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ハードボイルド小説「宮脇朔太郎の隣人は泡姫(みるきー)」(全年齢版)

(あらすじ)
宮脇朔太郎は地元の風俗情報誌にレビューを寄稿するライターである。が、彼の難解な性分はあらゆる風俗嬢に生理的嫌悪を抱かせる。そんな彼に唯一優しくしてくれる泡姫みるきーは「コスプレソープ♡‬ハニーカム」の八野蜜月だけであった。八野蜜月が見せてくれた乳房の色香の虜になった宮脇朔太郎。その慕情は、朔太郎の住むマンションの隣室に八野蜜月が引越しをしてきたことにより、増々募るのであった。義妹の宮脇翔子、女編集者の宇井みゆ、風俗嬢の御嶽夏帆、これは彼を取り巻く女たちと宮脇朔太郎の一人相撲恋愛叙事詩である。

23,000文字
一番、下段に全内容を1000文字に要約した梗概を付けています。お時間の無い方は梗概だけご覧下さい。




宮脇朔太郎は無職である。いや、この場合無職を無職と断ずるには、無職の定義について改めて確認せねばならない。宮脇朔太郎は職業は持っている。ただ彼に仕事と、収入が無いだけだ。



彼がギャンブラーとか、競馬競輪競艇そのような賭博に専念する博打師であった方がまだ収入を得たかもしれないのであった。現に彼は馬の顔色騎手の所作を見れば、どの馬が速いか瞬時に分かる。競輪競艇にしたって同じだ。彼の勘を頼って、競馬場に同行願う人まであるのだ。だが、それは彼の職業では無い。

宮脇朔太郎の仕事は作家である。文章を売って暮らしている。売るための文章はいくらもあるが、売れないので収入が無い。彼の本分は小説である。彼なりの分析で人間心理の機微を描いた、人間の正体を探ろうとする類の小説が、彼の乱雑に散らかる部屋の片隅で塵芥に塗れて積まれている。それを世に出す為の出版社が無い。編集者が無い。
***

眼帯をした明らかにカタギではない風体の男が紙巻の煙草をくゆらせながら、彼の、即ち宮脇朔太郎の持ち込んだ(彼に言わせれば空前絶後の)傑作をゴミ箱に捨てた。

「何をするか!」宮脇朔太郎は憤った。

「仕事をしろ!」眼帯の男、大鳳出版の発刊する「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」の編集長、大黒善蔵は言った。

「仕事だ!」宮脇朔太郎は言った。

「仕事じゃねえよ!」大黒善蔵は宮脇朔太郎に机の上のキャンディを掴んで投げつけた。

大黒善蔵は言った。「仕事とは何ぞや!」
宮脇朔太郎は「文章だ!」
大黒善蔵は言った。「風俗店のレビュアーだと言ったろう!馬鹿野郎!お前の糞下らない三文小説なんて読みたか無いんだよ!」

更に大黒善蔵はキャンディを投げつけた。「頭に蛆でも湧いてるんじゃないか!死ね!雑魚!」

そうして宮脇朔太郎は出版社を追い出された。宮脇朔太郎は他人の顔をした都会のひとかどの街路に佇み無職の寂寥に打ちひしがれた。

目下の所、彼の仕事は風俗店に足を運び夜嬢達のレビューをする事にある。そのような広告文章を書いて、彼は一文字いくらという僅かな金銭を出版社から得ている。そのレビューが雑誌の空隙が許す規定の文字数を大幅に越えて十万文字の気宇壮大の叙事詩と化すので、編集長大黒善蔵から宮脇朔太郎はゴミ扱いされるばかりでなく、抹殺命令まで出ている。


「なんで私が!」と、新人編集者の宇井みゆは憤った。新人期間の数年が過ぎて各部署で転々と修行を積んで本配属は「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」であった。地域の風俗店を取り扱う男性情報誌で二十代女子が編集を務めるホンでは無い。そもそも宇井みゆはファッション雑誌に憧れて、出版社の数々の採用試験を受けて、その悉くに不採用となって、地元の塵芥にまみれたような低廉下劣の俗悪雑誌ばかりが刊行される大鳳出版に漂着した。街の観光名所の紹介や、新たに開店した新店の紹介、占いコーナーや街行く熟女のファッション分析をする僅かなページを除いては、その9割が美容とグルメの広告に占められる軽薄のタウン誌「ソレナ!」の編集が宇井みゆの配属先の第一志望であった。が、件の雑誌は早々に廃刊となって宇井みゆの将来的展望は迷子となり、ゾンビとなった。宇井みゆは自らの進路に指針を見つけられぬまま、出版社の中を彷徨い、とうとう「びんびん☆」の配属となったのであるが、年若い彼女にとって地域密着の男性風俗情報誌「びんびん☆」は最も「有り得ない」配属先である事は言うまでも無い。

「鳩レースの雑誌とか他にも雑誌はいくらもあるじゃないですか!」風俗雑誌で男共の下劣な空想の入り交じった、夜嬢の痴態ばかりの雑誌より、月刊鳩レースの方が余程真っ当な配属先だ。

「お前が鳩レースの何を知ってるんだよ!」と大鳳出版が抱える風俗雑誌「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」編集長大黒善蔵は言った。「鳩レースを舐めるなよ!ブスが!」

このデスクにはデリカシーもコンプライアンスもリテラシーも、そのいづれの欠片も無い!

「燃えろ!全て燃えろ!バーカ!」宇井みゆは言った。


宮脇朔太郎は人生の錯誤に陥り、人波を逆行し、地面ばかりを見つめて歩き、失意のうちに「コスプレソープ♡ハニーカム」に着いた。

「非情の編集長が小生の傑作を棄てた」宮脇朔太郎は言った。

「ウケる」ソープ嬢八野蜜月は笑った。本日の衣装はセーラー服である。彼女は「コスプレソープ♡ハニーカム」の泡姫(みるきー)である。趣味は石鹸作りだ。自前の石鹸を店で使っている。天然成分配合で泡立ちが良く保湿力に優れていて好評だ。店内には数人の泡姫みるきーが待機している。

宮脇朔太郎は八野蜜月と会話する事が2分だけ許された。その2分で彼は作文の構成を感得せねばならない。そうしてあたかも宮脇朔太郎が八野蜜月の手練手管で快楽の夢幻を彷徨い、桃源郷に至ったかの如く文章を創作するのだ。その夢幻のイマジナリーの中で彼はあらゆる嬢達と情交通じた性豪なのである。

「早く稼げるようになって、指名に来てね」八野蜜月嬢が自らの乳房を晒け出した。巨きなお椀の形をした張りのある乳房。色味の良い乳輪。控えめの乳頭。男を惑わす魅惑の乳房であった。

宮脇朔太郎の実態は偏屈な性格が災いしてあらゆる夜嬢から嫌われて、度々のクレームを頂戴している。「キモイ」それが宮脇朔太郎が夜街から与えられたレッテルである。宮脇朔太郎が偽レビューを書くために与えられる調査時間が極端に短いのも、嬢がアレルギーを起こさぬ為である。彼は夜嬢に触れることすら許されぬのだ。

宮脇朔太郎は自宅のマンションに帰った。無職に不釣り合いの瀟洒なマンションは親からの遺産である。蜂の巣の如く整然と整頓されたマンションの各室に、それぞれの住人のそれぞれの人生がある。階層を増すほどに売買価額が増すように、それぞれの人生のそれぞれのヒエラルキーがある。亡父亡母からマンションと少しの金銭が遺されて、その遺産を刻々と食い潰しながら、月額幾らのお小遣い制の、か細い人生を宮脇朔太郎は生きている。嗚呼、朔太郎に自由は無い。金銭は義妹に管理されている。朔太郎は奴隷だ。ハニカムのマンションに囚われた奴隷蜂だ。憂鬱の気分になって朔太郎は蜂の巣の我が家に帰った。

宮脇朔太郎が自宅に帰ると義妹である宮脇翔子が夕飯を作っていた。

「もうすぐご飯になるよ」義妹は言った。前に縛ったエプロンが、義妹の大きな胸を強調した。数年で急速に大きくなった乳袋だ。昔はそれでも小さな義妹をお風呂に入れてあげたりしたものだが、と懐かしく思う。

