庵野秀明監督の映画「シン・仮面ライダー」レビュー「同じ星を見詰めてる」。
元の「仮面ライダー」は望まぬ改造手術を施された本郷猛が
彼を改造した悪の秘密結社ショッカーと彼等が作り出す改造人間と
敢然と戦って行くという内容だが,
1971年と2023年では世界の様相が一変してしまった。
20世紀の終わりに破壊的カルト集団が現実に登場し,
彼等に不利益を齎す人間を拉致監禁殺害し,
首都圏の大動脈・地下鉄で毒物を撒き,
多数の人間を「救済」と称して殺傷する事件が発生し,
従来の「ショッカー」のダムに毒物を混入して
水道水を安心して飲めなくしたり,
人々を拉致監禁して「謎の行方不明」事件を起こし
社会不安を醸成するやり方が洒落にならなくなった。
「悪の秘密結社」は批判の槍玉に上がる事を恐れ,
戦隊ヒーローの長官が座禅して空中浮遊する描写も
当然自主規制の対象となった。
だってコレ,破壊的カルト集団の「教祖」の物真似なんですもの。
21世紀に入ってからはヒーロー物は
社会不安を醸成する秘密結社との戦いから,
それぞれの正義を掲げた者同士が
己の正義を信じ相手の正義を批判して戦う様になったと思う。
ライダーで言えば戦う相手は怪人から別のライダーに変わり
ライダー同士が己の主義主張を通す為に戦う様になったのだ。
僕などは「何でライダー同士が戦うの?」と思うが
「正義はひとつではない」ってのは今日的な主題なのだとも思う。
かつて内部ゲバルトは敵組織のお家芸だったのが
今や正義の味方同士が潰し合う様になった。
そんな世相を反映して本作に於ける
「ショッカー」のオーグメントと呼ばれる怪人達は
「個人の幸せ」の追求を最優先する不幸せな連中と位置付けられ,
自分が幸せになる為なら他者の不幸を一切顧みない
エゴイストの集団として描かれてます。
従って本作に於ける本郷は
自分が幸せになる事よりも他人の幸せを優先する人物として設計され,
幼い頃,警官だった父が通り魔に刺されて殉職しても,
その通り魔を憎まず,寧ろ父の様に生き・父の様に死にたいと
泣きながら誓うのです。
彼は頭脳明晰・運動神経抜群なれどコミュ障故に就職も出来ず,
趣味がバイク・ソロキャン・勉強と「独りで出来る事」ばかりの
陰キャという設定で,人付き合いが出来ないが故に他人を呼び捨てに出来ず,
決して自分から距離を詰めて親密になる事が出来ない。
彼が終止チワワの様にブルブル震え,声が常に上ずってるのは
「本郷を演じる池松壮亮さんが大根だから」
では断じてなく,池松さんが登場時から,
ずっと「コミュ障の演技」と続けておられるからなのです。
緑川博士は奥さんを非業の死で失ってから「ショッカー」に入り浸り
「死なねえ人間」の研究をして,地球上で進化の頂点に立ってるのは
脊椎動物では人間,無脊椎動物では昆虫だから,
昆虫人間こそが地球上の進化の真の頂点に立つべき種であるという
「ショッカー」の理念に染まり,可哀想な人生を送って来た本郷君を
昆虫人間にアップデートしてあげる事が彼にとっての最大の幸福であると
思い込むに至る,「福音」の押し売りをする
実に実に「ショッカー」に相応しいイカれた博士として描かれます。
バッタオーグこと仮面ライダー第1号に変身した本郷を見た
博士の喜色満面の表情は
「これで彼の内心の問題は解決だ」
と雄弁に物語っています。
本郷にしてみりゃあ拉致監禁され寝て起きたら
「怪奇バッタ男」に改造されてた挙句,
気違い博士から
「君が(力が欲しいと)望んでいたから(僕が)強く応えてあげたんだ」
って米津玄師の「シン・ウルトラマン」の主題歌みてえな
質の悪い替え歌を聴かされて「ふざけんな!」って叫びたい筈なのに
コミュ障故に怒れない。
碇シンジがそうである様に大理不尽に対して
ハイハイと言って唯々諾々な態度を示す事が彼の処世術なのだ。
本郷は緑川博士の娘・ルリ子と行動を共にする事となるんだけど,
彼の女性への接し方は腫物に触るが如くで,
彼女と布団を並べて寝ても決して何も起こらない
「世界一安心な男」なのだ。
こうして本郷を見てるとさあ,
彼は僕達がなろうとしてなれなかった
「理想のオタク」なのかも知れません。
ヒーローになりたい気持ちだけはあって
指貫グローブとか装着してるんだけど
コミュ障故に今日もやっぱり何も出来ず夕日を眺めて
「あすなろあすなろあすはなろう」
と唱える男。
そんな「明日」は未来永劫来やしないのに。
ルリ子の兄・イチローに「妹と寝たのか」と聴かれて血相変えて
「僕と彼女はそんな間柄じゃない!
