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短編小説「花火」

1
飲んだくれの父親は冬の路上で死んだ。

その晩は冷えて夜半に雪が降った。雪は夜をかけて薄皮のように街を覆った。
朝、早く目覚めた俺は、玄関を開けて街を見た。薄明に雪とコンクリートと影が融けていた。世界は灰色だった。
凍てついた空気が肺に入り、血中を巡り、吐いた二酸化炭素があまりにも白くて我に返った。
俺は身震いして平屋の玄関を締めた。
ありったけの服を着て凍えながら寝た。
「凍りそうだ」、そう思った。
実際その時分には父親は路上でくたばって、本当に凍っていた。
奴の死体にも雪が積もったに違いない。
潰れた蛙みたいな死に様を、雪が覆って造形物と化す。
飲んだくれの末路が雪のオブジェとは全くもって笑えるぜ。

2
ロクでなしの俺とちょっと頭の弱い妹は親戚の家に引き取られた。
俺たちにあてがわれたのは小狭い住宅の納戸みたいな部屋で、体もすっかり大きくなった俺たちは息を潜めて暮らしていた。
その家は見栄と吝嗇をそのまんま形にしたような造作で、そこに暮らす叔父と叔母も見栄と吝嗇を形にしたような人物であった。俺と妹はその見栄と吝嗇の狭間に飼われたのだ。

部屋には窓がなかった。

息苦しかった。かつてのボロ屋と異なり隙間風なんて少しも吹かない。密閉瓶のような部屋で、淀んだ空気に俺達の生物臭が混ざり合った。その瓶底は冬はよく冷え、夏は蒸した。俺達が吐き出した二酸化炭素が充満していた。

二酸化炭素は火を消すんだ。
二酸化炭素が飽和した瓶底ではどんな火も消える。其処に花火は上がらない。

3
引き取られて半年も立つと吝嗇家たちの慈善面は剥がれきって、俺たちはすっかり余計者となっていた。家を小綺麗に維持することに執心する彼らと、ボロ屋育ちの俺達は生理的に相容れなかった。そういった溝はお互いの嫌悪となった。妹は馬鹿だから俺と奴らの軋轢をそこまで深く感じ取らない。

妹は馬鹿だから学校でも虐められていた。俺は妹を問い質したが、言ってる事がよく分からなかった。だから俺は妹の学校に行って、クラスの女に事情を訊いた。しかし何を言ってるのかよく分からなかった。分からないし、人も沢山集まってきたから俺は手近な眼鏡野郎に一頻りの文句を言い立てて、そいつをブン殴って終わりにした。

4
帰途、喉を通る空気が焼け付くように暑かった。暑さに肺が機能不全を起こしていた。酸素が体に入って来ない。二酸化炭素ばかりが血中を巡る。
暑さのあまり、一歩も動けなくなって俺は太陽の下に立ち尽くした。
ジリジリと焦げながら俺は呼吸を整えた。汗が額からポタポタと落ちた。落ちたと思ったらまた落ちた。俺はシャツの袖で汗を拭ったが、やはり汗は後から後から噴き出した。体が壊れて汗が止まらなくなったみたいだった。
そんな俺を道行く奴らが横目で見ながら往来していた。こんなに汗をかいている奴はいなかった。こんなに汚れている奴もいなかった。
髪を束ねてキャップを被った女が通り過ぎた。タオルで巻いたペットボトルを歩きながら飲んでいた。

それを見たときに俺は気付いた。
俺は乾いている。
こんなにも。
この乾きかどうしたら癒えるのか分からなかった。

俺は髪を束ねた女に声をかけた。
女は立ち止まらなかった。

「喉が乾いているんだ」と俺は言った。
女は歩き去った。
その後ろ姿に俺はもう一度声をかけた。
「水が欲しいんだ。」
女は雑踏に消えた。

乾きは癒えない。
汗は止まらない。
太陽と輻射熱が俺を焦がす。

小間物屋で男の子がラムネを買っていた。
キャップの女はもう見えない。
ラムネから水滴が滴った。
俺の額からまた一滴の汗が流れた。
子供が圧を掛けてビー玉の底を抜いた。
ビー玉は瓶底に落ちてあぶくが立った。
二酸化炭素の気泡がラムネ瓶から大気に還った。
女の残像が揺れた。
俺は太陽に焦げている。
ラムネの瓶から二酸化炭素が充満していく。
地球が温暖化する。
その二酸化炭素が俺を満たす。