「お兄ちゃん、なんか視線がエロくない?」翔子が胸を隠した。乳袋が腕に抱えられてはち切れんばかりだ。

「やっぱり視線がエロくない?妹までそういう目で見るのやめてよね、変態」

憎まれ口をききながらも愛嬌がある。宮脇朔太郎は凡その女性から嫌われるが、義妹ではある翔子は朔太郎の全体から発する何某かの嫌悪物質に免疫を獲得したのか、朔太郎に優しくしてくれる女性の希少な一人だ。朔太郎に優しい、とまで言わずとも少なくとも塩を撒いて追い払う事をしないもう一人が泡姫みるきーの八野蜜月嬢である。小柄で華奢でふんわりとした印象は小動物を思わせる。そんな体躯に牛のようなおっぱいが付いている。「コスプレソープ♡‬ハニーカム」の中でも人気の嬢だ。朔太郎の貧乏を知ると途端に表情から愛想を無くす他の嬢とは違う。

朔太郎が女を買う金がないと知っていても八野蜜月嬢はスマイルをゼロ円で提供して下さる。平身低頭して拝みたいくらいの観音様である。

と、朔太郎が日中に見た八野蜜月嬢の美乳を思い出しながら煮付けた大根を食べていると、義妹が言った。

「隣に誰か引っ越してきたよ」

数ヶ月前に隣の部屋が退去して暫く売りに出されていたようだが、買い手が見つかったらしい。面倒な人間で無いと良いのだが。と朔太郎は思う。朔太郎は平穏に生きたいのだ。

その時、朔太郎のモバイルフォンが鳴動した。
電話主は大鳳出版「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」の編集長、大黒善蔵であった。
「鳩レースに参加しようかと思うんだけど」
大黒善蔵は長尺に鳩レースの魅力について語りだした。彼は話を聞くともなし、肩を持ち上げて携帯電話を耳に挟んで、味噌汁を飲んだ。

チャイムが鳴った。インターホンで応答すると隣の住人が転入の挨拶に来たとの事だった。若い、女性。朔太郎はドアを開けた。

ドアを開けた朔太郎は動揺のあまりに、小首に挟んだ携帯電話を落とした。朔太郎の足下に転がった携帯電話から大黒善蔵の熱弁が漏れている。だが、朔太郎の耳に、もう大黒善蔵の言葉は入らない。

そんな朔太郎に気付いて「あらっ!」と声をあげた隣宅に転入した女性は美乳の主、聖母観音の八野蜜月嬢であった。


ハードボイルド小説
「宮脇朔太郎の隣人は泡姫みるきー
御首了一



ハニカムの隣室にハニーがいる。それだけで朔太郎の生活はハニー、ハネムーンの如き彩りを得た。新婚酒の蜜酒(ミード)のような高揚を得た。朔太郎は酔った。壁一枚を隔てた蜜蝋の、ハニカムの新婚生活に酔った。宮脇朔太郎にとっては壁一枚など無いに等しい。宮脇朔太郎と八野嬢は同居していると言っても過言でない。詰まる所は宮脇朔太郎にとって嬢は伴侶なのであった。

それから朔太郎の生活には常に八野蜜月嬢と同居であった。廊下で、朝のゴミ出しで、買い物帰りに。朔太郎は新婚の甘きを味わうのであった。八野蜜月嬢の色気ある私服に朔太郎は目眩した。衣服に隠された美乳を感得して朔太郎は目眩した。朔太郎の頭は常に壁向こうの隣宅にいる八野蜜月嬢の私生活への妄想が離れないのであった。

八野嬢は蜂蜜の匂いがする!
プロポリス!朔太郎は心裡に叫ぶのであった。
バンザイ!プロポリス!

例えば隣宅で、八野嬢はいま何をしているとか。風呂に入っているとか、泡立っているとか、シャワーの水玉が肌の上で弾けているとか、シャボンのバスに浸かっているとか、風呂の中の上気した肌とか、湯船の中の恍惚の嬢の顔とか、ツンと勃った乳頭であるとか、湯面に浮かんだ豊満の乳房であるとか。
手製の蜜蝋石鹸を泡立てて、玉の肌に塗りたくり、官能の泡に踊る新妻の姿が脳裏から離れないのであった。

八野蜜月嬢を見かけた後にはあの乳房が思い出されて仕方ない。宮脇朔太郎はとうとう何も手につかなくなってしまった。

果たしてどうしたものだろう。宮脇朔太郎は斯様な相談事ができる友人がおらぬ……。

と、或る日の彼はそんな相談を彼は「おっぱいバブ☆ちくびーむ」の女性キャスト達にしている。

「小生、如何したものだろう?」

偏屈の朴念仁、嫌われ者の宮脇朔太郎が色欲に己を見失っているという話は、ちくびーむのキャストを大いに湧かせた。ボーイたちも集まってきた。

最後にはオーナーまで来た。

彼らは面白がって、デートに誘えだの、恋文を書けなど申したが、最終的に満場一致で「ハニーカム♡‬に行って件の嬢を指名しろ」とそんな話にまとまって、宮脇朔太郎の門出に軍資金がカンパされた。宮脇朔太郎はこうなっては仕方ない。小生も男でゴザル、覚悟を決めて云々と揚々、金銭を握って「コスプレソープ♡‬ハニーカム」を訪れたのである。

まず「ハニーカム♡‬」のドアを開けると黒服が彼を出迎えた。

「今日は取材の日?」

「いや……」と言って宮脇朔太郎はもう次の言葉が出てこない。言葉を探して金魚のようにはくはく唇だけが動いている。黒服もそれを見て彼が尋常ならざる決意で此の場に立っている事を知り、思わず息を呑むのであった。

「こここここ」と宮脇朔太郎は言って金銭をカウンターに置いて、「ちちちちち」と言って震えた。それで黒服は宮脇朔太郎の決意が何たるかを理解した。だが、宮脇朔太郎の指名する八野蜜月嬢は丁度先程に接客が入った所である。

「何時(いつ)来れば良い?」朔太郎は訊いた。
「片付け含めて3時間後だ」黒服は言った。

宮脇朔太郎はソープランドの店舗が並んだ街中の、老舗喫茶店に入った。「3時間後だ」心裡に呟いた。それから「3時間後だ!」と今度は心裡に叫んだ。

3時間の刻限は、八野蜜月嬢が接客する2時間20分と片付け準備の時間なのだろう。2時間20分の間、八野蜜月嬢が接客をしている。洗体と奉仕!宮脇朔太郎は現在進行形の洗体と奉仕の事を考えた。

現在進行形の洗体と奉仕について考える事は不毛だ。宮脇朔太郎は頭を振るった。それよりも未来だ。3時間後の未来に於ける洗体と奉仕について考えるのだ。宮脇朔太郎の理知が力強く訴えた。だが、宮脇朔太郎はどうしても今まさに「ハニーカム♡‬」で繰り広げられる八野蜜月嬢の淫猥の宴についての想像が止まない。彼は脂汗をかきながら、かつて見た八野蜜月嬢の淫乳を思い出していた。その柔の乳がいま縦横無尽に形を変える。婀娜やかな悪戯顔の嬢が苦悶の形に歪み、溢れ出す嬌声を思って止まない。

「3時間後だ!」宮脇朔太郎の理知が叫ぶ。そうだ、3時間もすればその乳が自らのものになるでは無いか。我慢だ。無心で我慢だ。忍耐だ、克己だ。嘗胆せよ、嘗胆を!宮脇朔太郎は奮った。が、宮脇朔太郎はポケットから軍資の金銭を出して、手掌のそれを見つめた。

「80分!」

宮脇朔太郎の眉間に深く皺が寄った。その深さたるや万尋の峡谷である。

現在進行形の洗体と奉仕が140分。そして未来に於ける自らの洗体と奉仕が80分。既にして60分も負けている。そうだ、俺は駄男だ。駄馬だ。穴の開いた洗面器程の価値も無い。茅屋に蟄居してひねもす太陽でも拝んでいれば良いのだ。

喫茶点で逡巡の止まらぬ宮脇朔太郎の後頭部に、突然固いもので叩かれたような衝撃が、稲妻が後頭部から足指の末梢に走り抜けたような衝撃が、彼を襲って宮脇朔太郎はかっと目を見開いた。

