短編小説「駄菓子蟲を飼う」

古田美津子は更衣室でブラウスを脱いだ。
脱いで、露になった柔肌をつい隠した。
隣に古田美津子より十歳年若の後輩社員が明日より始まる三連休に、ムチムチと浮かれていた。
古田美津子の扁平な体を、後輩、野木真理が嗤ったような気がした。
「先輩の胸は扁平ですね。」と野木真理が言ったような気がした。
「でも、腰回りは重厚感がありますね。」と野木真理が言ったような気がした。
「肌には年齢の深みを感じます、そうまるで老いた松柏のような」と野木真理が言ったような気がした。
古田美津子は野木真理を見た。
確かに彼女は若くムチムチしている。
勝てない、と古田美津子は思う。
「三連休は彼氏と旅行に出かけるんですよ、ちょっと長野に。」と野木真理が言ったような気がした。
長野なんて良いわね、何があるのか知らないけれど。と古田美津子は思った。
「白樺並木に囲まれた良いペンションがあるんです。オーナー夫婦も親切で。それに朝になると森からリスが来るんですよ。」と野木真理が言ったような気がした。
そう言った野木真理の胸が、旅行の期待に膨らんでムチムチしたような気がした。
「久しぶりの旅行なので彼氏がはしゃいじゃって、わざわざ車を買い替えたんですよ。」
と野木真理が言ったような気がした。

「赤いスポーツカーに」
と、野木真理が言ったような気がした瞬間に。

「お前の顔も赤く染めてやろうか」
と声がした。

古田美津子はハッと顔を上げた。ロッカーの内扉に平たく張り付いた鏡の中の胸像と目が合った。
「何が親切なオーナーか。乳繰り合うためのペンション経営で儲ける偽善者め。」
と鏡像が言った気がした。

古田美津子は鏡像を注視した。
胸が平たい。
悲しいことに悪意で胸が膨らむ事は、無い。
古田美津子は深いため息をついた。

野木真理はさっさと着替えてムチムチと退勤した。

------------------------
古田美津子はしがないOLである。

「しがない」とは。
つまらない、とるに足らないことを「しがない」と呼ぶ。
古田美津子は「しがない」地方の卸売業者に勤める「しがない」OLで、
目下の問題は職業を抜きにしても古田美津子という人間が「しがない」ことにある。

後輩のムチムチ子は美津子と同じ会社で同じ仕事をしながらもムチムチしている。それにも関わらず、古田美津子は「しがない」。それは古田美津子という存在の「しがなさ」に他ならない。古田美津子は「しがない」古田美津子なのだ。「しがなくない」古田美津子になりたい、そう彼女は考えているが、明日から始まる三連休に何も予定がない。
同僚はおろか先輩の老女たちでさえ、ムチムチと浮かれているというのに。

「お前だってムチムチすれば良いじゃないか。」と鏡像が言った。
「どうやって?こんなに平たい胸で」と古田美津子は言った。
「寄せて上げれば良いじゃないか」と鏡像が言ったので、古田美津子は寄せて上げてみた。
古田美津子の平たい胸は、その「しがなさ」は何も変わらなかった。

古田美津子は何をどうしても「しがない」古田美津子だ。
地方で菓子問屋に勤める「しがない」美津子なのであった。
--------------------------------
卸問屋の役割は物流の潤滑にある。
数多いメーカーの売る商品を別個にメーカーに注文するのは煩雑に過ぎる。であるから各社の商品を取りまとめる卸問屋が必要となる。
美津子は菓子卸売を商う千鹿谷商会の営業である。決まった曜日に決まったルートで取引先の商店を回っている。

取引店はメーカーの電話番号をその都度調べて発注をかける必要はない。美津子に、千鹿谷商会に頼むだけで良い。
取引先の商店は老人が営む小さな日用雑貨店が多い。子供向けに駄菓子を扱う。駄菓子が主の商品となっている店も多い。
化石のような老人が店の隅に座っている。美津子が来ても動かない地蔵のような老人も多い。
美津子は快活に挨拶をして店舗に入り、品切れた駄菓子を納品する。荷ほどきして陳列棚に並べる。
老人は何も言わない。美津子は不安になる。本当にこの店はこの世に存在しているのだろうか。自らが何か得体のしれない異空間に迷ったのではないか。
美津子は店内を見渡した。蛍光灯が切れて薄暗い店内に充満する埃と黴の匂い。店内に動くものは何もない。静寂であった。
電池が切れた玩具のような、静寂であった。