俺は。
子供の傍に立っていた。
子供が俺を見上げた。
見つめられた俺は?
何をするんだっけ?
子供はラムネを飲んでいた。

金切り声が聞こえた。
振り向くと女が立っていた。
「何をしてるの?」
と女が言った。

何を?
俺は何もしていない。
手にラムネの瓶を握っていた。
子供が怯えた目つきで俺を見上げていた。

「違うんです」と俺は言った。
「二酸化炭素がね」
「地球がね」

言葉は続かなかった。だから俺はそのまま立ち去ろうとした。
「誰か!」
女が叫んだ!
「助けて!」

往来の人々が一斉に俺を注視した。
何故、俺を見るんだ。
俺は立ち去ろうとしているのに。
立ち去ろうとして何かにぶつかった。
ラムネの瓶が落ちて炭酸が吹きこぼれた。
路上のアスファルトに気泡が広がった。
気泡から二酸化炭素が立ち上った。
俺は立ち去ろうとした。

何かに掴まれた。

5
黒服のいかつい男だった。
男は何事か喚いた。
俺は立ち去ろうとした。
その俺の胸倉を掴んで男は何事か喚いている。
俺は地面に叩きつけられて、そして蹴られた。
俺の中の点火プラグに電気が通って、目の前に火花が散った。火花が散るばかりで着火しない。ラムネのせいだ。二酸化炭素濃度が高くなってしまったから。

蹴られる度に俺の体の中で鈍い音がして俺は大量の二酸化炭素を吐き出した。
二酸化炭素しか吐けない故障品だ、俺は。
セルを回しても火がつかない。

ボロボロになった俺が密閉瓶の家に帰ると待っていたのは妹の学校関係者と警察だった。

6
その翌月から俺はどうしたことか漁港の近くにあるドライアイス工場で働くことになった。冷凍庫の中でドライアイスの塊を梱包して積み上げるのが俺の仕事だった。
仕事をしていたら、何かに後ろから突き飛ばされた。その拍子に転んで床に這いつくばった。凍った床に頬が貼り付いて起き上がれなくなってしまった。無理をして起きたらバリバリ音がして頬肉の皮膚が剥げた。この傷は28日間経って癒えたが、消えそうもない痣が残った。

密閉瓶の親戚は、その痣を見て顔をしかめた。若しくは俺を見て顔をしかめた。痣は関係なかったかもしれない。
日中はマイナス80度の冷凍庫でドライアイスとともに働き、夜は30度を超す密閉瓶の部屋で二酸化炭素にまみれて寝た。

密閉瓶の中で妹は「眠れないの」と頻りに言った。
その声を背中で聞いて俺は朝までぐっすり眠る。

眠れないからなのか、暑いからなのか、頭が弱いからなのか俺の妹は夜中に外に抜け出すようになった。
帰ってくるのは明け方で、それまで何をしているか知らない。妹の持ち物に極彩色の化粧品が日増しに増えた。頭の弱い妹は酸欠でますます馬鹿になったようだった。

7
ある日。

やはりその日も暑かった。背中を向けていた俺に「彼氏ができたの」と妹が言った。
真っ赤な口紅を引いて、真っ黒なアイラインを引いた妹はサーカスのピエロみたいだ。
今晩も妹は夜更けに密閉瓶を抜け出した。

その日に限って眠れない俺は、妹のように密閉瓶を抜け出して街に出た。

夜の街は。
パンダみたいな奴がたくさんいた。

パンダみたいな奴が話しかけてきた。
何を言っているのか分からなかった。俺から何かを毟り取ろうとしているようだった。
「金が無いんだ」と俺は言った。
「カードでも良いよ」とパンダが言った。
「カードも無いんだ」と俺は言った。
パンダは俺の肩を叩いて笑って、ヒラヒラと手を振った。もう一人のパンダがやってきて、パンダ同士何事か話をしていた。
もう一人のパンダも俺にヒラヒラと手を振った。