「おい、宮脇朔太郎!」
と突然怒鳴られて振り返れば、そこにいたのは「びんびん☆」の女編集者、宇井みゆであった。
「どういう了見だ、貴様!」宇井みゆは言った。

「何をするか!」
「仕事もしないでどういう了見で、こんな場所で油を売っていやがる!」

「仕事とは何だ!」
「お前の低俗な三文記事だ、馬鹿野郎!」
宮脇朔太郎は気付かなかったが、大鳳出版の「びんびん☆」のデスクから山ほどの電話が、宮脇朔太郎の携帯電話にかかっていた。

「昨日が締切だ、このチンコ!」宇井みゆは言った。


隣に住む八野蜜月嬢の事ばかり考えて宮脇朔太郎は仕事の事すら忘れていたが、記事を落としては唯一の収入源を失い、本当の無職だ。彼のライターとしての尊厳までもが失われる。彼は喫茶店で一心不乱に取材内容をまとめて風俗レビュー記事を書き上げた。

隣で原稿を待ち続けた宇井みゆに、三本のレビュー記事を渡した。

「ちんこ!」と再度、彼は罵倒された。

結局彼はその日、再び「コスプレソープ♡ハニーカム」の扉を開く事は出来なかった。その日の「ハニーカム♡‬」はアイドルのコスプレであった。本当であったなら、彼はアイドルの衣装を着た八野蜜月嬢と逢瀬する筈であったが、悪逆非道の女編集者にその機会を絶たれたのである。彼は口惜しさに歯噛みした。だが、彼には何処かでほっと安堵する気持ちもあった。

ぼんやりと夕べを過ごして、彼は風呂に入ろうと脱衣所に入った所で義妹に鉢合わせた。

そして、彼は無言で脱衣所の扉を閉めた。脱衣所には翔子が一糸まとわぬ裸でいたのだ。

目を閉じて彼は先の光景を反芻した。乳房の中心点をなす淡い桃色が、女の色香を放って隆起していた。石鹸の芳香に混じって義妹の雌臭が小狭い脱衣所に充満していた。どうして肉付きの良くなったこと。鶏ガラのような娘々が、流線美の山陵を得て、甘酸いレモンのような香りを放つ。時の通過点の一刹那が感得する美というものに宮脇朔太郎はしみじみと感じ入るのであった。

「この変態」
静かに瞑想する朔太郎に義妹が言った。

「忘れてよ!思い出さないでよ!」
そう言う義妹の寝間着の上に、先程の山岳地帯の残像が重なる。

「だから、思い出さないで!」


宮脇朔太郎はその晩、まんじりと眠れずにいる。神経が過敏になって隣家の少しの物音も聞き逃すまいと、全身を硬直させながら、布団の上で身動きひとつせずにいる。さながらモルグの冷凍庫に安置された死体のようだ。漁港の冷凍庫に置かれたマグロのようだ。道端の叢に転がる犬糞のようだ。

いま彼は全身が耳である。いや、全身が性器である。彼はひとつの男根なのだ。

やがて時刻は深夜となって、夜更けて、未明となった。彼は一晩中男根であった。だが、隣家の気配をその男根は僅かなりとも感じる事は出来ないのであった。

その時、布団の上に硬直している男根はマンションの外廊下を歩く靴音を聞いた。

靴音は近付いて、止まって、ドアの鍵を開ける音がした。嬢に違いなかった。宮脇朔太郎は超常的第六感が覚醒していて、もう嬢のあらゆる気配を察知できる。嬢の瞼の瞬きの音すら、彼は察知できる。

彼はもう疑いようもなく男根である。いま、八野蜜月嬢は衣服を脱いだ。下着姿だ。ピンクだ。桃の花を思わせるような。絹雲たなびくが如き八野蜜月嬢の白い肌に桃花が咲いている。宮脇朔太郎は彼女の起伏を凝視した。仙界だ。桃源郷だ。ありありと覚知だ。神通の千里眼だ。小生はとうとう神仙に至った!宮脇朔太郎は仙界に漂う霞となって、八野蜜月嬢の柔らかな肉体を網羅する。

彼女が桃花のブラジャーを外すといつか見た乳房が顕になった。彼女の乳頭もまたひとつの桃花なのであった。桃花のショーツを脱ぐとそこは絶佳の秘湯だ。桃源郷に湧く秘湯であった。霞となった宮脇朔太郎は嬢の肉体を網羅する。成熟した嬢の牝臭にくらくらと目眩がする。宮脇朔太郎の霞が嬢の肉体の隅々を網羅する。匂坂里加の肉体が火照り上気した。甘い吐息が漏れてきた。彼女の肉体を執拗に網羅する。両足が開かれて露わになる秘湯。絹雲と霞と秘湯から立ち上る湯けむりとによって、濛濛と室内は白く煙って視界がない。

prrrrr……。

突然鳴った電話が、宮脇朔太郎の浮遊する生霊を彼の肉体に戻した。もう昼過ぎだ。

「クレームだ、馬鹿野郎!」電話口で「びんびん☆ホットスポットマガジン」の女編集者宇井みゆが怒鳴った。



クレームを申し立てたのは「コスプレソープ♡ハニーカム」で働く泡姫のひとり、御嶽夏帆であった。

「どういうつもりよ!」
「びんびん☆」の編集者宇井みゆに連れられて、宮脇朔太郎が店に着くと、苦情主である御嶽夏帆嬢は忿々立腹していた。今日の衣装はピンク色のバニーガールだ。御嶽夏帆嬢の金髪にウサギの耳が立っている。ピンク色のベビードールを着ている。トランスペアレントのレース生地が透けて彼女のブラやショーツが露わである。欲情を掻き立てる催淫の姿だ。

立腹の御嶽夏帆嬢はスリムで金髪の綺麗な女御だが残念ながら肉付きが悪く乳が小さい。そのボリュームの至らない胸が、ピンクのカップに包まれて、怒りに震えている。美人であるが、胸の小さい事が玉に瑕の、「ハニーカム♡」随一の熟女である。

彼女の体躯を野菜に例えればズッキーニ。魚に例えればボラ。一体彼女は何に怒っているのだろうか。

「それだよ、馬鹿野郎!」と御嶽夏帆嬢は立ち上がって言った。

「ズッキーニとかボラとか馬鹿にしてんのか!ちんこ野郎!」

どうやら肉体の起伏が乏しいと記事内で指摘した事が彼女のコンプレックスを刺戟したらしい。宮脇朔太郎は反省した。せめて胡瓜や秋刀魚にするべきだった。

「そもそも人を野菜や魚に例えるんじゃねえ!」
と、ピンク色の御嶽夏帆嬢は怒鳴った。仁王立ちしたバニーガールはさながら二本角の鬼である。
「踏み潰すぞ、フニャチン!」

宮脇朔太郎は御嶽夏帆の紹介記事を即刻書き直し、次号に再掲載することになった。

「原稿料は?」宮脇朔太郎は宇井みゆに言った。
「出る訳ないでしょ!クズなの!?」宇井みゆは言った。宮脇朔太郎は思った。この女は小生を無料奉仕させる気だ。小生を何だと思っているのか。宮脇朔太郎は資本主義社会に渦巻く暗澹を嘆いた。

「それで」と御嶽夏帆が言った。どういう言葉で記事を書くつもりだ。そのボンクラにちゃんとした記事が書けるか不安で仕方ないので、いま方向性だけでも述べてみろ。

「そういう事なら」と宮脇朔太郎は詩藻の中から御嶽夏帆を表す言葉を探すのであった。セーラー服熟女の特殊性癖楽園、熟女アイドルご乱心、熟女ロリィタ倒錯の宴……。

「まだ熟女で売り出す歳じゃねえ!死ね!」
再び嬢に怒られてしまった。

……。

暫くの紆余曲折を経て、ボンクラ宮脇朔太郎は両手足を地に着けて御嶽夏帆嬢の椅子にされている。バニー&ランジェリー姿の夏帆嬢の尻肉が、宮脇朔太郎の背骨を軋ませる。夏帆嬢の尻肉の体温が、宮脇朔太郎の背中を温める。ベビードールの腰丈のフリルが宮脇朔太郎の背中をフェザータッチに撫でてくすぐる。ふんわりと夏帆嬢の香水の匂いの混じる体臭が人間椅子の鼻腔に薫った。