美津子はぞっとした。ここには生きているものが何もない。
「電池を替えなければ」美津子は言った。
言ってからかぶりを振った。
「いや」
老人は電池で動いてはいない。
見識が見誤る。
老人は電池で動かない。


「さよなら」
美津子は言った。
老人からの返事はなかった。
「また来週、来ますね」
美津子は言った。

「偽善者!」
美津子は鏡を見た。
鏡の中で起伏の少ないブラジャーを着けた鏡像が美津子に言った。
「老人相手に汚い商売をしやがって!」
美津子は返事をしなかった。それから美津子は私服に着替えて千鹿谷商会を退勤した。

------------------------------
古田美津子が同僚の佐久間を尾行したのはその四半刻後のことであった。
古田美津子が貧相な胸を隠すように猫背歩きをしていると、目の前を歩く佐久間に気付いた。
佐久間の帰路はこちらではない筈だが。

古田美津子は佐久間の行動に微小の違和感を感じた。
どうせ、明日もやることがあるでなし、今晩も暇を持て余して一人寝の用しかない。
佐久間の行動に何か秘密があるものか、そのような他人の秘密を垣間見て知見を増やし、好奇心の優越感に浸るのも悪くなかろうと、古田美津子は考えた。
しばらく歩いて公園に来た佐久間は公衆トイレに入った。
古田は草陰に隠れて佐久間を待った。
半刻待った。
佐久間がトイレから出てこない。
眠ってしまったのだろうか。

古田美津子はひたすら佐久間を待った。
最初は佐久間の奇行を訝しんだ。
次に不安になった。
もしか佐久間は死んだのかもしれない。
急死であろうか。それとも自殺であろうか。
トイレから半刻出てこない用など他にあるだろうか。そうだ、佐久間は死んだに違いない。屹度自殺だ。儚んだのだ、人生を。しがない自らの境遇を。風体の冴えぬ、うだつの上がらぬ男であった。彼には凡そ筋肉というものを感じなかった。ジェンダーの魅力というものが皆無であった。だが餅肌だった。古田美津子は佐久間が荷下ろしをする腕に触れたことがある。
餅肌で驚いた。松皮の鱗の如き自らの肌とは大きく違った。餅肌であることが佐久間の男性性の品格を下げたと思った。
そこまで考えて古田美津子は猛烈な自己嫌悪に陥った。
偉そうに言える立場では無い。
「あたしも同じだ」
古田美津子は言った。その点で佐久間は同志であった。ジェンダーにまつろわぬ朋友であった。
「あたしは朋友を見殺した。」
古田美津子は言った。どうして徘徊する佐久間に声を掛けなかった。出歯亀根性で後など尾行けずに、声を掛ければ佐久間は死ななかったかもしれない。
「あたしは浜辺の老松だ。ひび割れた松皮だ。」古田美津子は言った。

それから佐久間がトイレから出てきた。
「あ」
その佐久間を見て古田美津子は頓狂の声を上げた。
佐久間は女になっていた。
小太りで餅肌の女に変身していた。

「変態だ」古田美津子は思った。
「こいつはとんでもない変態であった。」古田美津子は佐久間を悪しざまに侮蔑した。心中で罵倒した。
「彼奴は決して盟友等では無かった。」