俺が足元のバケツを蹴ると、それがゴングとなってパンダ達は襲いかかってきた。何回かブン殴ったが何回かブン殴られた。パンダの一人が俺を羽交い締めにして、もう一人が俺を殴りつけた。結局俺の方が沢山殴られた。

8
「畜生!畜生!」
俺は叫んだ。
パンダ達が殴る手を止めた。
目を開けると目の前に黒服の男が立っていた。
男は俺の肩に手を置いた。
パンダ達は巣穴に帰っていった。
黒服の男は俺を連れて地下へ潜った。

地下にはソファが並んでいて、それは座ると深く沈んだ。ソファの前に低いテーブルがあって、その上に幾つかのボトルとグラスが並んだ。
男と俺の両側に女が座った。

男と女達は笑いながら酒を飲んだ。
俺も飲もうとしたが、口の中が痛くて飲めない。結局俺一人だけ黙ったまま徒に時間は過ぎた。

「コイツは俺の友達だよ」と男は言った。
女達は笑った。
それから男はまた俺を連れて他の店に行った。
次の店も同じだった。
女達が隣に座り、そして笑った。
「コイツは俺の友達だよ」男は言った。
女達はやはり笑った。

「もう朝になるわ」と女の一人が言った。
「仕舞いよ」

「また来るよ」黒服の男は言った。
「明日から祝祭が始まるわよ」女は言った。
「賑やかになるわ」

「また来るよ」男は言った。
「そうね、おやすみなさい」女は言った。

9
外に出て俺たちは暫く歩いた。
「この前は」と煙草に火をつけて男が言った。
「悪かったな」

「この前?」
「ほら、道端で殴ったろう?」
「何の話?」
「道端でぶつかった時」

男は煙を吐いた。

一気に濃くなった二酸化炭素濃度に空間が歪んでいた。陽炎のように景色が揺らめいている。
歪曲した空気の向こうに頭の弱い妹がいた。
派手な化粧で頭の悪い顔をして男たちに囲まれている。

あれが彼氏?
どれ?

妹を囲んだ男が多過ぎてどれが彼氏か分からない。
俺の毛穴から気泡が泡立つ。
俺は瓶なのだ、炭酸水の。
泡立って大気に二酸化炭素を還元する。
二酸化炭素濃度が高まって気温が上昇していく。
結露して汗が滴るのだ。
夏の夜の汗は冷たい。
その癖、体の芯は、脳髄は、焼き切れるかと思うほど

熱い。
火花が散るんだ。
脳髄をショートさせるような火花が。

「これ、あたしの彼氏よ」と妹は言った。
「どれ?」
「みんなよ」と妹は言った。
「この人は弁護士の息子。この人は銀行家の息子。この人は警察の偉い人の息子。それからこちらは医者の息子。この人は県会議員の息子。」
男たちはニタニタと笑っていた。
俺は男たちに尋ねた。
「あんたたちは、妹の恋人?」

どっと哄笑が起こった。

俺は一番手前の奴の胸を突き飛ばして鼻面をブン殴った。転がっていたビール瓶で殴ったら、そいつは蛙みたいな変な声を出してひっくり返った。
もう一回ぶん殴ろうとしたが、黒服の男が俺を止めた。
男を振り解いて、俺は妹の手を取った。

そして俺は走った。
妹と二人で。

10
誰も追いかけて来なかった。
黒服の男も。
妹の恋人たちも。
俺たちが駆け抜けると街のパンダ達が振り返った。
俺は走った。
街を抜けてずっと。

盲滅法に走ったら人気が無くなって、いつの間にかブッダの寺院に着いた。
寺院の参道には屋台が準備されていた。
明日の祝祭の準備がなされているのだ。既に準備は終わっているらしかった。沢山の屋台のどれもが防水布で覆われて、ひっそりと静まり返っていた。
俺達は参道に座って大きく息を吐いた。
すっかり血液が濁っていた。
肺が破れそうだった。