「ワンと鳴け!」夏帆嬢は言った。
「ワン!」宮脇朔太郎は鳴いた。


「あなたは頭がおかしいのですか?」帰りに色街の中の老舗喫茶店「ボンボン」で反省会が開かれた。なんの事はない。反省会と称して鬼畜の編集者、宇井みゆによって宮脇朔太郎の金銭が搾取をされているのだ。

「迷惑料よ」宇井みゆは言いながらチョコレートパフェのひと掬いを口に入れた。甘味は究極の快楽である。老舗店が隠し持つ風味絶佳の甘味によって極悪の編集者宇井みゆの怒気も幾分和らいだように見受けられる。

その緊張のほぐれた宇井みゆとは対照的に宮脇朔太郎の方は精神が奈落に沈んでいるように見受けられるのだった。

「食べる?」宇井みゆは宮脇朔太郎に尋ねた?
「……」朔太郎は無言であったが、その無言の間隙を待たずに宇井みゆは自らの提案を提げた。

「やっぱり、あげない!」
朔太郎もパフェーが欲しい訳ではないが、呉れると言われたものが、やっぱり呉れぬと言われると途端に惜しくなって、此処で貰わねば男子の恥、一生を棒に振ったような気分になるのであった。

「小生にもひと口食べる権利はある筈だ!この女御!」宮脇朔太郎は言った。チョコレートパフェーは彼の金銭の対価物である。真っ当な主張である。だが……。

「ないわ」宇井みゆは言った。「あなたにこの匙でひと口あげたら間接キスになっちゃうじゃない。それともしたいの?間接キス」

「ブスが!」宮脇朔太郎は言った。
「ブスじゃねえ!」宇井みゆは言った。

実は。宮脇朔太郎が精神の錯綜を抱えている事には事情がある。
それは丁度、先刻の、宮脇朔太郎が御嶽夏帆嬢の桃尻に、字義の通り尻に敷かれていた時の事である。
宮脇朔太郎は御嶽夏帆嬢の尻下で、わんわんしていた。

「ワンワンちゃん、元気よくお鳴き!」
「わんわん!」
宮脇朔太郎は冷静に己の状況を分析していた。なんという恥辱であろう!己はこのように犬畜生として扱われる為に生まれてきたのでは無い!何たる恥辱!何たる恥辱!だが、御嶽嬢の素足の太腿が、ピンク色のランジェリーが柔らかな桃尻が朔太郎の精神を迷妄に堕落させるのだ。御嶽夏帆嬢は朔太郎の尻を叩いた。

「ワン!」宮脇朔太郎は元気よく鳴いた。
と、その時。折り悪しく八野蜜月嬢が店内に出勤した。
八野蜜月は自らの隣人が、同店の先輩キャストの尻の下で愉悦に耽っている姿を目撃した。

「元気ね」八野蜜月嬢は言った。
***

「それで?なんでそんなに落ち込んでるの?」宮脇朔太郎の深刻なうち明け話を聞かされた宇井みゆは、全く意味が分からない。
「好きなの?そのお姐さんが?」

「違う」宮脇朔太郎は言った。そんな下劣な感情ではない!これは人間存在の、人倫の機微だ!
ボンボンの女給が宇井みゆの食べ終えたチョコレートパフェーのガラス容器を下げた。それに応対してから宇井みゆは言った。

「要するに、おっさん童貞が、ママ以外のおっぱいを初めて見て好きになっちゃったんでしょ?」つくづく面倒臭い人間だな、と宇井みゆは思うのである。
「お前は蜜蜂のオスのようだ」宇井みゆは宮脇朔太郎に言った。蜜蜂は女社会で、ひとつの巣に数匹の女王蜂と多くの働き蜂で構成されるが、これはいづれもメスである。オスは繁殖期になると少数現れる。女王蜂の産む受精卵から生まれるのは全てメスバチであるが、繁殖期が近付くと女王蜂は僅かに未受精卵を産む。これがオスになる。だから、オスバチは交尾を必要としない単為生殖によって生まれている。言わば半人前の存在だ、染色体的に。
「そうして生まれたオスはだらだら、だらだらと何もせずにただ、働き蜂の世話になり、巣の中をウロウロしては邪険にされて……」
要するに穀潰しである。
「それでも、オスにはオスの役割があるんだろう?ライオンのオスのように敵から集団を守るとか……」宮脇朔太郎は言った。
「そんな訳あるか、バカ」宇井みゆは言った。
蜜蜂のオスの役割は生殖しかない。外敵と戦うことも、営巣も、花粉を集める事も全て働き蜂つまりメスの仕事である。男根機能しか役に立たない、それが蜜蜂のオスである。
「小生の価値がチンコだけと言うのか!」
「そのチンコの価値も無いと言ってるんだ!おっぱい見ただけで好きになっちゃう童貞が!加齢臭も大概にしろ!」宇井みゆは言った。
「小生の純烈が、そんな女人の乳如きで陥落すると思うな!」と、朔太郎は言った。

宇井みゆは豆炭の如く顔を真っ赤にして矜恃だ、尊厳だと訳の分からぬ事ばかり抜かす眼前の阿呆に呆れた。だが彼女は不図、その阿呆の純烈とやらを揶揄ってみたくなった、

「おっぱい見せてあげようか?」宇井みゆは言った。
阿呆の反応を見つつ彼女は白色ブラウスのボタンを外し、ブラジャーを露わにして、それをめくった。ブラウスの隙間から宇井みゆの白い肌が覗く。白いブラウス、白い肌。淡やかなピンク色のブラジャー。そして乳房。

老舗喫茶店「ボンボン」の隅席で、宮脇朔太郎は宇井みゆの乳房をしかと見た。凝視した。

普通サイズの、普通のおっぱいだ。
朔太郎は頬を膨らませてそっぽを向いた。

「お前、その態度はなんだ!ふざんけんな!」宇井みゆは激怒した。
「うるせえ、ブス!バーカ!」宮脇朔太郎は言った。


「ブス!」宮脇朔太郎の態度を腹に据えかねて、宇井みゆは寝室の枕を幾度も殴った。あの男の所為で一体自分がどれ程の苦労をしている事か。自らの不遇のすべての元凶が彼奴に集約されるような、そんな気がする。彼奴の存在は諸悪の根源、人類の原罪だ。彼奴をどうしてくれよう。

「ブスが!」再び蘇る不愉快の声。
「ブスじゃねえ!」と枕を殴る。

いやしかし?一人で部屋にいると急に訪れる不安が宇井みゆに取り憑いた。ブスなのか?わたし?
宇井みゆは鏡台を開いて鏡を見た。化粧を落として素顔である。

ブス、ではない。……筈だ。平均的な顔の器量というものも分からないが、ブス、では無い。ブスでは無くない?
パジャマ姿の宇井みゆが鏡の中から覗いている。だが、素朴だ。煌びやかな夜嬢達に較べれば。一体、あの駄男の価値基準はどうなっているんだろう?

「ブスが!」と宮脇朔太郎、の残影。
全く腹が立つ!
「臓物を撒き散らして死にますように!」



私室に戻ってもげんなりと沈んでいる宮脇朔太郎であった。何をやる気力も無い。だが、そうしていても仕方ない。気を取り直すには生活の健康が第一である。朔太郎は脱衣所に溜まった洗濯物を洗ってしまうことにした。日頃の家事は義妹の翔子が行ってくれる。そのお陰で朔太郎は日々の仕事に専念できる。翔子も暇ではない。女子大に通う傍らでアルバイトもしている。日々を多忙に過ごしている。であるから、たまの義妹孝行にいざ小生が洗濯くらいしてやろう、そのような義侠心がこの日の朔太郎に芽生えたのである。洗濯の心得の第一は、洗濯物の吟味である。洗濯ネットに入れなければならない物もあれば、色の落ちる物もある。朔太郎は洗濯物の吟味を始めた。義妹の乳当てが洗濯物から出てきた。高校の時分にはまだ愛らしいデザインの下着だったが大学に通うようになって好みが変わったのか下着のデザインが大人びている。群青色の生地に花模様の刺繍が施されている。このカップの内側に義妹の成長がはちきんばかりに収まっているのかと思うと、改めて宮脇朔太郎は感慨を感じるのであった。

「ぎゃあっ……!」
翔子が脱衣所に来た。

「何をしてるの!」
翔子は宮脇朔太郎から自らの下着を奪い取った。
「変態!」

と、そんな義兄妹の日常の行き違いが生じていた時に、宮脇家のドアホンが鳴った。隣家の八野嬢である!