そう思った瞬間、美津子は手甲に痛みを感じて小さく叫んだ。
虫!
虫が美津子の手甲に爪を立てている。
咄嗟に古田美津子は虫を払った。
齧られた跡から血が滲んだ。

もう一匹が、いや数匹が美津子の体躯を這っていた。
佐久間に夢中であったため、気が付かなかった。

だが、その時美津子は気が付いた。
これは虫ではない。
もっと美津子が見慣れたもの。見覚えがあるもの。
だが、それが美津子には信じられない。

信じられないまま、美津子は悲鳴を上げた。

------------------------

美津子は夢を見た。
お菓子泥棒が現れて美津子のお菓子を奪う。

振り向いたお菓子泥棒に顔がない。
黒い影となった顔に白い歯だけが浮いて、美津子を嘲って笑う。

朝起きた美津子は買い置きのキャベツ太郎が無くなっていることに気が付いた。
お菓子泥棒が奪ったのだろうか。

キャベツ太郎の販売者は株式会社やおきんであるが、「キャベツ太郎」を製造しているのは株式会社菓道である。「キャベツ太郎」は丸いボールのような形をしたスナック菓子でサクサクとした食感が軽い。
口どけが良く後を引く。この食感は株式会社やおきんのベストセラー商品「うまい棒」に似る。この「うまい棒」も製造者は株式会社菓道である。株式会社やおきんは実は製造工場を持たない。製菓メーカーの商品を取りまとめて、「やおきん」の名前を付けて売るのが仕事である。泥棒のような仕事だ。これをファブレスと呼ぶ。やおきんから商品を購入する千鹿谷商会もまたファブレスだ。商品を安く買って高く売る。経済とは、商流とは泥棒のような行為だ。いや、そうではない。経済は交換だ。泥棒は経済の破壊者だ。だが、経済は常に革新する。泥棒が旧い経済を壊して新たな経済を作るのだ。

美津子が夢で出会ったお菓子泥棒は千鹿谷商会そのものであったかもしれない。

ファブレス企業であるやおきんの商品カタログは数社の製造する菓子が一同に集まる圧巻の出来となっている。「うまい棒」「キャベツ太郎」「ポテトフライ」「蒲焼さん太郎」「カットよっちゃん」「コーヒーシガレット」国内の駄菓子の大半をやおきんが扱っている。駄菓子メーカーは規模が小さいため、多くの発注を捌くことが難しい。駄菓子メーカーを取りまとめて全国から寄せられる発注の受注窓口となっているのが株式会社やおきんである。

やおきんカタログ(最新は2020年版、毎年更新される)


美津子の勤める千鹿谷商会もやおきんから多くの商品を買っている。全国の製菓メーカーの受注窓口がやおきんで、地方の個人商店の発注窓口が千鹿谷商会。共に物流の仲介である。千鹿谷商会に於いて買い付けは主に佐久間が担当している。駄菓子メーカーの製造する膨大な数の商品の全てを買うことは出来ないため人気の出そうな商品を見定めて発注する必要がある。それが佐久間の仕事であった。佐久間の勘所に頼って商品が選定される。その点で佐久間は優れた力を持っていた。ルート営業をする古田美津子は卸した商品の手応えを直接感じ取ることができる。
佐久間の入れた新商品が個人営業の駄菓子屋で小学生たちに流行をもたらす。その瞬間を古田は幾度も目にしてきたのだ。

その日の朝。
「キャベツ太郎がない。」
美津子は首を傾げた。
まさか菓子に足が生えて勝手に他所に行くでなし。
とそんな、今朝の疑問が、いま、夜の公園にて瞬時の回答を得た。

美津子の体を這った黒き虫はチロルチョコレート(コーヒーヌガー)であった。
まさに菓子に足が生えていた。美津子の周辺を狂暴化したチロル甲虫が飛んでいた。
チロル虫たちが美津子の皮膚に牙を立てる。
いままさに美津子はチロルチョコレートに食われかかっていた。
---------------------------------

午後、十時。美津子は自室に戻って部屋着に着替えたところであった。
チロルチョコレートが食い破った皮膚に絆創膏を当てた。
チロルチョコレート虫は直後に殴殺されて、回収されテーブルの上のグラスに積まれていた。
もう彼らが動くことはない。残らずコーヒーヌガー達は駆除されたのだ。

チロル甲虫を殺虫して美津子を助けたのは女装した佐久間である。
佐久間は鮮やかな手つきでチロル甲虫を叩き落とし、殺虫に成功した。
その佐久間(女装)はいま、美津子の部屋にいる。

美津子が「男」を部屋に入れたのはこれが初めてであった。

公園でチロル虫に襲われた美津子は悲鳴を上げた。それに気付いた佐久間が駆け寄り、瞬く間にチロル虫を撃退したのだが、それが悪かった。悲鳴を聞いて駆け付けた付近の住民が見たものは美津子とその前に立つ女装中年男であった。

美津子はその「不味さ」に気付いた。このままでは佐久間が変態罪で捕まってしまう。美津子は佐久間の手を引いてその場を逃げた。逃げてタクシーに乗った。「どちらまで」と言いかけたタクシーの運転手は女装した佐久間を見て無言になった。慌てた美津子はつい運転手に自宅の住所を告げてしまった。道中、タクシーの車内では誰も喋らなかった。

