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長谷川哲也先生の「ナポレオン 獅子の時代」第2巻レビュー「王権神授説は否定され王権そのものも否定される以上,簒奪者ルイは死なねばならないのだ。」

1789年蜂起したパリ市民は武器を求めて廃兵院を襲い
武器を奪取するも肝心の火薬が無い。
そこで彼等はバスティーユ牢獄を襲い火薬の奪取を試み
これを陥落させ司令官の首を晒した。

報せを聞いたフランス国王・ルイ16世は歴史に名高い次の問答を行う。
「それじゃあ暴動(revolte)が起きたと言うのか?」
「いいえ陛下,革命(revolution)が起こったのです」
revolutionは今でこそ「革命」と訳されるが
本来の意味は「天体の回転」を指し,転じて
「本来あるべき秩序に戻る」という意味で
「暴動」ではなく「復古」に近いと報告者は言っているのである。
しかしrevolutionは独り歩きを始め,
軸の外れた車輪があらぬ方向へと向かって行くと意味を変えて行く。
それは「フランス革命」の辿った数奇な運命と呼応し
「革命」とは一体何なのかの意味が変わって行く様を
「軸の外れた車輪」と表現したのである。

本作に於ける「フランス革命」は
バスティーユ牢獄襲撃・ルイ16世と報告者の質疑応答から始まる。
シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」や
池田理代子先生の「ベルサイユのばら」の様に
アントワネットの存在は全く重要視されず
革命政府がルイ16世の首を刎ねた事により
欧州やロシアの君主国が革命思想の伝播を恐れ
寄ってたかって革命政府を潰しにかかり,
士官学校を卒業し砲兵連隊少尉の地位にありついたナポレオンにとっては
革命の勃発によって軍の将校クラスを占めていた貴族が国外に逃亡し
要職がガラ空きとなり才覚ひとつでコルシカの貧乏人の小倅の自分が
立身出世の絶好の好機を得たと解釈したのである。

実際彼は「自由・平等・博愛」の理念を全く理解せず,
武装蜂起したパリ市民を「暴徒」と受け取り
全く躊躇う事なく砲撃を加えている。
彼にとって重要なのは「治安の維持」であり
頭に頂くのが国王であろうと革命政府であろうと構いはしないが
「俺の成り上がり」の為にのみ「革命」は継続される意味があるのだ。

一方純粋に「革命」の理念を推し進め,
その過程で王権神授説を否定し
王権を否定し,
王を裁いて殺すべきだと主張するのが
ジャコバン党の急先鋒ロベスピエールと
その懐刀のサン・ジュストなのである。

ロベスピエールは「フランス革命」の体現者であり
「獅子の時代」序盤の「もうひとりの主人公」と呼んでも過言ではない。

彼の峻厳さを長谷川先生は
彼が人生も人も女も愛さないとという意味で
「ワタシは」「童貞だ」
「ワタシが愛するのは市民と革命だ」
「「誰か」ではない」
と表現するのである。
「誰も愛さないから童貞」という意味で
宦官に近い存在を長谷川先生は仮定したのだろうか…。

サン・ジュストは25歳のとき初演説で次の様に主張する。
「ルイが一体どんな違法行為をしたのか?」「何も」
「違法は我々だ」「革命も違法」「自由も違法」
「ルイの罪は「王である」ことだ」
「王とは元々人民にあるべき主権を奪った簒奪者」
「存在そのものが悪なのだ」
「選択はふたつある」
「王権神授説に則り彼に統治を任せる」
「あるいは王権を否定し処刑する」
「どちらかだ」
「中間は有り得ない」

この「中間は有り得ない」演説で
ルイの処刑に大きく人心が傾くこととなり
ルイは断頭台の露と消える。

ルイの処刑によって王権は停止し
フランスは対外戦争に突入する。
フランス革命を止めようと君主国が干渉するからな。
現にプロシアは国境を越えてパリに迫ってる。
ロベスピエールは危急存亡の秋(とき)にカエサルの再来を予言する。