宮脇朔太郎は急いでドアに駆けつけ、ドアノブを握った。だが、その瞬間朔太郎は自らの鬱屈の原因を思い出した。即ち、夏帆嬢の桃尻と朔太郎のわんわんである。

何を、思われたろう?朔太郎は、熟女と非熟女の境界線上にいる限界の泡姫みるきー、御嶽夏帆嬢の尻下で犬畜生に堕落した。そんな姿を目撃されて幻滅をされたろうか。嫌われてしまったろうか?

朔太郎は恐る恐るドアを開けた。
現れた八野蜜月嬢は黒いエプロン姿である。シックなデザインが大きなおっぱいによく似合った。

「これね、お裾分け」と八野嬢は言った。
「これ?何?」
「あのね、ビーフシチュー。嫌いじゃなかった?」
「ビーフシチュー?好きだよ」
「本当?気に入ってくれると良いけれど」

義妹が、ちらちらと此方を見ている。八野嬢は部屋内の義妹に微笑と共に会釈した。それから最後に嬢は小声で言った。

「この前、指名してくれたんだって?」
先日の、おっパブ連中からカンパを貰った時の話だ。結局、地獄獄卒の血も涙もない女編者の策謀によって、八野嬢の予約は取り消してしまったが。

「また、指名してね」耳元で囁いて嬢は帰った。
ドアが閉まり、朔太郎の手には小鍋のビーフシチューが残っている。未だ湯気立つビーフシチューの馥郁の中に、ふわりと彼女の残り香が香ったのである。


「旨っ!」と義妹が、隣家のお姐さん手製のビーフシチューを食べて感嘆している。
コクと深みと程よい苦味甘味酸味が調和して後を引く旨さ。至極ビーフィーである。何故、彼女は拙宅に斯様の品物を持参したのであろうか。

「旨っ!」義妹がまた言った。
もしかして彼女も小生を憎からず思っていて?もしかして日中、小生が御嶽夏帆嬢とワンワン、ニャンニャンしているのを見て彼女の心裡に嫉妬が起こり?その嫉妬が渦巻いてルウーとなり、ビーフシチューに転じたような?さすれば之は恋の味?

コクと深みと程よい苦味甘味酸味が調和して後を引く旨さ。これが恋?

「恋、か」宮脇朔太郎は言った。
「旨っ!」義妹がまた言った。
「お肉ホロホロ!」
恋だな、宮脇朔太郎は思った。

「また指名してね?」と、まだ内耳に残響するウィスパーボイスが宮脇朔太郎の延髄をくすぐる。ゾクゾクとした快感が、雷撃となって宮脇朔太郎の脳髄から脊髄を駆け抜けた。

指名?宮脇朔太郎は考えた。
いつか見た乳房、いつか見た乳頭。神々の山嶺。


いつものようにその晩も、宮脇朔太郎は布団の中でひとつの男根であった。隣家の針一本落ちる音すら聞き逃すまいと彼は全身を硬直させていた。

突然、彼が全神経を集中していた隣家に変化があった。それはまるで海底に沈んだ古甕が百年の海蝕によって小さな孔が開き、百年の気泡が僅かずつ零れる如く、人声、ひとの話し声が訥々と聞こえ始めたのである。

はじめ、宮脇朔太郎は嬢が電話で話しているのだと思った。だが、会話が弾むのか、声音が高くなるにつけ、もう一人のもそもそとした人声が聞こえた。宮脇朔太郎は耳を疑った。低く響くそれはテノール、喉仏の権化、男の声であった。

なおも、注意深く宮脇朔太郎は耳を澄ました。
隣室から聞こえる八野嬢の声は次第に甘くなり、艶を帯び、微かや吐息と化して、とうとう女の悦びとなった。静かに、そして厳かに始まったプレリュードはラッパがファンファーレを鳴らす如く高らかな協奏曲に。女の、疑うらくなく婀娜やかな嬌声が聞こえるのであった。八野嬢の私室から漏れる艷色は、獣を思わせる。女豹の咆哮が奏でる楽章に次ぐ楽章。夜は永遠。野獣達の官能のオーケストラが交響曲を奏でるのである。

ビーフィーだ。
宮脇朔太郎は思った。
夜は明けていた。



寝不足の宮脇朔太郎は翌日、大鳳出版の「びんびん☆」の編集室で、大黒善蔵が鳩レースについて熱弁するのをうわの空に聞いていた。
「で、どれが良いと思う?」
大黒善蔵は朔太郎に聞いた。
「?」
「だから、どの鳩を買ったら良いか聞いてるんだよ」カタログに乗った鳩は血統書付きで、安い鳩で30万円、高い鳩はその倍額の値段が付いている。
「そういうの得意なんだろう?」
大黒善蔵の隻眼が欲に塗れてギラギラと光る。
宮脇朔太郎は並んだ鳩の鳩胸を見ながら、八野蜜月嬢の豊かな乳房について考えていた。彼は今でもありありと嬢の乳房を思い出す事が出来るのであった。それで彼は並んだ鳩たちの仲で、最も八野嬢のバストに形の似た鳩胸を選んだ。欲深い大黒善蔵が何事かを言っていたが、もう朔太郎にはどうでも良い話であった。



数日して、「おっパブ♠セニョリータ」の取材で宮脇朔太郎と 極悪編集者の宇井みゆは数多のおっぱいに囲まれていた。単純計算でおっぱいの数は人数の二倍だ。六人のキャストに12個のおっぱいがふるふると宮脇朔太郎を囲んで震えている。

「この中で一番柔らかいおっぱいは誰でしょう!」
と、おっぱいクイズに興じている。
「ええと、はなちゃん!」宇井みゆが言った。
「残念!さきちゃんでしたー!」
「確かめさせろよう」宇井みゆが言って、さきちゃんのおっぱいを揉んだ。
「ゲハーッ……!やわらかーーーい!」宇井みゆが言った。

「おい!宮脇朔太郎!」宇井みゆが言った。「何を沈んでるんだよ!お前、空気が悪いなあ!おっぱい揉めよう!」そう言って宇井みゆはおっぱいの海に突進した。「ガハハハハ……ッ!おっぱいだぞーう!」

「きゃあっ!」女達も笑った。
「悦楽!悦楽!十万億土!」宇井みゆが言った。

「一、二のおっぱい!」
「一、二のおっぱい!」
「バッファロー!」

ひとしきりの酒池肉林が済んで、おっぱい達の話題は宮脇朔太郎の私生活に変わった。

「実は」と宮脇朔太郎は前夜の出来事を語るのである。
ビーフシチューを貰ったこと。それから、耳元に囁かれた甘い言葉。にも関わらず、その夜に嬢が男を連れ込んで情交に及び、その幾度も繰り返される情交の一切を聞かされながら朝を迎えたこと。

それを宮脇朔太郎は沈痛と話し終えた。終えた途端に六人のおっぱい達と悪逆非道の女編集はゲラゲラと爆笑した。

「ゲハー……ッ!童貞!」おっぱいが言った。
「童貞臭がするから先ずは銭湯に行ってこい!」
「チンコロを洗ってこい!アルコール消毒しろ、アルコール消毒を!」

「結局さあ……」と呆れ顔の女編集が言った。「お前は一体何がしたいんだ?」
風呂屋の嬢が客を取っては落ち込んで、彼氏と情事に耽っては落ち込んで、そもそも嬢の人生に何ら関わる事の無いお前が、嬢が息を吸っても屁をしても奈落に落ちる。そのようなお前の奈落を嬢は知る由もない。おっさん童貞のとんだ独り相撲だ。

「それこそオナニーだ、このチンコ野郎」と女編集者は言うのであった。
周囲のおっぱい達もゲラゲラと宮脇朔太郎を嘲って愚弄した。
宮脇朔太郎はもう、自らの進路が全く分からない。何がしたいのかも分からない。隣室の泡姫みるきーと、一体自分は何がしたかったのだろう?