----------------------------

美津子は思った。
何故、チロルチョコレートは虫になったのだろう。何故、公園にいたのだろう。何故、佐久間はそれをこともなげに退治したのだろう。佐久間は知っているのだ、チロル虫の存在を。何故、佐久間はそれを知っていたのだろう。公然の事実なのだろうか。千鹿谷商会の誰もが知っているのだろうか。それはさりとて、何故、佐久間は女装しているのだろう。

何から聞けば良いのだろうかと美津子は悩んだ。
口火を切ったのは佐久間だった。

「好きなんです」
と佐久間は言った。
何が、と美津子は思った。チロルチョコレートの事だろうか。いや、それはない。文脈が合わない。それでは何か、あたしか、いまこの男はあたしのことが好きといっただろうか。
美津子の体が急速に火照った。理性がそれを打ち消しても身体は言うことを聞かない。

「女装が」
と佐久間は言った。
美津子の身体が急速に冷えた。
「女装が好きだ」と言われても美津子にとって得する事は何もない。美津子の胸が平たいように、佐久間の話題もまた扁平な話題であった。佐久間が女装していることなど、どうでも良い話に思われた。

「あとお菓子も」
佐久間は言い足した。
もっとどうでも良い話に違いなかった。

-----------------------------

食料自給率の低いこの国ではしばしば原材料の供給が不安定になることで、お菓子飢饉が起こる。誰か、偉い人が「お菓子が勝手に増えれば良いのに」と考えた。この考えは全国製菓業者協会を中心に宗教的な広がりを見せるに至り、いつの間にか実現してしまった。
いまやお菓子は産卵して孵化して、育って生殖してまた産卵のサイクルを繰り返して殖えているのだ。

と佐久間は言った。

今しがた恋を失った美津子には興味のある話ではなかった。

元気な駄菓子を狩って、それを殺処分して出荷するのだと佐久間は言った。
「それでは、あたしたちは死んだ駄菓子を食べているの?お店に並んでいるのはみんな死骸?」
と美津子は言った。
「勿論だ」と佐久間は言った。
「今やスーパーで生きたまま売られているのはアサリくらいのものだよ」
「でも先ほどのチロルチョコレートは生きていたわ」
「殺しきれないで、逃げ出す駄菓子もいるんだ」
「駄菓子が?逃げ出すの?」
「そんな覚えがない?買い置いた駄菓子がいつの間にか消えている。」

覚えがあった。
朝のキャベツ太郎。

「ああ、それなら」と佐久間は言った。
「あそこにいる。」

天井の隅にキャベツ太郎が張り付いていた。
羽音を立ててキャベツ太郎が飛んだ。
美津子は思った。
キャベツ太郎は数袋をまとめて買ったのだが、他の袋もまた生き返るのだろうか。

その答えは目の前にあった。
数袋のキャベツ太郎が部屋内を飛び回った。

美津子は目くらんだ。
キャベツ太郎たちはテーブルの上のチロルチョコレート虫の死骸に群れた。

キャベツ太郎たちがチロルチョコレート甲虫の死骸を貪っている。
その背後にスリッパを持った佐久間がいる。

「やめて」美津子は言った。
「でも」佐久間は言った。

その通りだ、と美津子は思った。
彼らを生かしておくことはできない。佐久間の言う通りスリッパで彼らを潰さなければいけない。生きている彼らを美津子が飼育することなど出来ない。
だが、佐久間がスリッパを再び構えた時に美津子はそれを止めるのだ。


-------------------------------
キャベツ太郎を飼育することになった美津子は早々に困った問題に直面した。キャベツ太郎たちは貪欲で、五袋のキャベツ太郎はその晩に共食いして残ったのは一袋だけだった。
キャベツ太郎を育てるということは大量の餌を用意しなければならない、ということでもあった。

「キャベツ太郎がキャベツ太郎を食べると、袋の内容量が増えるのかしら。」
美津子は佐久間に尋ねた。
「さあ」
佐久間は答えた。
「でも、増えないだろうね。キャベツ太郎がチロルチョコレートを食べても袋の中の味はチョコレート味になるわけではない。」
佐久間は時折、美津子の部屋を訪れるようになっていた。
キャベツ太郎も佐久間に懐いた。
 