ふたりの間にあるのは愛情ではなく信頼だ」
とオタク特有の童貞特有の早口で言ってしまう。
オタクって根はスケベの癖に異常に潔癖な所があるんですよ…。
…潔癖描写がリアル過ぎるのです。
そもそも「信頼」なんてコミュ障のオマエに構築出来る訳ないじゃん。
…とは思いつつも信頼が構築出来るといいね…。
…と思わず肩入れしてしまう男なんですよ本郷は。
一文字隼人(柄本佑)は,そんなどうしょうもない本郷を
全肯定して・受け入れて「タメ口で話そうぜ」と言ってくれる
「理想のオタクの友人」なのですよ。
エヴァで言ったらカヲル君。
一文字の設計思想はズバリ「天使」なのですよ。
そんな事言ってくれる友人は,きっと本郷のこれ迄の人生で
1度も現れなかったんだろうなあと思えて泣けるのです。
「「シン・仮面ライダー」のオールナイトニッポン」を聴いたのですが,
当初の構想では元の「仮面ライダー」の主題歌を
1番を池松さんが歌い,2番を柄本さん氏が歌い,3番をふたりで歌う予定で
2番まで収録してたんですよ。
コレはせめて全曲集には収録して欲しかったね。
本作の撮影に関してはNHKの「ドキュメント『シン・仮面ライダー』」を
観たのですが,庵野監督が拘ったのが「泥臭いアクション」で
殺陣を「段取り」と呼んで酷く嫌ったんですね。
「段取りじゃなくて殺し合いが見たい」と。
田淵アクション監督にしてみれば殺陣はアクション俳優に
怪我させない為に構築してるのであって,
殺陣が要らねえってんなら俺が存在する意味なんて何もない。
アクション俳優には「シン・仮面ライダー」だけではなく明日からも
別の現場での仕事(アクション)があって
怪我して穴を開けたら信用も仕事も無くなる。
監督が「殺し合いを見たい」って言うのは簡単だが,
俺には
「たとえ怪我しても構わないから殺し合ってくれ」
なんて口が裂けても言えない。
ふざけんな!俺はスタッフを連れて帰る!
庵野監督にしてみれば帰られたら困るので
田淵アクション監督に頭を下げて謝る…。
…ってギスギスした撮影現場の緊張が伝わって来る。
結局特撮作品に於いては監督はアクション監督に頭が上がらず
「OKです」って言うしかないのに
庵野監督は懸命に抗うから当然揉めるのです。
「最後の敵」との戦いでは庵野監督は
「どうしても泥臭い戦いが見たい・殺し合いが見たい」
と突っ張って遂には
「俳優はプロだから彼等に一任しよう」
と滅茶苦茶言い出し,池松壮亮,柄本佑,森山未來の主演3人が
車座になって最後の戦いの演技プランを相談する異常事態が発生する。
でもさ。
舞台俳優の森山未來さんは,
この状況を「異常」だとは微塵も思っておらず,
舞台監督が突然
「素っ裸になって体中にドーラン塗って新宿の街中を歩け」
とか無茶苦茶言い出すのは日常茶飯事で
監督が「殺し合え」って言うのなら殺し合うのが役者だろ,
何いちいち周章狼狽してんだよと現場の騒ぎを冷ややかに見詰める。
監督は現場の暴君であるべきでアクション監督なんぞに,
いちいち頭を下げる必要など無い,現場に船頭は2人要らないとにべもない。
池松さんは池松さんで監督の要求の真意を理解しようと努めて
「真意を理解した!」
と光明が見えた気がしたのも束の間,
監督に認めて貰えた筈の撮影した場面を全カットされ
射干玉の闇に突き落とされる。
まるでゲンドウ(父親)を理解したいのに
突き放されるシンジ(息子)の様である。
遂には「どうせまたやり直しでしょ」と腐ってしまう。
これは僕の考えですが森山さんは池松さんのそうした態度を
快く思ってなかったのではないかと思います。
池松さんが
「えェ~僕30歳ですよォ~」
「僕30にもなって仮面ライダーやるんですかァ~」
って態度を取ったときに
「例えテメエが枯れ木の様なジジイであろうと,
オファーを受けたからには仮面ライダーをやるんだよボケッ」
と端正な顔の下で怒りを煮え滾らせていたに違いないのだ。
森山さんは役に成り切って
「不出来な弟」に手本を示す兄を演じて見せる為に,
脚本には
「サナギが分解して変態してチョウになってゆく」
としか書かれてないのを,変態したばかりのチョウは心も体も柔らかい筈,
体の柔らかさは防御力の低さとして演じ,
心の柔らかさは,心が柔軟であるが故に弟(本郷)の必死の説得を
未だ聴く耳を持っている「未だ救い様のある兄」して演じ,
救い様があるが故に,
それがそのまま「最後の敵」の弱点となっている,
と「脚本に書かれてる事」の10手先を読む離れ技を
「不出来な弟達」の為に披露してるのだ。
森山さんは「ルリ子の兄」であるだけでなく「本郷と一文字の兄」でもあり