彼の着るジャケットの内ポケットには今も「おっパブ☆ちくびーむ」の厚志厚情たる金銭の入った封筒が入っている。これが、宮脇朔太郎には嬢と自分を繋ぐ御守りにも思えて、後生大事に持っている。
が、それもまた独り相撲。ロンリーオナニーだ。

いっそ、こんな金はおっパブ達にばら撒いてしまおうか。いつまでも中途半端に煩悶するのはひとえに金銭が煩悩を引き寄せるからで、浄財してしまえば俺はもう何ンにも持たない。乞食と一緒だ。古代ギリシャの乞食哲学者の如く何に惑う事なく清々するだろう。さすれば眼前のの普通の大きさの普通の乳の女にも、斯様な愚弄を受けずに済むのだ。

宮脇朔太郎は周囲にフルフルと揺れているおっぱいを見ながら考えた。フルフル揺れる12個の乳と、衣服をまとった女編集の普通の乳。

浄財だ!
宮脇朔太郎は立って、外へと飛び出した。
「おい、待て!」宇井みゆが言った。


宮脇朔太郎は当てもなく街中を走った。息きれて途中は歩いた。歩いたがまた走った。どうしても疲れたら止まった。だが、宮脇朔太郎はやっぱり走った!

走りながら宮脇朔太郎の心中に暗雲が立ち込める。暗い、正体不明の不安事が彼を襲う。立ち止まれば彼は鬱屈に飲まれる。鬱屈から逃れる為に彼は走った。同じ所をグルグル回った。そこから離れて遠くへ行った。暗中模索の五里霧中。もう彼は無我夢中だ。言い知れぬ不安から逃れようと、喚叫して我武者羅に走るのだ。

蜜蜂のオスは、何の仕事があるでなし、巣の中をダラダラと過ごしている。働き蜂から花粉多めの粗悪の餌を与えられ、巣の中で疎んじられ、穀潰しの日々を過ごしている。女王蜂として育てられたメス蜂の生殖期の準備が整うと、未だ処女たる王女蜂とオスバチは空中で結婚飛行を行うのだ。王女蜂と交尾しようと盛んに王女の尻を追いかけるオス共。何匹かのオスが王女の尻を掴まえて精管を繋げて交尾に成功する。交尾に成功したオスは生殖器がもげて死ぬ。生殖器が切れたオス達が次々落ちていく。王女蜂は交尾が終わると巣に帰る。交尾出来なかったオスも巣に帰るが、働き蜂に巣から追い出されて生活の糧を無くして死ぬ。

どうせ死ぬのであれば、男根を、挿して死ね。

男根がもげて、桜花の如く散る蜂が美しいのだ。墜落する蜂々が美しいのだ。それがオスバチの一生である。宮脇朔太郎はオスバチ程の価値も無い。



「蜜蝋石鹸のつくり方」
石鹸とは。ソープとは如何なるものにやあらん。ソープは我々の穢れを落とす為に授かった天与である。穢れとは皮脂である。皮脂の油分が水を弾き、沐浴だけでは穢れが落ちない。苛性ソーダは、油分と水分を混合させて固形を作る。これを鹸化と呼ぶ。油と水の混合体である石鹸は皮脂の穢れを落として、それを水で洗い流す事が出来る。
ソープを作る時に蜜蜂の蜜蝋を入れると肌心地が滑らかになる。蜂蜜を入れると泡立ちが良くなる。蜜蝋石鹸は高級石鹸である。

そんな石鹸を「コスプレソープ♡‬ハニーカム」では使っているのだ、とかつてのインタビューにおいて宮脇朔太郎は八野蜜月嬢から聞いた。泡姫達は蜂蜜の匂いがする。八野蜜月嬢の匂いが漂って、宮脇朔太郎は思った。

過去、宮脇朔太郎は大鳳出版と契約して売文するために客として店舗「泡風呂にゃんにゃん」に入った。宮脇朔太郎は泡姫みるきーに言われるまま、自ら衣服を脱いで全裸となり、泡姫みるきーに言われるまま自分で体を洗い、独り湯船に浸かった。いつの間にか泡姫みるきーが消えていて、黒服の男が二人来て、湯船の中の宮脇朔太郎を激烈に叱咤して彼は店から追い出されて、以後「泡風呂にゃんにゃん」は出入り禁止となった。

そんな話を宮脇朔太郎は初対面の八野蜜月嬢に話をした。「ウケる」八野蜜月嬢は笑った。宮脇朔太郎はその笑顔に、魂魄が救済された心持ちがしたのであった。


いま、宮脇朔太郎は北限の大地を翔ぶ一羽の隼となって。

彼は飛鳥の速さで筆を繰り、雷撃の推敲を重ねて、一文をしたためた。熱烈の恋文だ。否、挨拶文だ。児戯だ。他愛ない駄文だ。慰めだ。自慰だ。抑えきれぬ慕情だ。拝啓隣人様、最近はお日柄もよく幾分冬の寒さも和らいだように感じます。世に寒風は常に吹くとは申しますが、あなたの周りは春風が吹いているかのように温和の心地が致します。先日はビーフシチューをご馳走になりました。大変美味しゅうございました。御礼も兼ねて是非今度は当方にご馳走させてください。何か季節の美味しいものでも食べに参りましょう。敬具。あなたの隣人より。
追伸、あなたが石鹸作りが趣味と聞きましたので小生も手前味噌ながら石鹸を作りました。蜜蝋と蜂蜜を加えております。公私にわたってお使い下されば幸いに存じます。

黄色い便箋に封された其れを彼が隣人宅のドアポストに投函しようとした時に、丁度ドアーが開いて八野嬢が現れた。
「どうしたの?」
八野嬢は言った。
宮脇朔太郎の心臓は猛禽類に鷲掴まれた。万力の力でぎりぎりと‎心臓が締まり、全身がひとつの心臓になって拍動する。焼けた竹が爆ぜるように彼の心臓は爆発する。顔面の紅潮が業火となって彼を燃やす。

「てててててて」
「手紙?何の?」
「よよよよよよ」
「ええ、受け取るわ?」
手紙を受け取った八野嬢は言った。
「ウチに上がる?」


八野蜜月嬢の私室は宮脇朔太郎と義妹、宮脇翔子が共暮らす部屋と対照を成している。即ち、壁一枚を隔てて、壁と空隙と壁とを挟んで宮脇朔太郎と八野嬢は寝ているのであった。
一層、宮脇朔太郎は緊張した。
そして、かつての八野嬢のプライペートな婀娜声を思い出して、彼の肉体は充血して硬度を増した。
部屋は石鹸の匂いが充満していた。それが、宮脇朔太郎を夢見心地の桃源郷に誘った。
「ご飯、食べていかない?」
八野蜜月嬢は言った。
ご飯とは夕飯だ。夕飯を食べて、その後は?風呂、なのだろうか?泡立ちの良い石鹸を用いて洗身、なのだろうか。宮脇朔太郎の死に場所は此処なのだろうか。
「石鹸で泡立てる前にお湯に蜂蜜を少し加えると良いみたいですね」
宮脇朔太郎は言った。

エプロンを着けて八野蜜月嬢は台所に立った。夕飯を作るのだ。超常の集中力で宮脇朔太郎は台所の八野蜜月嬢の尻が右に左に揺れる様を見詰めた。ふと、尻を見ながら彼は思った。
小生は本日どのようなパンツを履いていただろうか。
パンツについて。それは大きな問題だった。彼の人生史を揺るがす問題だ。彼は熱心に昨夜の事を思い出そうとした。
一度家に戻ってパンツを履き替えた方が良いだろうか。それとも、今、ズボンを脱ぐべきだろうか。彼には正解が分からない。宮脇朔太郎は悩んだ。
「もじもじしてどうしたの?」
八野嬢は言った。
「トイレを貸して頂きたい」
「いいわよ」
トイレで朔太郎は自らのパンツを見た。何ら変哲ない黒のボクサーパンツであった。穴など空いてないだろうか。彼はパンツを脱いで確認した。結論としてパンツに問題は無かった。
だが、彼にまた新たな問題が浮上した。何かが臭った。八野嬢のリビングを満たす石鹸の芳香とは異質の獣臭が、トイレにわだかまっている。宮脇朔太郎の野性の匂いであろうか。宮脇朔太郎は訝しがった。
トイレから出ると直ぐ隣が脱衣場になっていて、その奥が浴室である。浴室の構造は宮脇家のものと変化は無いと思われる。
その浴室から唯ならぬ気配と臭気を感じて、宮脇朔太郎は一歩、脱衣場に入った。
脱衣場には宮脇朔太郎宅と同じく洗濯籠があって、洗濯籠には八野蜜月嬢の私服が重なって居たが、いまは其れすらも異様の気配に禍つ事を感じるのであった。私服の下には八野蜜月嬢の脱いだ股布のひとつもあるかもしれないが、いまは其れすらも禍つ事に感じるのであった。
宮脇朔太郎は禍つ事の元凶たる浴室のドアーを開けた。