キャベツ太郎に生餌を与えるため二人はよく夜の公園に向かった。佐久間は野生化した駄菓子を見つけるのが巧みであった。
公園にはよくチロル虫が街灯に群れていた。
草陰には蒲焼さん太郎が這っていた。
池の中を見るとうまい棒サラミ味が遊泳していた。

佐久間は蒲焼さん太郎を見つけるとちぎって、簡易に作った釣り竿に付けた。池に投げるとうまい棒が寄ってくる。其れを釣った。陸上でうまい棒は身をくねらせながら、アルミの包装紙を光らせた。捕まえようとすると暴れた。

昼間の倉庫に陳列された駄菓子と異なり、彼らは活き活きとしていた。これが彼らの本当の姿なのだ。
其れ等をキャベツ太郎はよく食べた。
旺盛に食餌するキャベツ太郎を見るのが美津子は好きだった。
佐久間もまたその光景が、キャベツ太郎を見守る美津子の横顔が好きだった。
二人はよく夜を共に歩いた。

佐久間は美津子の前で女装しない。
「見せてよ」
美津子は言った。
「嫌だよ」
佐久間は言った。
佐久間はシャツを捲った。緑色のブラジャーを着けていた。

佐久間は単なる変態であったが、単なる変態は扁平ではない。美津子は思った。ブラジャーに手を差し伸べて内容をまさぐった。
餅肌であった。

「やめろよ」佐久間が言った。
「変態」美津子が言った。


----------------------------------

或る日、千鹿谷商会に駄菓子博覧会の招待状が届いた。千鹿谷商会の会長である千鹿谷仙蔵はバイヤーとして一目置かれる佐久間に出張命令を出した。
「罠かもしれない」と会長は言った。
「勿論行きますよ」と佐久間は言った。

「お菓子博覧会って?」
美津子は佐久間に尋ねた。美津子の部屋でテレビを見ながら佐久間は答えた。
「全国の駄菓子が一斉に集まるんだけれど、それはすべて生きた状態でお披露目されるんだ。ほらサファリパークみたいなものだよ。」
「危なくないの?」
美津子は言った。駄菓子たちの危険は十分承知している。
「好きなんだ」と佐久間は言った。
「お菓子が、でしょ」と美津子が言った。
「いいや、君も」と佐久間が言った。

-------------

キャベツ太郎の飼い方
餌は何でも食べる。
放っておけば勝手に育つ。
部屋の隅にいるゴキブリも食べる。
後で成長したキャベツ太郎を食べるつもりなら、ゴキブリを食べさせない為に平素は飼育箱に入れて飼うこと。
寝首をかくことがある。食べられないように注意する。
時々散歩に連れていく。
公園でチロルチョコレート甲虫を食べさせるのが良い。
他のキャベツ太郎と飼うと共食いするが稀に生殖して殖える事がある。
キャベツ太郎は知能が高く、人に懐くが、好き嫌いが強い。嫌われないように細心の注意をしなければいけない。キャベツ太郎の嫌がる事はしないこと。彼らは怨み深い。
キャベツ太郎の包装袋の継ぎ目の筋の裏側をに撫でると彼らは喜ぶ。
亜種に玉葱さん太郎がいるが、共食いするので一緒に飼うのはオススメしない。更に亜種にもろこし輪太郎、もろこし輪太郎ピリ辛豆板醤味がいるが、やはり共食いする。少し小さな種で餅太郎、どんどん焼き、どんどん焼きキムチ味がいるが、彼らはキャベツ太郎から器用に逃げるため、一緒に飼うことは出来るが、食費が大変。

ちなみにうまい棒をカットして袋詰めしたものが売られているが、こちらは株式会社菓道の製造ではなく、株式会社リスカが作っている。リスカの元の社名は株式会社立正堂スナック菓子。創業者武藤則夫の実弟武藤尚文は株式会社菓道の創業者でもある。やおきんの石井常雄常務は親戚にあたる。

やおきんのうまい棒に毎回登場する「ドラえもんみたいなキャラ」の名前はうまえもんであると、数年前に公式発表された。ドラえもんの剽窃であると、誰の目から見ても明らかであるが既にキャラクターとして独立して関連グッズなども作られた所に藤子不二雄プロと間に難解な権利関係が発生する事を恐れて株式会社やおきん関係者は、この問題に対する回答を避けている。