ロベスピエールは穏健派のジロンド党の弾圧を始め
穏健→革命に非協力的→「反革命」罪で
ジロンド党の女王と呼ばれたロラン夫人も断頭台の露と消える。
「おお自由よ!汝の名の下に如何に多くの罪が犯された事か!」
が彼女の言葉として現在も残っている。

王の首を刎ねたら「次」はかつての「革命の同志達」を
次々と粛清を始めるロベスピエール。
彼の独裁が始めるのであった…。

20年前にコルシカ独立運動を武力で弾圧したミラボーは
彼の軍歴の「シミ」を恥じ
パスカル・パオリの恩赦を議会で主張し
パオリは20年ぶりにコルシカに帰る。

パオリは島民から「親父」と呼ばれ
島民同士の土地争いの線引き迄介入した。
パオリは30年前から島の支配者なのだ。

パオリは島一番の美人だったレテッツィアに
特別な感情を抱いており
彼女と結婚したカルロ(ナポレオンの父(胃癌で死亡))を今でも憎んでいる。
カルロの息子・ナポレオンが革命にかぶれているも気に食わない。

パオリはジャン・ジャック・ルソーの憲法草案を基に
コルシカの独立を目指すが彼が島の専制君主である限り
憲法もヘッタクレもない。

そんな状況で革命政府が王の首を刎ねたとの報せが入り
パオリはボナパルト一族を「フランス派」と呼ぶのを止め
「国王弑逆派」と呼び始める。
パオリにとって「革命思想」などクソであって
革命政府が「主君殺し」をした理屈以前の嫌悪感を催すのだ。
島民はボナパルト一族を「犬畜生を見る目」で見詰め
あとはもう…。
パオリの「ボナパルト一族を皆殺しにしろ!」の指示を待つだけとなった。

もうコルシカにはいられない。

ボナパルト一族はフランスに亡命し
ナポレオンは復讐しようとしていた
「フランス人になっちまった」
のである。

ナポレオンはパオリを「親父」と尊敬していたが
同時に彼にコルシカ独立は出来ないと思っていた。

それは何故なのか。

ここから先は僕の想像だが
長谷川先生はパオリの造形に当たって
フランシス・フォード・コッポラの「ゴッドファーザーPART2」で
マイケル・コルレオーネによって近代化される以前の
シシリーの「ヤクザ」を想定したのではないか。

パオリと来たら島の顔役・相談役で満足して
権力の範囲(縄張り)を拡大しようとはこれっぽっちも考えてない。
ナポレオンはそうしたパオリに幻滅して彼の元を去ったのではないか。
ナポレオンは「島の顔役の永遠のナンバー2」では満足出来ないのである。

だが…パオリが「コルシカの親父」であるという事実は
ナポレオンに深い影響を与え
彼は「フランスの親父」…国父を目指す事となる。
大陸軍の兵士は彼を「俺達の親父」と仇名を付け
レテッツィアを俺達の親父のオフクロ…。
即ち「俺達の婆さん」と仇名と付ける事となる。

ナポレオンはフランス南東部に位置する
ツーロン港を王党派が占領し
イギリス艦が入港した情報を得て
砲兵指揮官として海路ツーロンへと向かう。
今は革命軍の犬として
王党派とそれに与するイギリス海軍を駆逐し
軍功を上げて偉くなるのが先決なのだ。

本作品には何人も芸術家が登場し
長谷川先生は創作者の立場から彼等に感情移入して行く。
本巻で登場するのは後に「悪徳の栄え」を執筆するマルキ・ド・サド。
もうひとりは「テニスコートの誓い」「マラーの死」を描き,
ギロチンに送られる人物を素早くスケッチするルイ・ダヴィッド。
長谷川先生はこのふたりが登場する度に
彼等の創作の神秘に肉薄して行く事となる。

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