「全オーグメントの兄=究極のオーグメント=「ショッカー」を束ねる者」
と解釈して演じて見せる事によって
「監督の真意が分からない」からといって腐る「不出来な弟」に
手本を示し「池松壮亮の兄」ともなったのだ。
「不出来な弟よ,
この俺を見ろ!この俺の演技を見ろ!!この俺の生き様を見ろ!!!」
と心の中で叫びながらね。
実際,このあらゆる意味での「みんなのお兄ちゃん」の存在に
庵野監督も相当助けられたんじゃないかなあ。
「最後の戦い」が監督の意図通りの「泥臭い殺し合い」になったか否かは,
皆様に是非判断していただきたい。
庵野監督はアクション監督や役者に厳しい要求をして,
それでも要求水準が満たされないと,アッサリ諦めて
監督の言う事を何でも聴くCGアニメーションに演じさせる非情さがあって,
ショッカーライダー達は最初実写で撮影してたんだけど,
バッタの群体行動が実現出来ず
結局殆どCGアニメーションになっちゃったんです。
要するにシンジが使い物にならないのなら
ダミープラグにやらせるって発想なのですよ。
必死に「実写映画で出来る事」を追究してた筈なのに
結局アニメに逃げちまった。
ソコは「逃げちゃダメ」でしょ監督。
NHKのドキュメントで一日の撮影が終わって連れ立って歩く,
ショッカーライダー達の「中の人達」の背中を見たのですが,
疲労を感じさせる,身長も体格もまちまちの「中の人達」の雄姿は
決してCGアニメーションでは描写出来ない。
確かに求められる役柄は個性のない群体バッタかも知れないが
「中の人達」には個性があるんじゃい。
庵野監督はどうして「それ」を汲む事が出来なかったのかなあ…。
スーツアクターが体を張って,命を懸けて演技するのは
「この作品には俺が参加してる」「俺がこの作品を作った」
って自負心があるからだ。
円盤の特典映像で「未使用映像集」として
収録される為では断じてないのだ。
「ここのところ」だけは庵野監督を到底擁護出来ない。
「監督は取捨選択するのが仕事」と庵野監督は仰ってるけど,
根っ子の所で人が信じられず,
信じられるのはCGアニメーションだけって所に,監督の抱える
「魂だけが存在し互いに繋がり合って
以心伝心で分かり合えるハビタット空間」
が広がってるんだと思います。
かつてアスカが「気持ち悪い」と評し,
本作ではルリ子が「要するに地獄よ」と評した
監督の抱える「希望」と言う名の絶望は,
何度「このキモオタがッ!」って石を投げられて出血しても
「人と繋がりたい気持ち」が捨てられない,
庵野監督にとっての賽の河原なんだと思います。
本作の結末とハビタット空間とは一体何処が違うのかと考えるに,
前者は心が通じ合った者たちが「同じ星を見詰めてる」のに対し,
後者は好きでも無い奴と繋がらねばならない点が
「違ってる」のだと思います。
後者はアスカに言わせれば「アンタと繋がるのだけは絶対にイヤ!」なのだ。
僕は本作を池袋の映画館に観に行ったけど,
観客は皆僕と同じ白髪交じりの爺さんばかり。
「シン・仮面ライダー」を支えてるのは
52年前にライダーを観て心をときめかせた「かつての少年達」なのだ。
僕達が死ねば「最初の仮面ライダー」を支えるものは誰もいなくなる。
この射干玉の闇を見詰める感覚。
「仮面ライダー」というコンテンツは生き続けるだろうが
「イマドキのライダー」にエールを送る気分には到底なれないのである。
「シン・仮面ライダー」に対していい評判は聞かないし
服部昇大先生の「邦キチ!映子さん」でも褒めてない。
「シン・ゴジラ」は「マイナスゴジラ」に比べて
米国人に評価されてないとの大合唱。
「世間」が「シン・仮面ライダー」を評価しないから僕も評価しない。
「米国」が「シン・ゴジラ」を評価しないから僕も評価しない。
へええ。
ならば「オマエ」は一体何処に居るのか。
「皆の意見に付和雷同するのが僕の意見ですっ♪」
などは「意見」などではないわ。
「オマエ」がどう思うかが重要だろう?
「世間」とか「米国」とかの影に隠れて
石を投げるのがオマエの生き様だと言うのか。
「シン・ゴジラ」や「シン・仮面ライダー」に欠点があると言うのなら
自分自身で映画を観て自分で考察した結果として
導き出されるべき結論であって「皆がそう言うから」で
考察を止めてしまうのはカーズと同じく
「僕は『考えるのを止めた』木石同様の人間ですぅ」
と宣言してるのと同然ではないか。
全く…斯くも「自我を持たない」輩が多過ぎて辟易する昨今である。
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