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大牟婁勘太郎の闇んでるニュース「竹林の七自殺者」

第一幕「竹林の七自殺者」

牟婁伏市の北東、首無山の裾野に広がる金神の竹林にある虎塚の話は誰でも知っている。

天正二十年の文禄の役で太閤閣下が虎を所望されたので武将たちは半島の虎を躍起に狩った。
時の牟婁伏領主、四津首悪太郎も亦た奮迅の活躍によって朝鮮半島の人喰い虎を生け捕りにして本国に送った。所が太閤閣下の御殿には既に各所から送られた虎が幾匹もいたので、四津首悪太郎の虎は御国に返品されてしまった。仕方なく四津首の屋敷で此れを飼ったが元来が荒ぶる獣性の虎であったので屋敷から逃げ出して首無山に隠れた。
朝鮮で人を喰らった虎であったので領民が次々食われた。男も女も婆も女児も無惨に喰われた。その数が百になろうとした時に山人の何某が罠を仕掛けて漸く之を捕った。捕ったが、この何某も罠に掛かった虎に半身を食われて死んだ。

「その何某と人喰い虎を祀ったのが金神の竹林にある虎塚なんですよ」

牟婁伏小学校五年一組の課外授業で、子供たちは金神の竹林に来ていた。学校教員の隅田川雄一は子供達に虎塚の伝説を語るのであった。

金神の竹林は学校裏手から首無山地に続く鬱蒼とした竹林で、林道から逸れると奥深い山地に迷い込む事もある。学校教員は無軌道に溌剌を持て余す子供達が林道から外れぬよう気遣うのであった。

「ア……ッ…!」
教員の話を聞いていた真葛忠夫君は、自分の二の腕に止まった蜉蝣の複眼と目が合った。細面の頭部から口吻が奇っ怪の形に伸びる。

驚いた真葛君の体動で、蜉蝣は彼の二の腕から翔んだ。
「待て……ッ…!」
真葛君は走り出して竹藪に蜉蝣を追った。
その彼を「こら」と隅田川雄一教諭が叱る。

「薮に入ってはいけないと言ったでしょう。この薮の中に入ると目眩がして方向感覚が狂い、戻って来れなくなるんですよ」
金神の竹林と虎塚の血腥い伝説を子ども達は恐々と聞いた。

「僕、知っているんだ」
勝鬨橋春斗少年が言った。
「最初に虎に喰われたのは七人……。この場所には虎に襲われてバラバラになった七人の人肉が竹からぶら下がっていたんだよ……」

「キャア……ッ…!」
勝鬨橋少年の独語を聞いた少女達が恐ろしさに悲鳴をあげた。
「怖いよう…ッ…!」
大山花子が泣き出した。

真葛君を叱ったばかりの隅田川雄一先生は今度は怖がる子供達を宥めなければならなかった。

「虎塚のお話は先生も知っています。虎に食べられた人たちは亡霊になって今でも森の中を彷徨うと言います…。そうして心の弱くなった人々を呼んでは自死を教唆して虎の亡霊に捧げる供物にするのですよ……。ここは自殺の名所なのです……」
そう言って隅田川雄一は竹藪の奥底を見つめた。今にも、人喰い虎が、亡霊たちが、自殺死体が、現れそうな不気味の竹林である。

「キャア……ッ…!」
隅田川雄一の視線を追って堪えきれなくなった浮島結子が到頭泣いた。それらに釣られて女子達は愈々泣き喚くのであった。
隅田川雄一は泣き叫ぶ子供を宥める事に失敗した。

そのような五年一組の阿鼻叫喚を獅童伊津子は不機嫌顔して非難した。
「くだらない……ッ…!」
ただの伝説だ。大人が子どもを怖がらせる類の。獅童伊津子に従う少女グループは勝気な獅童の態度に何処か安心を覚えるのであった。

「大体、虎に食べられる方が悪いのよ…ッ…!」
獅童伊津子は言い捨てた。
「あたしだったら、こうして、こうして悪い虎なんてやっつけてやるわッ…!」
獅童伊津子は空手チョップを振りかざした。

「先生、そろそろお弁当の時間では無いですか…ッ…!」
本日、五年一組は虎塚で昼食を食べる事になっていた。

「さあ、皆さん、良い場所を探しましょう」
獅童伊津子はグループの少女たちに声を掛けた。

「退きなさいよ…ッ…!」
少女グループはさめざめと泣く大山花子や不安がる男子たちを押しのけて場所を確保した。

「獅童さん、こちらへどうぞ」
グループの少女から促されて獅童伊津子は上座に座ろうとした。


その獅童伊津子の目の端に不審物が揺れた。

「何かしら」と獅童伊津子は不審物を見た。
それは空中に浮く黒靴であった。
その靴がゆっくりと回転していた。
靴の先に足がある。
スラックスを履いた足が上方に伸びて、見上げた獅童伊津子の目の先に首吊り死体が下がっていた。