むせ返るような獣臭が宮脇朔太郎の鼻腔を貫いて、彼は咄嗟に口鼻を手で覆った。
犬属ほどの小さな四足獣の食肉が、半ば解体されて風呂の天井から吊るされていた。浴室の所々に血痕が残っている。
浴室の隅端には解体に使われたであろう、鉈が置かれている。
更に鉈の隣には解体した際の肉片がビニール袋に入っていて、血袋になっている。骨と内蔵と一緒に入っているものは小さな豚の生首である。

突然、食肉解体現場に居合わせた彼は軽い嘔気を催したが、気血を強くして奮起した。何故か分からないがミニブタ肉が解体されて、食肉加工されている!これは恐らく八野蜜月嬢の趣味である料理の一環なのだ。美味しい手料理を作るため、子豚を買って食肉加工する所から料理の道が始まっている。ひとえに愛、即ち母性!強烈な獣臭の中で彼は豚肉は美味しいと念じた。これを乗り越えなければ、宮脇朔太郎は大人の階段を上る事が許されないのであった。豚肉は美味、豚肉の心臓も肝臓も小腸も美味、舌肉も美味。これは母性。これは愛。

「あら」と八野嬢が風呂場を覗いた。
「美味しそうな豚肉ですね」宮脇朔太郎は言った。
「そうでしょ、ご馳走してあげる」八野嬢は言った。「食べたいお肉はある?」
「頂けるなら何処でも」宮脇朔太郎は言った。言いながら嘔気を堪えるのに必死だ。息をすれば血と内蔵の臭いが宮脇朔太郎の体内を支配する。
「この豚ちゃんはね、本当はペットなのよ」と八野嬢は言った。「二番目の彼氏のペットなの」
八野嬢の二番目の彼氏が出張で旅行に行くので、その間ペットのミニブタを預からなければならないのだと言う。が、二番目の彼氏の曰く出張旅行とは嘘出鱈目で本当は女と一緒に温泉旅行に行くのだ。それが気に入らないので、豚を解体して精肉にして、二番目の彼氏に食べさせるつもりなのだと言う。
「子豚ちゃんは逃げちゃった、と言うつもり。良い気味よね。」と八野嬢は言うのであった。
息をするのも憚られる臓物臭の中で、酸素欠乏に目眩しながら朔太郎は其の話を聞いた。眩暈によって彼の足元は繰る繰ると回転した。
八野嬢は美しい聖母観音様である。慈愛と母性に溢れていらっしゃる。おっぱいもお尻も大きくて柔らかくて石鹸の匂いがする料理上手の泡姫みるきーである。聖母観音様が手ずから豚肉を調理して手料理を振舞って下さるのだ。こんなにも有難い話しがあるだろうか、いや無い。この機会を逃してはならない、宮脇朔太郎はいま死ぬのだ。今晩、八野嬢の肉布団の上に死に果てるのだ。宮脇朔太郎は声にもならぬ声で自らを激励した。はくはくと唇が酸欠の金魚のように動いている。目眩だ。世界が回転している。酸欠だ。目の前が暗くなる。鼻が曲がる。臓物臭に支配される。嘔気がやまない。堪えろ、宮脇朔太郎。艱難辛苦に耐えて、大人の階段を上るのだ。

「あのね、豚のおちんちん食べさせてあげる、凄いらしいのよ、アレが」そう言って嬢は鉈で子豚の陰茎と睾丸を切り落とした。ねばねばとした汁が、宮脇朔太郎の唇に点々と散った。切断面から噴出した腐臭によって宮脇朔太郎の胃腑は引き攣って、彼は聖母観音の乳房めがけて盛大に嘔吐した。
「ぎゃあ……ッッーーー!」嬢は驚いて悲鳴をあげた。
「小生も彼氏の一人にしてください!」
宮脇朔太郎と八野蜜月嬢は吐瀉物によって繋がっている。宮脇朔太郎は八野蜜月嬢に愛を叫んだ。嬢に何人の彼氏がいるのか知らないが、末席で良かった。
「汚ねえっ!帰れチンカス!」
嬢は言った。


嬢の部屋を追い出された宮脇朔太郎の純情は敗れ、彼の男根は容赦なく折れた。彼は折れた男根をぶら下げて、失意のまま落とせぬ悪臭を放ちながら夜街を歩いた。幽冥の果てない道を歩き続けて彼は自分が「コスプレソープ♡‬ハニーカム」の前に立った事を知った。彼の足が自然と「ハニーカム♡‬」への経路を選び、目的地に到着した事に、他ならぬ彼自身が最も驚いた。どうして俺はこんなに心理とは真逆の場所に着いたのだろう。彼は踵を返して、もっと「ハニーカム♡‬」とは対極の場所に向かおうとした。だが、彼の足は再び止まった。彼が「ハニーカム♡‬」に辿り着いた意味について。彼は考え始める。

店の重厚感のある鉄扉が、街と店内を仕切っている。この鉄扉の向こう側は、裸と石鹸の国なのである。いつも乳と蜜の川が流れており、石鹸が泡立っている。男の、誰もが幸福になれる国。夢と魔法の国。男児の殿堂。それがこの鉄扉の向こう側だ。
その意味からして、彼は全く異邦人であった。この国境を彼は越える事ができない。彼は孤独の旅人なのである。

「あら」と声がした。
声の主はいつぞやの桃尻女王、貧乳の美魔女、金髪の御嶽夏帆嬢であった。

「どうしたの、ワンワンちゃん」御嶽夏帆嬢は言った。
「小生の魂が漂泊しているのだ」宮脇朔太郎は言った。
「そうなの、またお尻で乗ってあげようか?」御嶽夏帆嬢は言った。
宮脇朔太郎はその言葉を聞いて、背中が赫々と熱くなった。女人の尻肉が背中に乗る感触を、温度を、女臭を、たなびく絹布のフェザータッチを彼の肉体が思い出した。

浄財、の言葉が彼の心裡に去来した。
浄財!
浄財!

彼の心裡に住まう何者かが、彼を浄財に煽った。彼の胸ポケットに仕舞われた金銭封筒が彼の情動を感じて烈火に燃えている。
「破廉恥!」彼は叫んで首を振った。
「何よ急に?」
「おっぱいの値段は幾らだ!ハウマッチ!」「どういうこと?コースの料金を聞きたいの?時間は?女の子の人数は?」御嶽夏帆嬢は言った。
「一生だ!一人だ!一生涯の双房だ!」宮脇朔太郎は言った。それが、彼の、彼自身が上手く言い表せない切なる願いの近似であるような気がした。「一生の乳はハウマッチ!」

「ワンワンちゃん、一生のお乳なんて此処にはないわ?」御嶽夏帆嬢は言った。
「一生のお乳は何処にあるんだろう?」
「あたしなら、結婚してあげなくもないけど……」御嶽夏帆は言った。
「本当?」宮脇朔太郎は言った。

