経験則を超えて

僕が高校生の頃,「ビートたけしのオールナイトニッポン」を聴いていて,
次の様な論題があった。
「大工のおとっつあんが経験則から三平方の定理を知っていたとするだろ」
「でもよ。ピタゴラスは紀元前から三平方の定理の証明をしてたんだ」
北野武氏が掲げられた論題は非常に興味深い知見であって,
もう直ぐ還暦前となっても未だに忘れられない論題である。

件(くだん)の大工が経験則で三平方の定理の定理を知っていたとして,
彼がピタゴラスが紀元前に三平方の定理の証明をしてたと知ったら,
彼は腐るだろうか。
「なんだ三平方の定理は俺の気付きじゃなかったのか」
って。
僕はそうは思わない。
彼が経験則で知っていた数学を
体系的に学ぶ絶好の好機が訪れたと僕は思う。
経験則は「個人的な体験」から発しているが,「それ」には限界があって,
その限界を突破するには普遍性を学ぶ絶対の必要があるのである。

若い人が悩み苦しんでいて
「こんなに苦しんでいるのはこの世で俺ひとりだけ」
と思い込んでいたとして,その若者が古典に触れ,
「苦しんでいたのは俺ひとりだけじゃなかった」
「大昔の若者も俺と同じ様に悩み苦しんでいた」
と知る事は無意味でも何でもない。
「個人的な体験」を超えて「普遍性を学ぶ」事は
救いへの道だと僕は考えます。

数学に於ても自分がどれ程無知蒙昧であったかを知り,
自分が真実の大海を知らず浜辺で砂遊びをしてた子供であった事を
知る行為は学問の第一歩なのです。

北野武氏の掲げた論題は「無知の知」を
私達に分かり易い言葉で教えてくれてるのです。

勉強を始める切っ掛けは常に
個人的な体験の限界を知る所から始まると僕は考えます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?