。わかっている情報をつなぎ合わせ、理にかなった答えを探す。だがそれは「もっともらしく思える」シナリオを創作しているに過ぎないし、調べれば調べるほどゴシップ的なノイズが増え、「藪の中」方式で真実は遠ざかっていくばかりだ。

もはや前記のケイト・ブランシェットのように「法的な手続き」を拠り所にするしかないという気がしてくる。もちろん今後、新たな調査が行われて違う結果が出ることもありえる。が、少なくとも「有罪認定されていない人間を犯罪者として扱わない」という判断はリーズナブルな選択肢であるように思える。

しかし、それでもなお、声なき声を封殺してしまう危険性は残る。法によって黙殺される性被害者というイメージは考えるだに恐ろしく、どうにも躊躇してしまう自分がいる。

スパイク・リーの超スピード謝罪

さらに厄介なのは、アレンについてのオピニオンが、#MeToo運動と結びついて、もはや政治的スタンスの表明になってしまっていることだと思っている。現在のハリウッドは、明らかに反アレンが優勢で、実際に『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』はボイコットされ、アレン本人も社会から抹殺されかかっているように見える。そんな状況をハビエル・バルデムは「公開リンチ」と表現している。

アレンに関しては、少なくともこの件以外にハラスメントの告発はないし、作風にペドフィリア的嗜好が読み取れるわけでもない(6月17日追記:断定的な書き方をしましたが、あくまでも自分個人としての判断です。作品によってペド的な嗜好を感じ取る人がいるのは否定しません。疑惑の炎に薪をくべてしまうくらい少女に類する若い女性を恋愛対象として描いてきた映画作家であることは間違いないと思います)。

しかしアレンを糾弾する側の人たちにしてみれば、アレンは絶対に許してはならない「ペドフィリアの怪物」なのである。そして曖昧な態度を取ることは、被害者であるディランへの消極的な加害とみなされ、誰も彼もが、どっちのサイドにつくのか、旗幟鮮明にすることを迫られている感すらある。

ディラン支持者の多くがその理由として「ディランを信じる」と言っている。「#IBelieveDylan」というハッシュタグも、連帯の証としてムーブメントを作り出した。確かに被害者の声を「信じる」ことは大切だし、支持をする際のひとつの理由になるかも知れないが、残念ながら気持ちだけでは筋の通った論拠とは言えない。

家族や近しい人なら「あなたを全面的に信じます」と言えるだろうし、寄り添ってサポートする気持ちが何よりも大切な状況があることもわかる。しかし繰り返しになるが、ディランアレンかミア・ファローモーゼス、それともローナンか、部外者である自分には誰を信じていいのか確信が持てないし、そんな資格はないと思っている。

偶然にも一昨日、スマホでTwitterを覗いていたら、スパイク・リーが謝罪のツイートをしてるのが目に止まった。この時期だからBlack Lives Matterについてかと思ったら、果たしてウディ・アレン関連だった。スパイク・リーは6月12日の金曜日にラジオに出演して「アレンを擁護する発言をした」というのだ。

リーの論旨はこうだ。リンクを貼った記事から引用する。

"I’d just like to say Woody Allen is a great, great filmmaker and this cancel thing is not just Woody. And I think when we look back on it we are going to see that — short of killing somebody — I don’t know that you can just erase somebody like they never existed."
言いたいのは、ウディ・アレンは偉大な映画作家であり、(新作が)キャンセルされた件はウディだけの問題ではないということ。そして振り返って見ると、これは誰かを殺すことなく、まるで存在しなかったかのように消し去ることであり、自分にはそんなことができるとは思えない。

しかし14日の日曜に、リーは発言の撤回と謝罪のツイートを投稿する。https://twitter.com/SpikeLeeJoint/status/1271913863529639936

I Deeply Apologize. My Words Were WRONG. I Do Not And Will Not Tolerate Sexual Harassment, Assault Or Violence. Such Treatment Causes Real Damage That Can't Be Minimized.-Truly, Spike Lee.
深くお詫びします。私の発言は間違っていました。私は性的な虐待、暴行、暴力を容認しないし、これからもしません。そういった行為は、矮小化してはならない深刻な被害をもたらします。スパイク・リー

挑発的なアジテーションで知られるリーが、業界一の嫌われ者となったアレンを擁護したこと自体は驚くに当たらない。むしろ驚いたのは、ラジオ出演からほとんど間を置くことなく謝罪をした対応の速さだった。

ラジオでリーは「ウディは友人である」とも語っているが、リーの発言自体は、あくまでも一般論として「映画や映画作家を社会的に抹殺すること」に疑義を呈したように読める。一方でリーの謝罪の文言は、あくまでも人道的な見地に立ったものなのだ。両者の間には大きな乖離があり、リーが何を謝罪して発言のどの部分を撤回しようとしているのかはよくわからない。

リーはNetflixから新作『ザ・ファイブ・ブラッズ』を配信したばかりであり、宣伝上、火消しの対応を迫られたのでは、という意地悪な見方もあるのだが、それも真相はわからないので置く。ここで注目しておきたいのは、発言と謝罪で論理がすり替わってしまっていること。そしてリーが猛スピードで自分の言葉を翻すくらいに、ディラン・ファローの告発はハリウッドで重く受け取られているということだろう。

どうやらアレンの側に立つことは、どんな文脈かに関わらず、映画界でのキャリアが脅かされかねない状況になってしまっている。その空気感がどこから来ているのかは、日本にいる自分にはあまり理解できていない。疑惑と確信の境目が見えないのだ。もはや一種の踏み絵だと感じるのはアレンに同情的に過ぎるだろうか?

映画ライターは旗幟鮮明にするべき?

と、ここまで長々と書いておいて結論も出てなくて申し訳ないが、少なくとも自分の立ち位置くらいは明言できそうな気がしてきた。

今言えるのは、自分は一映画ライターとしてアレンのこの一件を注視し続けるが、この時点において「いかなるアレンの作品も否定しない」ということだ。

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に限らず、アレンの新作が世界のどこかで公開されて評判になることが、ディラン・ファローにとって耐え難いであろうことは理解できる。加害者だと確信している人間が罪に問われることもなく、社会的に称揚され、評価される様を目の当たりにするのは苦痛以外の何物でもないに違いない。

ただ、冷酷な言い方になるが、自分はディランアレンも個人的に知らないし、今後も親しく付き合う可能性は限りなくゼロに近い。人となりを判断することができない以上、やはりアレンに向けられた疑惑は公的に証明されるべきだと考える。性的被害の疑惑と、その当事者であるアレンの作品を分けて考えるのはダブルスタンダートだと言われるかも知れないが、それが今の自分の精一杯だ。

映画ライターとして、アレンの作品には、今後も公開され、鑑賞される価値があると考える。もちろん遠くない将来、考えを改める必要を感じる時が来るかも知れない。でも今は、ムーブメントの勢いで客観性が失われている現実に危惧を覚えているし、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』が素晴らしい作品であるという事実は、やはり伝えていこうと思う。

なるべくフェアに書こうと心がけたつもりだが、さまざまなバイアスから逃れるのは難しい。異論があって当然だし、自分が結論に達したわけではないことも長々と述べた通りだ。

ただ、アレン作品の見方がこれまでと同じではなくなったという現実は真摯に受け止めたいし、この件をスルーして能天気にアレン作品を語るということはもはやできないと思っている。アレンの映画には他では決して得られない魅力があり、いっそつまらない老害になっていてくれればよかったのにと思わなくもないが、だとしても、問題の本質が変わるわけではないこともわかっているつもりだ。


※参考記事:LA在住の映画ライター、猿渡由紀さんがアレンの回想録が出版された今年4月の時点で書かれていたレポートです。両方の言い分が併記されていてとても参考になりました。日本語で一連のことが一番まとまっている記事だと思います。

※この件についてはさまざまな意見を聞いてみたいし、同業者の方々のスタンスにも興味があります。一度、公開の場で語り合ってみるのも意義があるように思うので、同じように興味があるという方、またクローズドでも意見を言いたいという方、気兼ねなくご連絡いただけるとありがたいです。この話題を表立ってすることで仕事上の差し障りがあるかも知れず、無理にとは申せませんが。
※連絡先:よろしければTwitterアカウント(https://twitter.com/j_man_za)にDMください。


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