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ベニー松山著「ウィザードリィのすべて」レビュー「末弥純氏やベニー松山氏の想像力の侵略すること火の如し。侵略された後には何も残らないのだ」

まずハッキリさせておきたいのは本書は一体「何」なのかという話である。
本書は
ファミコン版「ウィザードリィ 狂王の試練場」と
ファミコン版「ウィザードリィ リルガミンの遺産」の
攻略情報にベニー松山氏の独自解釈…創作を付加した内容となっている。
故に本書は厳密な意味で攻略本とは言えず,
ベニー松山氏の創造の翼の広がりを堪能すべき本なのだ。
また「狂王の試練場」と「リルガミンの遺産」に登場する全モンスターの
末弥純氏のキャラクターデザインの原画がカラーで掲載され
ベニー松山氏の遊び心溢れる解説が付加されている。
末弥氏のキャラクターデザインの原画が観られるだけでも
本書を購入する価値は十二分にある。

ベニー松山氏による「忍者」という職業の解説を読むと

忍びの者。かつてそう呼ばれていたのはホビット族だけであった。
彼等は身が軽く,また毛で覆われた素足で歩くおかげで
殆ど音を立てなかったからである。

とある。「ウィザードリィ」のゲーム解説書の何処を呼んでも

「昔はホビット族しか忍者と呼ばれなかった」

なんて設定は出て来ない。
だがな。「ウィザードリィ」のゲーム解説書には書いてなくとも
「ホビット」を創造されたJ・R・R・トールキン教授が執筆された
「ホビットの冒険」にはホビットのビルボ・バギンズが
姿を隠す不思議な指輪を駆使して足音も立てず移動して
「忍びの者」と称された設定があるんじゃい。
この「不思議な指輪」こそが冥王サウロンがその力を封入した
「ひとつの指輪」でありビルボ・バギンズの甥フロド・バギンズが
「指輪物語」に於て滅びの山に捨てに行く指輪なのだ。
「ウィザードリィ」を遊ぶのに
「ホビットの冒険」も「指輪物語」も読んでいる必要はない。
だが教養が想像力を豊かにして
「ウィザードリィ」をより楽しめる事は確かである。
あくまでもゲームの解説書に書かれた設定に拘り,
一切の「創作」を否定するのは
「俺は未来永劫無知蒙昧・無学無教養でいい」
と公言してドヤ顔してるのと同じなのだ。
よくもまあ
「俺は一生馬鹿のままでいい」
なんて言えるもんだ。

ゲームの設定書に書かれた
「ティルトウェイト」とは

「原子核融合で大爆発を起こし敵全体に10~150ダメージを与える呪文」

だがベニー松山氏はここでハタと考えられた。

「原子核融合の際,生じる放射能はどうしてるのか」と。

そこでベニー松山氏は
「核融合反応は異次元で行い,
放射能を伴わない爆風のみを敵全体に浴びせる」
と解釈を付記されている。

しかしまあ「宇宙戦艦ヤマト」の放射能除去装置が「大気を浄化する装置」に改変され鉄腕アトムの動力源が原子力でなくなった状況を鑑みるに
ティルトウェイトの説明は
「大爆発を起こし敵全体に10~150ダメージを与える呪文」
に改変されるんだろうね。

ベニー松山氏による「ワードナ」の解説はこうだ。

「これは推測の域を出ないのだが,実はワードナの肉体は既に朽ち,
残留思念が魔除けに憑いているのではないだろうか。」

例によってこんな設定はゲームの解説書の何処にもない。
ベニー松山氏が
「ワードナが何度倒しても
新参の冒険者が訪れる度に復活してるのは何故か」
というゲームシステムに対する疑問から生じた独自設定で,
「灰と隣り合わせの青春」で用いた
この独自設定を「ウィザードリィのすべて」の
「ワードナ」の説明に付記されてるのだ。
ベニー松山氏の独自設定がしばしば否定的に受け取られるのは
攻略本に独自設定を上乗せして書いてるからで
その根底には
「攻略本には事実以外書いてはならぬ」
という発想があり,その禁を破ってる
「「ウィザードリィのすべて」は攻略本ではない」
と叩かれる原因となっている。
作家の司馬遼太郎氏の書かれる歴史小説はしばしば「司馬史観」と揶揄され
「歴史小説には事実以外一切書くべきではない」
と叩かれるがベニー松山氏も全く同じ叩かれ方をしてる。

作家は即ち創作者であるのに「創作するな」とはこれ如何に。
創作とは教養の上に咲いた花であり
「花を愛でる心」の否定は教養の否定である。
一体…何の為に幼稚園の頃から勉強してるんだ。
歴史の年表が存在するのは語呂合わせで丸暗記する為ではないだろう。
歴史上の人物や出来事を生き生きと感じ取る為ではないのか。
生き生きと感じ取るには感性が必要で,
その感性は教養によって支えられているのである。

ベニー松山氏による「HP」の解説はこうだ。

最初HP10だった奴がHP1000に上がったとする
しかし冷静に考えて体力が100倍になる事はない。
HP1000とは熟練度が1000と考えるべきで
熟練度が10の者の1ダメージに比べて熟練度が1000の者の1ダメージは
回避率が1/10から1/1000に上がったと見るべきなのではないか。
未熟な頃は10回に1度攻撃を食らっていたのが
熟練度が上がった結果1000回に1度しか攻撃を食らわなくなったのだ。
毒によるダメージは割合ダメージで体力の上限の10%奪われるのは
熟練者であっても毒によるダメージは回避できないからで
成長しても「体力の上限」に変わりはない事を示してる。

「ゲームの設定」を理詰めで考え「自分の腑に落ちる設定」に
咀嚼する行為は想像力無くしては決して生まれないのだ。

でもね。

僕は「想像力」は相手の「想像力」に対する侵略行為だと思ってる。
末弥純氏やベニー松山氏の想像力の侵攻に怯え

「末弥純氏のキャラクターデザインが我々から想像する楽しみを奪った」

と嘆くのは

「これ以上,僕の想像力を侵略しないでくれ!」

という「魂の叫び」であって,同情の余地は大いにある。
そう簡単に想像力の「大国」の軍門に下る訳には行かねえよなあ。
軍門に下った人間の「皆も早く軍門に下ればいいのに」って
「助言」に素直に従う訳には行かねえよなあ…。

「昔のグレーターデーモン」はドクロのアイコンだった。
でも今「グレーターデーモン」を頭の中に思い浮かべると
末弥純氏の創造された「青い悪魔」の姿しか浮かんでこない。
僕にも昔は「想像力」があった,あった筈なんだ。
だが今や,それが如何なる「想像」だったのか,もう思い出す事が出来ない。
末弥純氏の想像力の軍門に下るとは,つまり「そういう事」なのだ。

僕には末弥純氏やベニー松山氏の想像力を
叩く人を叩く資格など無いのである。




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