「ギャアー、ー、ーッ…!」
獅童伊津子は美少女の相貌を崩して恐怖に叫んだ。
次々子供達は叫んだ。
その声がゴオ、オ、オと一陣の風を呼んだ。
森の木々が撹乱して葉擦れの音を立てた。
子供達は再た叫んだ。
叫び声が森奥に響く中、首吊り死体は風に揺れてくるくると回転した。


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第二景

春宵。
五年一組の春の課外授業での騒動は五年二組に進級した大牟婁勘太郎少年の耳にも入っていた。勘太郎少年は夕食を食べ終わり、二階の自室にいる。窓外には聳立する庭木と隣家と夜空の下に黒い影となる山々が見える。

「自殺者の森」
大牟婁勘太郎少年はPCに文字を入力した。

彼はいま牟婁伏市の地域ニュース動画の編集中であった。
五年一組の子供達が発見した自殺死体のニュースをまとめている。
自殺者は市内のサラリーマンであった。五年一組が虎塚に課外授業に行った、その前日まで日頃と変わらない様子で出社していた。自殺の原因は分からないという。大牟婁勘太郎少年は頭を悩ませた。
「うーん……」
前日までいつもと変わりない勤労をして、翌日に死ぬ。
「理由の無い自殺なんてするんだろうか」
と勘太郎は独語を呟く。

「するわよ」

勘太郎少年の独語に返答があった。

「えッ…!」
驚いた勘太郎が椅子から転げて振り返ると、勘太郎の背後に隣家のお姐さん、御斎美津子が立っているのであった。

「自殺する理由は人それぞれ……」
御斎美津子は静かに言った。
薄い唇が大人びて妖艶の美しさを纏う。憂いを湛えた切れ長の眦で勘太郎を見下ろしていた。

「お姉ちゃん……ッ…!どうして部屋にいるの…ッ…!」
勘太郎少年は言った。いつの間に隣家に住む御斎美津子が勘太郎の私室に闖入し、背後に立っていたのか勘太郎は知らない。

「アラ」
御斎美津子は言った。
「ちゃんとノックはしたのよ、でも勘太郎チャンが気付かなかったみたいで……」

その時、勘太郎の母、大牟婁迦楼羅がジュースとロールケーキを盆に乗せて入ってきた。

「勘太郎チャンッ…!今日は美津子チャンが来るって言ったでしょう……ッ…!」

そうであった。市内に住む親族が亡くなり、勘太郎の両親は通夜に参列するのである。勘太郎を一人で家に残すのが心配で、隣家に住む幼なじみの御斎美津子に留守番を頼んで居たのだ。
今朝、朝食の目玉焼きトーストを食べながら、勘太郎は母からそれを聞いていた。

「僕、忘れていた……!」
勘太郎はおのが不明を恥じた。


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「それで、勘太郎チャンは虎塚に興味を持ったのね」
ロールケーキを食べながら御斎美津子は言った。ロールケーキを巻くシュー皮が虎模様を描いていた。
「次の配信は虎塚なのね」
御斎美津子のフォークが、クリームの中のイチゴを割った。
一口でイタリアンロールを食べてしまった勘太郎は、ゆっくりと甘味を味わう御斎美津子を、その上下する喉を羨ましげに眺めた。

「そうだよ…ッ…、今度は虎塚だよ…ッ…!」
勘太郎は言った。

「虎塚のある金神の竹林は自殺の名所なのよ」
御斎美津子は半分になったイチゴをフォークに刺して、勘太郎に差し出した。
勘太郎はそれを食べた。

「自殺…ッ…!」
勘太郎はイチゴを頬張りながら驚愕した。
まだ幼い勘太郎は人間が何故自死するのか、その人生の辛酸を知らない。
「そうよ…ッ…!自殺よ…ッ…!」
御斎美津子も未だ人生の辛酸を知るには若過ぎる。だが、彼女は実年齢を超える精神の規矩がある、と勘太郎は感じていた。御斎美津子の妖艶の美と精神の規矩は勘太郎に謎めいて映る。勘太郎にとって美津子は隣家の姉であるとともに神秘の存在であった。
「勘太郎チャンは知っているかしら……。」
静かに、含みを持って御斎美津子は言った。

「え……ッ…!何を……ッ…!」
勘太郎は言った。御斎美津子に見据えられると、勘太郎は胸が切なくなる。この心算の正体を少年は知らない。
「何のこと……お姉ちゃん……ッ…!」


「は、は、は、は…ッ…!」
御斎美津子の唇が開いて細首の空孔、喉奥から嬌笑が零れた。

「竹林の七自殺者……ッ…!」
御斎美津子は言った。

「竹林の、七自殺者……ッ…!」
恐ろしき言葉の響に勘太郎は諤々と震えた。

「お姉チャン…ッ…!それは…何なのッ…!」


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第三景

伏し目がちに御斎美津子は秘密を語る。
「あれは三年前……」


市有林である金神の竹林を開発して公営住宅を建設する計画が牟婁伏市市議会で持ち上がった。

「人口流出に歯止めをかけるのだ……ッ…!」
当時の市議会を牽引する若きリーダー、籠目三四郎議員は熱弁を奮う。
「この街に光を……ッ…!栄光を……ッ…!幸福を……ッ…!」