----------------------------------

博覧会の会場で他の卸問屋の計略に嵌り、佐久間とキャベツ太郎が蒲焼さん太郎に食い殺されたことで、千鹿谷商会の創業者千鹿谷仙蔵は急速に老衰した。
彼もまた魔法の住人であった。高齢にも関わらず精力は衰えず商会を牽引していた。
だが、その魔法も切れた。
彼はただの、「しがない」老人であった。彼の健康法は生きたままのカットよっちゃんを食べる事であったが、もはやそれも彼の魔法を補うに至らなかった。
古田美津子にとって千鹿谷商会は「しがない」地方の菓子問屋に戻り、古田美津子もまた「しがない」人間に戻った。

化石の井端商店に行き、物言わぬ地蔵老婆に話しかけながら商品の陳列をしていると、齧々と音がする。
地蔵の老婆が噛み合わぬ入れ歯で唾液を咀嚼する音かと、古田美津子は老婆を見た。
明滅するテレビ画面を背景に老婆のシルエットが象られていた。その老婆の影像の喉仏に不自然な瘤がある。

古田美津子は目を細めた。
植竹製菓のチョコフォーカステラが、老婆の喉仏を齧っている。

危ない!
古田美津子は咄嗟に喰らいついたチョコフォーカステラを喉仏から引きちぎろうとした。


だが、止めた。
美津子は商店の中を見回した。
犇めいている。
駄菓子蟲が仮宿の眠りから覚めて、井端商店に営巣せんとする息吹が聞こえる。

卸売業と個人商店の時代は終わるのだ。スーパーも、コンビニエンスストアも卸問屋を介さず自社の流通機構を備えてメーカーから直接買い付けを行っている。地方物流は死ぬのだ。

美津子は井端商店を後にした。
入れ替わりに学校帰りの子供たちが三人、商店に入った。
子供たちを応対する老婆の、柔らかくて暖かな声が聞こえた。

無生命体である駄菓子が生命を持つに至るなら、駄菓子に齧られた老婆の死体が生き返って店番を務める時代が来るかもしれないし、もしかしたらそれは井端商店でとうに実現しているのかもしれない。美津子は営業車を運転しながら考える事を止めた。

-------

千鹿谷商会が廃業する。
そうした事実を古田美津子は淡々と受け止めた。
廃業に当たって商会は資産整理など少しく忙しくなったようであるが、営業職である古田美津子は、同じように営業車両に駄菓子を積み、商店をルートし、商品の荷卸と棚の整理をする。それはなんら日常は変わらなかった。
今日は休日であった。
古田美津子は一月後に退職が決まった。となれば、しがない会社の、しがない職務の合間に訪れるしがない休日も残り僅かしかない。

職場の野木真理は退職後に結婚をするらしい。美津子には招待状は来ないだろう。もしかしたら美津子にも、佐久間と結婚式の招待客の算段を組む未来があったかもしれない。だが、それは夢に消えた。

お菓子泥棒はやはりいたのだ。全て奪われてしまった。佐久間も、キャベツ太郎も。お菓子博覧会に美津子もついていけば良かった。佐久間を見殺しにしたのはあたしだ、と美津子は思った。失ってしまった。永遠に。佐久間が忘れていったブラジャーを美津子は身に着けた。サイズが馴染んだ。ブラジャーの内容をまさぐった。餅肌では無かった。

古田美津子はグラスに盛ったチロルチョコレートに手を掛けた。
包装紙を剥いて、チョコレートを眺める。チョコレートは静寂していた。それが眠りなのか死なのか、古田美津子には分からない。溶けたチョコレートに筋肉の名残が見える。地方の卸売業者が廃れた事で、野生化した駄菓子たちを捕らえる者が減る。街には頻繁に彼らが現れ生態系を乱すだろう。だが、其れは美津子にとってはどうでも良い話だった。
指に摘んだチロルチョコレートが「とくん」と脈動したような気がした。古田美津子はチロルチョコレートを口中に頬張った。


(短編小説「駄菓子蟲を飼う」村崎懐炉)

#小説 #詩人 #招待状 #やおきん

#ネムキリスペクト #眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー