解像度の低い愛
僕は解像度の低い「愛」という言葉が気になっている。最近、虚偽意識という言葉を知った。それは自分の参加している社会システムが原因で発生する不幸な部分を受け入れているときの意識らしい。みんな苦しいよね、仕方ないよね、こういう社会だしね。そう受け入れてしまう。それもあれも愛だよね。そうやって居心地の悪い愛をまるで「神様」への信仰のように、思考停止だ。虚偽意識。あの人は愛していたんだという。内輪で楽しんでいたのに社会に見つかりカテゴライズされ、自称詳しい人たちがフォロワーを従え批判する。間違いを指摘するのも愛だったと。愛ゆえだと。微塵もそんな風に思えないのに句点を付けるように話が終わる。何も終わってないじゃないか。こんなにも解像度の低い言葉にすがっていられない、しっかり立ちたい。強固な杖がほしい、これでしばらくやれる、いけるという指針が。いつも思い出す、最後の晩餐でイエスが裏切りを考えるユダに言った言葉。
「今思ったことをやりなさい」
戦場の少年兵の日常は争いだ。貧困のゴミ山で家族を養えない日銭を稼ぐ、時の流れも、電気も使わない閉じたコミュニティ、高級ホテルから見る夜勤者が動かす工場の夜景、彼氏と喧嘩して友達とお盆休みの旅行計画しながら見るバラエティー、スーパーでLGBTQを見て「いいね」と心で思った瞬間になぜ自分が良い悪いと判断しているのだろうかと急に恥ずかしくなる、toe - MOTHER_Feat. ILL-BOSSTINO, 5lackを聴きながら珈琲をすすり、この文章を打つ僕との違いを指摘しても何も変わらない。それが愛だったんだなんて思考停止だ。脳が最適化されて「とりあえず暫定的にこうであろう」って。それで「愛だ」なんて使われてたまるか。陰謀論も、性別価値観、親子供、仕事だから、お金ないからって虚偽の意識だ。今をそのまま受け取れてない。虚偽の意識だ。だけれども、そうだとしても、僕がそれに苛立ちを覚えても、これは鏡を見ている。虚偽の意識を使っているのは僕自身だ。そこから出たくて理屈かき集め批判しているんだ。そう、いつもそう。否定したいのは自分がそうあるからだ。こうある自分を認める。その意識を使っている自分を認める。腹が立っている自分を見ている。ダサい自分も、くそ醜い思考をする自分をちゃんと見ていられるか。
その時、そこに立ち会わせた人々がそれぞれ思うことをやりなさい。これではまだマクロ。解像度が低いか。
やっぱり、とりあえず、暫定的に。
「今思ったことをやりなさい」