「そうだ……ッ…!」
古豪の政治家、狐狸庵源助は若い市議会議員の情熱に心絆されて涙した。市議会議員十三人のうち七人が万感の思いを以て立ち上がったのである。

開発行為は市内有数の建設会社である犬井建設が請け負うことになった。

だがしかし。
それが公表されるや否や、公共住宅を巡る事態は不穏の空気に包まれたのであった。
牟婁伏市の市民が猛火の如く反対運動を起こしたのである。

「金神森に鋤を入れてはならない…ッ…!」
反対派の代表者林藤今朝治はさけんだ。
「鋤を入れるな…ッ…!」
反対派のデモ隊が呼応した。

「皆さん落ち着いて…ッ…!」
反対派のデモ隊の前に推進派リーダー籠目三四郎が秘書を引き連れて立った。
「街から住民がいなくなっているのです…ッ…!流出です…ッ…!住民を失った街は機能出来ません…ッ…!再び街に活気を取り戻すためには門戸を開いて市外から人を呼ばねばなりません…ッ…!」

「逆賊…ッ…!」
籠目三四郎目掛けて生卵が投げられた。卵は籠目三四郎の前頭で割れた。

どろりと潰れた卵黄と卵白が籠目三四郎の額を流れた。額下の、籠目三四郎の眼光は屹と反対派を見据えて燃えた。
「先生…ッ…!」
秘書が額を拭こうとしたが、籠目三四郎はそれを止めた。

「皆サン…ッ…!」
尚も籠目三四郎は反対派の住民に訴えた。
「子ども達に明るい未来を…ッ…!未来を作るのは大人の責任です…ッ…!」

その籠目三四郎に老婆が叫んだ。
「黙れー、ー、ーッ…!」

その老婆に籠目三四郎が答えた。
「お婆サン…ッ…!何を…言うのですか…ッ…!綺麗で清潔な公営住宅を作る事が何故悪いのですか…ッ…!」

老婆が言った。
「金神の竹林を侵せば…祟りがあるぜよーーー…ッ…!」

「祟り…ッ…!」
籠目三四郎は言った。
「お婆サン…祟りと言いましたか…ッ…!」

「祟りじゃ…ッ…!」老婆は言った。
「金神様の祟りに遭って七人が……」
「七人が……?」
老婆は言った。
「七人が……死ぬ…ッ…!」

「ウ、ワ、ー…ッ…!」
老婆の気勢に押されて籠目三四郎は腰を抜かし、尻餅をつくのであった。
「七人が……死ぬ…ッ…!」


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「収賄」
金神の竹林の開発を行う犬井建設と市議会議員籠目三四郎が結託し、関係者に相当額の金銭を配り、市議会の決定を不法に誘導していた事が発覚したのは造成工事が始まった七日目の事であった。

牟婁伏市市議会十三人のうち、推進派の副翼、狐狸庵源助は詰め寄る報道に言った。
「私は……知らない…ッ…!」
女性記者は言った。
「贈収賄の記録は警察が押収しているのですよ…ッ…!不正が行われた事は明らかです…ッ…!」
行き詰まった狐狸庵源助は隣にいた若者を指差した。
「秘書が独断でやったんだ…ッ…!」

籠目三四郎、狐狸庵源助を含む開発推進派議員七名の秘書達が金神の竹林で首吊り自殺したと報道されたのはその翌日の事であった。


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御斎美津子から「竹林の七自殺者」について聞かされた大牟婁勘太郎少年は吃驚していた。
「竹林の……七自殺者…ッ…!」
「今でも金神の竹林には浮かばれない七自殺者の霊が彷徨っているのよ……」

ガタガタと勘太郎少年は震えた。其れは成仏しない七自殺者の幽魂を恐れる気持ちと、子供には理解し得ない人生の浮沈を恐れる気持ちから来る戦慄きであった。


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第四景

「大牟婁勘太郎の闇んでるニュース…ッ…!」
モバイルフォンの録画画面に映ったのは大牟婁勘太郎少年であった。

「僕は…ッ…!牟婁伏小学校五年二組の大牟婁勘太郎です…ッ…!」

勘太郎が運営する動画チャンネル「大牟婁勘太郎の闇んでるニュース」の収録である。
モバイルフォンを持って動画撮影しているのは御斎美津子であった。

「いいわ…ッ…!勘太郎チャン…頑張って…ッ…!」
御斎美津子は言った。

「あっ…ッ…!」
勘太郎は言った。
「お姉チャン…ッ…!駄目じゃないか…ッ…!喋ったら声が録画に入ってしまう…ッ…!」
勘太郎は御斎美津子を叱咤した。
「ごめんなさい……」
御斎美津子は勘太郎少年に謝った。
興奮の余り、声が出てしまった。迂闊であった。