いつの間にか眠っていた。起きたら日が昇っていてブッタの信徒たちがジロジロ見ていた。俺は妹を起こして再び宛のないまま歩いた。

歩いていたらまた夜になった。
夜の町を歩いていた。
知らない場所だった。

11
「綺麗」
妹が言った。俺達を色とりどりの光が照らしていた。
眼の前でイルミネーションに彩られた観覧車が回っていた。鉄骨のLEDが色を変えながら光る。
「花火みたい」
夜に浮かんだ巨大な鉄の大輪。

「乗るか」と俺は言った。
妹は頷いた。

券売機でチケットを買おうとしたら金が足りなかった。
券売機の下を覗いて金が落ちてないか調べてみたが、券売機の下には金が落ちていなかった。
係りの人間が来てどうしたんだ?と聞いた。
コインを券売機の下に落としたのだと思われたらしい。
金が足りないから落ちてないかどうか探してるんだ、と説明した。
「お客様」と係りの人間は冷ややかに言った。

「他のお客様のご迷惑になりますので。」

振り返るといつの間にか俺達の後ろに行列が出来ていた。
「お金が足りないんです。」と俺は言った。
「誰かお金を下さい。」
「観覧車に乗りたいんです。」
大勢の人間がいたが誰からも返事はなかった。

「お金をくれませんか?」
目の前に若いカップルがいたが返事はなかった。
「何故答えてくれないんですか?あなた方は。人がこうして頼んでいるのに。気持ちが伝わらないのですか。」
俺は男の腕を掴んだ。何処からともなく悲鳴が上がった。
警察を呼べ。誰かが言った。
係りの人間がトランシーバーで誰かに通報した。

「あんた達の人倫を疑う!」
俺は叫んで逃げた。
妹も付いてきた。
緑地の暗がりまで逃げて、俺達は再び観覧車を見上げた。

自販機の釣銭口に手を入れたがお金はなかった。隣の自販機も確かめたがやはり金はなかった。

12
広場にアイスクリームのフードトラックが来ていた。
子どもがアイスクリームを買っていた。
ラムレーズンのアイスを子どもに渡した店主は近場のトイレに入ってフードトラックは暫く無人になった。

観覧車が回っていた。
間もなく閉園だと放送が告げた。残り時間20分。
公園内は閉園の音楽が流れ始めた。
観覧車が回っていた。

フードトラックには沢山の種類のアイスクリームが並んでいた。バニラ&クッキー、チョコミント、ストロベリーチョコレート、バナナミルク、NYチーズケーキ、パッションフルーツ、キャラメルソース、ラズベリーヨーグルト、ハワイアンブルー…。

その隣の缶ケースに釣銭用のコインが溜まっていた。

観覧車が回っていた。
LEDが明滅していた。
鉄の塊は大気の二酸化炭素を撹拌している。
閉園の音楽が流れていた。
観覧車が回っていた。
沢山のアイスクリームフレーバーが並んでいた。
コインは其処にあった。
店主はいなかった。
観覧車が回っていた。
俺は二酸化炭素を吐いていた。

13
何らかの方法でチケットを手に入れた俺達は係員に誘導されて観覧車に乗り込んだ。開いた扉からゴンドラの中に座った。
内側から見ると観覧車の鉄骨は白くペイントされていた。
イルミネーションが白い鉄骨を赤に染めた。

「花火みたいだ」
と俺は言った。

俺達を乗せたゴンドラは少しずつ上がっていった。
これからどうなる?
これからゴンドラは頂上について、それから残りの半周を下って俺達は下りる。
それだけだ。

それだけ。
何も起こらない。

遠目に温かな光が集まっていた。
「祝祭」
寺院の参道に夜店が並んでいた。
夜店が光っている。
あそこには人々が集まっている。
きっと笑顔で。
祝祭が深まっていく。

観覧車は回る。
もうすぐ頂上に着く。
何も起こらない。

観覧車は回る。
訥々と。
何も起こらない。

何も。
何も。

(短編小説「花火」村崎懐炉)

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