再び、録画ボタンが押されて「闇んでるニュース」の収録が始まるのであった。

「大牟婁勘太郎の闇んでるニュースです…ッ…!」
御斎美津子が手書きタイトルの描かれたフリップをカメラに示し、それが外れるとカメラに勘太郎少年が映る。
「僕は…ッ…!牟婁伏小学校五年二組の大牟婁勘太郎です…ッ…!今日は牟婁伏小学校の裏にある金神の竹林にやって来ました……ッ…!」
御斎美津子がカメラの前に「金神の竹林」と書いた手書きのフリップを示した。
「今日は竹林に今も彷徨う七自殺者についてレポートしたいと思います…ッ…!」
勘太郎少年が喋ると「竹林の七自殺者の謎」というフリップを御斎美津子が映した。

scene2
大牟婁勘太郎少年は森の中を歩いている。
「ここが…金神の竹林です…ッ…!昼間でも暗くて、不気味です…ッ…!この竹藪に自殺者が彷徨い、精神の弱った人を呼んで、自死を教唆すると言われます…ッ…!先日もこの森の中で男性が首を吊っているのを牟婁伏小学校五年一組の獅童伊津子さんが発見しました…ッ…!不気味な薮の向こうには今にも七自殺者の幽魂が現れそうです…ッ…!」


カメラが勘太郎の視線を追ってパンニングされて森の深淵にズームインした。カメラの写す竹林は再帰図像のように奥深く広がっていた。カメラの視点は竹林の隙間を奥へ奥へズームしていく。


虎。


虎が、竹林の奥底から此方を狙っていた。猛悪の邪眼が残忍に御斎美津子を見つめた。巨虎がカメラごしに今にも美津子に襲いかからんとしていた。
首を振るって虎が、御斎美津子に吼えた。

「あっ…ッ…!」
御斎美津子は驚いてモバイルフォンを落として仕舞った。
「虎…ッ…!」

「えっ…ッ…何、お姉チャン…ッ…!」
「虎が……、虎が…いる…ッ…!」
勇敢な勘太郎少年は即座に御斎美津子に駆け寄り、竹林の奥底を凝視した。

「何も居ない…ッ…!」
「嘘よ…ッ…!」御斎美津子は言った。
「確かに虎がいたわ…ッ…!」

御斎美津子が録画していた映像を確認すると、最後のシーンに奇怪な形の樹木が映っていた。

「なんだ…!お姉チャン、これは木だよ…ッ…!」
勘太郎少年は安堵した。
「いいえ、そんな筈は……」
御斎美津子は再び映像を見たが、虎と見えたものは矢張り奇形の樹木だ。

「怖い怖いと思っていたから、木が虎に見えてしまったのね……。でも良かったわ……。本当に虎がいたのではなくて……」
御斎美津子も動悸に膨らむ胸を抑えて漸く安堵するのであった。


ハ、ハ、ハ、ハ……ッ…

その安堵を嘲るかのように、不穏の哄笑が竹林に響いた。
「なんだ…ッ…!」
その声の向きに勘太郎が振り返ると、そこには泥に塗れた足袋が草履を履いており、皺の脛が汚れた山袴を着ている。
小柄で円背、頬被りをした老婆が、オドロオドロと嗤っている。

「誰だ…ッ…!」
勘太郎少年は老婆を詰問した。

「この森に入ってはイカン…ッ…!」
老婆は勘太郎を間然と叱した。

「あなたは誰ですか…ッ…!」
勘太郎は老婆に向かって誰何した。
「我は須佐之男命なるゾ…ッ…!」
「え…ッ…!」
勘太郎は驚いた。
「須佐之男命……ッ…!?」

俄かに空が曇り、霹靂、雷鳴が轟いた。

「この森に入る者には祟りが下るゼヨーーーッ…!!」
須佐之男命を名乗った老婆は杖を振り回して勘太郎を追い回した。

「ウワー…ッ…!」
勘太郎は恐怖した。生まれ来し方、怪しげなる老婆に追い掛けられた事など無い。
勘太郎は混乱して盲滅法に逃げ惑い、竹林の中に入ってしまった。

「あっ…ッ…!」
御斎美津子の目の前から竹林に入った勘太郎が瞬時に消えてしまった。見逃したのではない。勘太郎は竹林に消失したのだ。

「勘太郎チャンッ…!」
慌てて追い掛けた御斎美津子もまた竹林の迷宮に迷い込んだのである。

「ハッ…ッ…!」
御斎美津子は愕然とした。
竹林に、一歩、踏み込んだだけであった。
だが、周囲は竹林に囲まれていた。今迄いた筈の林道も、謎の老婆も居ないのであった。

目の前には竹の細径が曲がりくねりながら続いていた。細径の向こうから勘太郎の怯えて喚く声が聞こえた。走り去る小さな運動靴が見えた気がした。

「勘太郎チャンッ…!」
御斎美津子は勘太郎を呼んだ。
「お姉チャン…ッ…!」
勘太郎も美津子を呼んだ。
「助けて…ッ…!」
美津子は勘太郎に叫んだ。
「今行くわッ…!」

小さな勘太郎が危険に晒されている。恐怖に苛まれて心細く震えている。美津子の情動は燃えた。腹底に灯った心火が胸を焦がした。美津子は暗い細道を走り出したのであった。

運動の酸素欠乏に喘ぐ御斎美津子の視界に到頭小さな勘太郎の姿が映った。直ぐに勘太郎を抱き留めなければ、御斎美津子は尚も喘鳴して走るのであった。御斎美津子の腕いなが勘太郎に伸びた時に勘太郎は御斎美津子を制して言った。

「お姉チャン…ッ…!来ちゃ駄目だ…ッ…!」
小さな勘太郎は御斎美津子の体躯を突き飛ばした。御斎美津子は尻餅をついて言った。

「どうしたと言うの勘太郎チャンッ…!」

勘太郎は人差し指を御斎美津子の唇に当てた。
「しいッ…!」
勘太郎の背後は竹林が絶えて小さな空き地になっているようであった。

その空き地から、賑やかな声がする事に、いま御斎美津子は気が付いた。

御斎美津子はそっと空き地を覗いて、驚愕するのであった。


「あっ…ッ…!」
空き地には七人の男達が円座になって宴席の最中であった。暗夜行路の竹林に集うとは人倫の常道から外れた者達に相違ない。勘太郎と御斎美津子は薄ら寒い不気味を感じて止まないのであった。

三味線を弾く男と、笛吹、太鼓、鐘。残りの者は茶碗を箸で叩いて拍子を取った。ザンバラ髪のスーツ姿の男が謡い出した。

ヤートセー コラ
死んでる音頭です

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

ア、コラ いずれこれより ご免こうむり
音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
お耳障りもあろうけれども
さっさと出しかける

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

ア、コラ 死んでるけれども 成仏しきれず
居場所がねえずらか(アーソレソレ)
天国地獄何方も行けずに
酒呑んで虎になる

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

ア、コラ  虎になったら何をするかと
聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)
暴れて眠るが虎の仕事と
お前はん知らねのげ

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

ア、コラ  飲めや歌えやこの世の気楽
虎になって人を食う

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

テテレテレと男達の爪弾く楽奏は明朗快活に竹林に響いた。

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

男達は唄いながら陽気に酒を呑むのであった。

ハイー キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

当初、男達の異様を訝しがっていた勘太郎であったが、宴席の陽気に男子の血が騒ぐ。彼も亦た血流の渦潮に抗えないのであった。
今にも宴席に加わらんと戦慄く勘太郎を御斎美津子は咄嗟に止めた。
「不可ないわ…ッ…!」

勘太郎は御斎美津子の腕いなを振り解こうとして暴れた。

ワア、ー、ー…ッ…!
勘太郎は白目を剥いてブクブクと泡を吹いた。

「勘太郎チャン…ッ…!」
御斎美津子は勘太郎に言った。
「危険よ…ッ…!こんな所にいる人達は、きっと人間では無いわ…ッ…!」

「えッ…!」
勘太郎は目を丸くした。
「人間では…無い…ッ…!?」
勘太郎の目には陽気なサラリーマンが宴席をしているようにしか見えない。

「そうよ…ッ…!きっとアレは竹林を彷徨う七自殺者よ…ッ…!」
勘太郎は衝撃を受けた。少年である勘太郎の思う自殺者の姿とは大きく異なる。

「竹林の…ッ…七自殺者…ッ…!」
「見つかったら呪われてしまうわ…ッ…!」
御斎美津子の言葉に勘太郎は神妙に首肯するのであった。
「分かった…ッ…!」
「さあ……早く逃げましょう……」
御斎美津子は勘太郎の手を引いて元来た道を戻ろうと促した。


「誰だ…ッ…!」
だが、二人の気配に気付いた男たちが勘太郎らを呼び止めたのだ。


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第五景

「誰だ…ッ…!」
竹林で宴席をしていた魑魅魍魎達に勘太郎たちは見つかってしまった。
逃げようとした勘太郎達を竹林が堰き止め、道を失くした。逃げる事も叶わず勘太郎と御斎美津子は竹林と男達に囲まれた。

狂乱の楽奏は鳴り止まなかった。
二人は案内されて男達の宴席に加えられたのであった。

「お客様をお迎えして、いよいよ宴もタケナワです。次はお客様も交えてお座敷遊びの時間です」 
司会を務めるネクタイを鉢巻きした七三分けの男が言った。周りの男達が囃し立てた。

「あの」
御斎美津子は尋ねた。
「あなたたちは誰なんですか…?」

そのように聞かれた男たちの表情から笑顔が消えた。笑顔を無くした彼らの顔色は蒼褪めて、落ち窪む眼窩は死人の其れである。
ネクタイ鉢巻七三眼鏡の男が言った。
「私たちは…」


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御斎美津子の問いかけに顔色の冴えないネクタイ鉢巻七三眼鏡の男が言った。
「私達は…死人です…ッ…!」
勘太郎と御斎美津子は驚愕の余り、戦慄いた。
「死人…ッ…!」


男達は一様に顔色が青褪めて、不健康の相貌であった。だが、栄養失調の貌せに目だけが、爛々と異様の光を放っている。勇敢な少年、勘太郎を恐怖せしめたものは男達の、穏やかならぬ眼光であった。

七三分けの眼鏡の男は怯える子供たちを見て、不ッと相好を崩した。
「と、云っても本当の死体ではありません。私たちは社会的に死んだのです。」

御斎美津子は真剣に語る男の顔に見覚えがあった。「あ…ッ…!」

男は言った。
「私の顔に見覚えがありますか……。そう私は現職市長である籠目三四郎の元、秘書。贈収賄の汚名を着せられ、自殺した事になっている金毘羅今春です…ッ…!」
「知っているわ…ッ…!」
御斎美津子は確かに、かつての報道でこの男の顔を見た。
そして見渡してみればどの顔も当時の報道に並んだ顔である。

「そう、私達は牟婁伏市公営住宅贈収賄事件で無実の罪を着せられ、自殺をした事にされたのです…ッ…!」
「ええ…ッ…!」
事件の事は勘太郎も御斎美津子から聞いていた。当時、公営住宅の建設会社と七名の市会議員が癒着して、市政を悪逆非道に操作した。その贈収賄は発覚した後に秘書の独断と発表され、翌日に秘書達が金神の竹林で首吊り自殺した事が報道されたのである。
「私達はやっていない…ッ…!奴らが私達に罪を被せたのだ…ッ…!」
ネクタイ鉢巻の男達は悲憤に吼えた。
「籠目三四郎は今年の春に市長になっているわ…ッ…!」
御斎美津子は言った。
「そうだ…ッ…!あの男は人間を踏み台にして市長の座を手に入れたのだ…ッ…!」
男達の異様な眼光の正体は怒りであった。悲憤であった。苦渋と憎悪であった。

「死んだ事になっている我々はこうして竹林に身を潜めて、日々遊びに興じて浮世を忘れようとしているのです」
勘太郎は思った。大人たちはなんと悲しい存在なのだろうか。竹林に呑む酒のなんと苦い事だろう。謡いのなんと悲しき音曲である事か。

「さあ…ッ…!お嬢さん、お坊ッちゃん…ッ…!私たちと一緒に遊びましょう…ッ…!」
それが彼らの慰めとなるならば、いまひと時を彼らとの遊興に費やす事も悪くない。勘太郎少年はそう思うのであった。

「後ろをご覧ください…ッ…!!」
七三眼鏡の男、金毘羅今春はマイクを片手に云った。
勘太郎と御斎美津子は振り返って仰天した。
彼らの背後にいつの間にか巨きな虎がいたのであった。


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竹林の男たちに囲まれた勘太郎と御斎美津子の背後に巨獣が、恐ろしい猛虎がいたのであった。

「虎…ッ…!」
勘太郎は腰を抜かした。
「ギャア、ア…ッ…!」
恐怖に悲鳴を上げた。

「待って、勘太郎チャン…ッ…!」
御斎美津子は言った。
「これは絵よ…ッ…!」
「絵…ッ…!」
勘太郎がよく見るとそれは屏風に描かれた竹林の猛虎図である。

「なんだ……絵だ…ッ…!」
勘太郎は安堵した。
「本物かと思った…ッ…!」
安堵した勘太郎は改めて、猛虎図に近付いて虎を眺めた。

ギョロ…ッ…!
虎の目が動いて勘太郎を睨んだ。

「ギャア、ア…ッ…!」
勘太郎は再び悲鳴を上げた。
「まあ、どうしたの…ッ…!」
御斎美津子が言った。

「この虎…ッ…生きているよ…ッ…!」
「ホホ、ホ…ッ…!」
御斎美津子は笑った。
「勘太郎チャン、本当に怖かったのね、そんな事を言うなんて…ッ…!」
「本当だよ…ッ…、目が動いたんだよ…ッ…!」

二人の言い合いを金毘羅今春が止めた。
「さあさあ、それでは遊びましょう。お二人はとらとらという遊びを知っていますか?」
「知ってるわ」
御斎美津子が言った。
勘太郎は知らなかった。

「そうね……」
御斎美津子は勘太郎に「とらとら」遊びの説明をした。


とらとらはお座敷遊びの一つである。勝負をする二者が屏風を挟んで立ち、手拍子をしながら「とらとら」の唄をうたう。

千里走るよな藪の中を
皆さん覗いてごろうじませ
金の鉢巻きタスキ
和藤内がえんやらやと
捕らえし獣は
とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら

振付しながら屏風を覗いて顔を合わせ、最後に双方は「虎、和藤内、老母」の三者の真似をしながら姿を現す。虎は和藤内に殺される、老母は虎に食われる、和藤内は老母に頭が上がらない。

和藤内は国姓爺合戦の主人公、鄭成功である。
近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」は奸計によって亡国した明国の忠臣を父に持ち、日本人を母とする鄭成功が父母を連れて冒険し、明国を再興する物語である。その中に、鄭成功とその一行が虎に襲われる場面がある。
鄭成功は母から受け取った伊勢神宮の天照皇御神札によって虎を調伏する。

「とらとら」の遊びは鄭成功、母、虎を素材にできたジャンケン遊びである。

それではやってみましょう、と金毘羅今春に勘太郎が誘われたが、勘太郎は未だ子供であるので御斎美津子が代わった。
屏風の裏の相手は狐狸庵源助の元秘書、逆柱雲水である。

とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら

と手拍子打って謡を唄い屏風から出る御斎美津子は杖をつく老母である。
そして逆柱雲水は四つ這いの虎であった。

「虎の勝ち…ッ…!」
やんやと一同が盛り上がった。

「それでは負けたお嬢さんは罰ゲームです」
金毘羅今春が言った。

「お嬢さんにはお洋服を脱いで貰いましょう…ッ…!」
「え…ッ…!洋服を…ッ…!」
勘太郎は驚いた。
それでは御斎美津子が裸になってしまうではないか。
「そんなことはさせない…ッ…!」
勘太郎は立ち上がった。
それを御斎美津子が制した。
「大丈夫よ…ッ…!勘太郎チャン…ッ…!」
御斎美津子は言った。
「脱ぎます」
御斎美津子は胸元に手を入れた。

男たちは上気した顔で少女の挙動を見守った。
御斎美津子が胸元から取り出したのは……。
「パッドよ…ッ…!」

御斎美津子が乳当てに忍ばせたパッドであった。
「こんな事もあろうかと思って準備してきたのよ…ッ…!」
御斎美津子は言った。
「パッド…ッ…!」
金毘羅今春は言った。
「欺瞞だ…ッ…!」

「次の相手は俺だ!」
阿久津昭雄市会議員の元秘書田中一郎が屏風の裏に回った。

とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら
とらとーら とーらとら

と手拍子打って謡を唄い御斎美津子は再び、杖をつく老母である。
そして田中一郎は四つ這いの虎であった。

「また負けてしまった…ッ…!」
勘太郎少年は絶望した。
今度こそ御斎美津子が裸になってしまう。
だが御斎美津子が脱いだものは……

「パッドよ…ッ…!」
御斎美津子は本日、胸当ての中に七枚のパッドを仕込んでいたのであった。
だが。次々始まる勝負に御斎美津子は一度も勝てず、とうとう御斎美津子が胸元に潜ませたパッドは尽きた。
今や豊胸に見えた彼女のバストラインは扁平に萎んだ。

「お姉チャンの胸が…ッ…無くなってしまった…ッ…!」
勘太郎少年は叫んだ。
「ぺったんこだ…ッ…!」

御斎美津子が最後のパッドを放ると男たちが群がった。少女の残香に飛びつく男たちはまさに虎の群れに相違なかった。もはや、彼らは人倫を亡くした野獣である。少女のパッドを奪い合い引きちぎった虎たちは到頭、少女に襲い掛かった。

「危ない、お姉チャン!」
勘太郎少年は落ちていた竹で男たちを防いだ。その拍子に勘太郎の竹槍が屏風を貫いた。

「和藤内……ッ…!」
男たちが叫んだ!
「なんて事をしてくれた…ッ…!」

先程まで少女の色香に当てられて上気していた男たちは途端に蒼褪めて、オロオロと取り乱した。
勘太郎と御斎美津子は訳が分からない。

その時、勘太郎は猛獣の唸る声を聴いた。
「え…ッ…!」
勘太郎はその唸り声のする向きを見た。
屏風の虎が唸っていた。

「虎…ッ…!」
描かれた猛虎図の虎は屏風から飛び出して男たちを追い回した。男たちは虎に追いかけられながら霧散して消えた。

「あ…ッ…!」
男たちは竹林を彷徨う亡霊であったのだ。
男たちがいなくなると虎は藪の中を駆けて消えた。

勘太郎と御斎美津子は突然の出来事に呆気に取られて虎を見送った。そして気が付けば、男たちが放り出した雅楽器も、酒器も消えて二人は林道に帰っていたのである。


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第二幕「うしとらの蜂蜜パンケーキ」


牟婁伏市の北東に位置する首無山の裾野に広がる竹林は「金神の竹林」とあだ名され、市民から恐れられる場所である。虎の化け物が出る、迷うと出てこれなくなる、七殺の祟りに遭う、うかばれぬ自殺者の霊が彷徨っているなどと、都市伝説に事欠かない。その竹林の中にエステサロンがオープンした、と勘太郎が聞かされたのは春も盛りが過ぎて、世の中は初夏の風が吹きだしたころである。

「あんな場所に…ッ…!?」
勘太郎は驚いた。

「そうよ…ッ…!」
勘太郎の住まう屋敷の隣家に住む年上の幼馴染、御斎美津子は言った。

先日、勘太郎は自らの動画チャンネル「闇んでるニュース」を配信するため金神の竹林を取材した。
だが、度重なるアクシデントにより竹林を撮影した動画ファイルは編集に耐え得るものではなく、結果として勘太郎少年は動画配信の締め切りを落とした。
代わりに定時の動画配信ができなかったことを謝罪する勘太郎自身の姿が配信され、その中で勘太郎はお詫びとして学校で習った「どもだち」の歌を歌った。
そのような配信を御斎美津子は微笑ましく眺めたが、勘太郎少年は自らの職責が全うされなかった事を自責し悲嘆にくれているのである。


「それから新しくオープンした蜂蜜パンケーキのお店でパンケーキを食べると、幸福になれるそうよ…!」

御斎美津子が金神の竹林のエステサロンや蜂蜜パンケーキの新装開店のことを勘太郎に話したのは勘太郎少年の運営する「闇んでるニュース」の題材を提供すると共に落ち込む勘太郎を元気づけるためでもある。
勘太郎は報道の端くれである。街の最新ニュースに対して常に敏感であらねばならない。最新情報は勘太郎にとって活力であるのだ。

「僕…ッ…取材に行ってくる…ッ…!」
勘太郎少年は言った。

「待って…ッ…!」御斎美津子は勘太郎を止めた。「これを……」
御斎美津子の差し出した御札を見て勘太郎は驚いた。
「これは…ッ…!」
エステ店の体験利用券であった。
「五百円ッ…!」
五百円で誰でもエステが体験できるのだ。


「それからこれよ…ッ…!」
幸福のパンケーキが食べられる店、うしとら蜂蜜パンケーキの半額券であった。
「これは…ッ…!」


「私も行くわ…ッ…!」
御斎美津子は言った。


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第一景

食べた者が幸福になる蜂蜜パンケーキの店「うしとら」は牟婁伏小学校の近くにあった。
人気がある、というだけあって勘太郎達が着くと店の前には行列が出来ている。


「凄いね…ッ…!」
勘太郎は驚いた。牟婁伏市内でこのような行列は見た事が無かった。


「そうね…ッ…!」
御斎美津子も言った。

「あ…ッ…見て…ッ…!」
勘太郎は指を差した。行列に並ぶ男に人だかりが出来ている。
「スターの山根則夫だ…ッ…!」
山根則夫は我が国の老若男女が熱狂する国民スターである。女子が群がってサインをねだっていた。


「あんな大スターまで食べに来るなんて…」
山根則夫は愛想よくファンの差し出す色紙にサインをした。
「あたし…一生の宝物にします…ッ…!」
サインを貰った女学生が言った。
「応援してネ」
山根則夫は言った。
平和な光景であった。


店のドアが開いて、女給が顔を出した。次の客、山根則夫が呼ばれて入店した。
勘太郎と御斎美津子は列の最後尾に並んだ。
彼らの前には部活動帰りの女学生が二人並んで話をしていた。
「あたし、今日で三回目よ…ッ…!」
「あら、あたしだって…ッ…!」
彼女達は既に幾度もこの店に来ているようだった。「本当の名店は、幾度も人に足を運ばせるんだ…ッ…!」
勘太郎は言った。
「これは期待出来そうだぞ...ッ…!」
勘太郎は女学生の話に耳を傾けていた。

「先日はお金の入った財布を拾ったわ……」
「私は好きな人と目が合ったわ」
「幸せになるパンケーキ様のお陰よ…ッ…!」
「でも……」
「ええ、何……?」
「気になる噂を聞いたわ……」


気になる噂…?
女学生の声は密かな小声になった。
勘太郎は秘密の話を聞き漏らすまいと注意深く聞き耳を立てた。

「時々、ここのパンケーキを食べて凄く悲しくなったり、我慢できない怒りに支配される人がいるんですって……、中には悲しさに負けて自殺をした人もいるという話よ……」

パンケーキを食べて、自殺、だって…ッ…!
勘太郎は仰天した。
パンケーキを食べて自殺など、そんな人間がいるんだろうか。

その話を御斎美津子も聞いていた。
「おかしな話ね……」
御斎美津子は言った。




その時。


店内から男が飛び出た。
ワア、ワアと喚いている。
「あ…ッ…山根則夫よ…ッ…!」
それは先程までファンに笑顔を振りまいていた山根則夫であった。
先程の笑顔は消えて、悲憤に取り乱す姿は狂人であった。
「死にたい…ッ…!」


ゲエー、ー、ー…ッ…!
山根則夫は喀血する勢いで嗚咽した。
「哀しくて、無性に死にたい…ッ…!」

そしてスタア山根則夫はワアワアと喚きながら車道に飛び出し、大型トラックに撥ねられ宙を飛んだ。

ゆっくりと、山根則夫の体躯が勘太郎の傍に落ちる。

勘太郎は逆さまに落ちゆく山根則夫を見た。
山根則夫の目が、勘太郎を捉えていた。
絶望、悲憤、そして怨憎の目であった。

瞳に、勘太郎の顔が写る。


ゴキン…ッ
アスファルトに山根則夫は頭から落下した。
首が良くない方向に折れた。
ゲエ、エ…ッ…!

首がねじ曲がった山根則夫は虚ろな目に空を写したまま動かない。国民スタア山根則夫は死んだのだ。

「ギャァーーー…ッ…!」
勘太郎は恐怖に顔を歪めて叫んだ。
全身が硬直し勘太郎は虚ろな一本の消化器官であった。胃腑から、とめどない恐れが噴出した。

ゴブゴブと喉が鳴って、山根則夫の口端から血泡が垂れた。

「ギャアーーーー…ッ…!」
女学生達が叫んだ。

「ギャアーーーー…ッ…!」
列に並ぶ人々が叫んだ。

路上にて。
国民スタア山根則夫は死んでいる。


(了)

怪奇小説「大牟婁勘太郎の闇んでるニュース:竹林の七自殺者」御首了一


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