「家事をしてくれるワンワンちゃんが欲しかったのよ」御嶽夏帆は言った。

「小生は作家だ。」
「作家は要らないわ?」
「家事はする、だが小生は作家だ。奴隷になろう、人間椅子にもなろう。靴も舐める。尻も差し出す。鳴けと言われればワンと鳴く。だが作家の魂だけは売れない。小生は生涯作家だ。」
「そう、なら残念」
ミスマッチ、ね。そう言って御嶽夏帆は鉄扉を開けて国境を越えようとした。宮脇朔太郎は慌てた。
「まままま、待って待って……」嬢を引き留めようとした。その時、客が来て、御嶽夏帆を指名した。それで夏帆嬢は男の腕に抱かれながら鉄扉に消えた。「コスプレソープ♡‬ハニーカム」が提供する今日のコスプレはシスターであった。御嶽夏帆嬢はこれからシスターとなって懺悔と洗身と奉仕をするのだ。
「バイバイ」と夏帆嬢は冷ややかに朔太郎を一瞥して扉を締めた。もう、朔太郎に興味はない、嬢の蔑視が言った。

再び宮脇朔太郎は国境線の外つ国に独りとなった。宮脇朔太郎は絶望した。今まで其処に、彼の兾求した果実が提がっていたような気がした。嬢のお尻が再び彼の背中に乗る筈であった。彼は女豹の放つ馥郁の香りに包まれる筈であった。彼は手を伸ばすだけで、彼の求めた永遠を手に入れる事ができる、その筈で無かったか。だが、彼は全てを喪って飄々と吹く風の只中に独り在る。

「失敗した!」
彼は言った。宮脇朔太郎は永遠を捕まえる事が出来なかった。絶望の中で彼は叫んだ。

ああ!乳の谷間から俺は生まれてきたのだ。俺はまた、おっぱいの谷間に還るのだ。宮脇朔太郎は己の使命を知ったぞ!

「小生の魂が漂泊している!」


漂泊の朔太郎は海に向かって叫んだ。
彼の失意と孤独を理解する朋輩ともがらの居ない事が悲しい。
朔太郎の孤独の咆哮に海は返事をしない。夜街も他人、海も空もまた宮脇朔太郎の他人であった。彼の孤独と哀しみは波の波涛に消えるしかない。
宮脇朔太郎の電話が鳴った。大鳳出版「びんびん☆」の編集長、鳩レース狂の大黒善蔵であった。
「俺の鳩が勝った!」大黒善蔵は言った。
宮脇朔太郎は電話を切った。


彼は失意で帰宅した。
「お兄ちゃん」と、義妹が出迎えた。
「煩悩!」宮脇朔太郎は言った。
彼には今、義妹すら乳袋に見える。煩悩に見える。襟ぐりの開いた私服を来て、義妹は大きなおっぱいの谷間娘であった。檸檬の匂いのする千尋の渓谷を前に宮脇朔太郎は今やひとりの修羅である。

「ちょっとお金を貸してくれない?」義妹は言った。ATMが閉まってしまったのだ、と言う。「明日になったらすぐに返すから」と義妹は言った。
「お金!」宮脇朔太郎は言った。何たる破廉恥をこの娘々は宣う!金と望んで、金が土中から出る道理なし。金と望めば対価物が必要である。義兄の願いを何でも叶えるその覚悟が娘々にあるか。あるというのか、この義兄の欲望を受ける覚悟が!この欲望を!
「対価はなんだ!」
「対価……?」義妹は言った。

「パンツを寄越せ!」宮脇朔太郎は言った。当然ブラジャーとセットだ。尚、ブラジャーとパンツの柄が揃っていなければセットとは認めない。「洗ってないパンツの股染みの匂いを嗅がせろ!」

義妹が青ざめた。そして戦慄が極まり振戦した。
「軽蔑するよ……」と吐き捨てて義妹は自室に戻った。

「おや」宮脇朔太郎は言った。今まで確かに宮脇朔太郎と義妹は何某かの絆で繋がっていた。それは確固に宮脇朔太郎の感じるところであったし、彼自身がそれを自身の存在証明の如くに縋っていたものでもあった。それが、何故か今、消えた。

「翔子!」宮脇朔太郎は義妹の、閉ざされた部屋のドアを叩いた。義妹の返事は無かった。義妹の部屋の静寂から、憤懣が滲み出る。宮脇朔太郎は義妹である翔子と、朔太郎を繋いで来たものが決定的に破砕した事を知った。

「翔子!」宮脇朔太郎は言った。返事は無かった。宮脇朔太郎の手のひらから次々と何某かが零れていく。人が、手掌に掬った一握の砂を零さずにいることができないように。宮脇朔太郎は人生の中で、ひとつずつを喪っていく。

宮脇朔太郎は堪らずに外へ飛び出した。向かうべき先はもうひとつしか無かった。大鳳出版だ。もう彼が掌に掴めるおっぱいは女編集者の宇井みゆしかない。残忍酷薄と誹った何ら興趣の無い乳だが、もう宮脇朔太郎の人生には、宇井みゆにぶら下がる凡庸の乳しか救いが無い。だから彼は走った。街中を走った。人々がその一陣の風に振り向いた。彼は颯爽と疾駆した。彼は爽快な五月の風で、光陰の弓矢で、獰猛な虎だった。彼の心裡に宇井みゆの数々が思い起こされる。普通の乳!普通の!

彼は止まって夜街を仰ぎ見た。
他人の顔をした街並みに聳え立つマンションが、彼を見下ろしている。巨大な建築物だ。夜の、巨人のようだ。マンションには蜂の巣のように整然と部屋が並んでいる。それぞれの部屋にそれぞれの人間がいて、それぞれの人間模様を描いている。それぞれの物語。それぞれのヒエラルキー。往来に立ち止まった彼を、人々が通り過ぐ。普通の人々が通り過ぐ。普通人の群れが西に東に移動している。

思い返せば彼の魂魄は普通であることから遠迂していた。夜街の普通で無いものに囲まれ過ぎて、彼は自らの普通性を忘れていた。宮脇朔太郎は普通の、凡庸の人間であったことを忘れていた。宮脇朔太郎に真に必要なものは夜街の巨乳美乳でない。真昼間にありふれた、興趣の無い普通の大きさの、普通の乳だ。宮脇朔太郎は宇井みゆの数々を思い出し、熾火と燻った心火が再び灯り烈火に盛っていくことを感じた。宮脇朔太郎は死地に飛び立つ一匹の雄蜂なのだ。死ね、宮脇朔太郎。死ね、小生。

大鳳出版の門扉を抜けて、彼は粗末の階段を駆け上がり、「びんびん」誌の編集室の鉄扉を開けた。
其処で、彼は宇井みゆの乳を見た。宇井みゆの、真白き乳を。

宮脇朔太郎の欲した宇井みゆの普通の乳は、「びんびん」編集長の大黒善蔵によって縦に横に、蹂躙されている最中であった。宮脇朔太郎の闖入に気付かない宇井みゆは艷色の嬌声をあげた。大黒善蔵が招かれざる闖入者に気付いて、停止した。その停止に気付いた半裸の宇井みゆは自らの晒した痴態が、彼女の桃源郷が隠しきれぬ事を知った。宇井みゆの普通の乳が、上気して桃色の血色を纏って興奮に膨らんでいた。半裸の腹部が、臍が渋皮の剥けた色香を放っていた。宇井みゆが女の顔をしていた。
宮脇朔太郎は黙した。宇井みゆの女を見つめた儘、彼は黙した。
「続けて良いわ」宇井みゆが大黒善蔵の男根に言った。

宮脇朔太郎の掌が掴んだ砂の、最後の一粒が掌から零れた。

全てを失った彼は何処を如何に歩いたものか、往来の真ん中で数人のチンピラに絡まれて、訳も分からず殴られたり、蹴られたりなどして、彼の顔面は血潮に染まった。顔面は変形した。衣服は破けた。自らの吐いた嘔吐に塗れた。痛みに体を歪ませて真っ直ぐ歩く事も難くなった。そうして襤褸となって彼は昏い迷妄の隧道を彷徨い「コスプレソープ♡‬ハニーカム」の鉄扉の前に毅然と立った。
彼の愛した八野蜜月はもう出勤をする時間であった。

今晩も、彼の愛した泡姫みるきーが乳白色の蜜川の中で、男達の欲望に洗体と奉仕とにゃんにゃんをしている。数多の泡姫が洗体と奉仕とにゃんにゃんをしている。
ビルジングの整然と並んだ各室でにゃんにゃんとワンワンが行われている。
夜の、国境線は荒涼としていた。
吹き抜けたビル風は、彼に荒野を吹きすさぶ一陣のつむじ風を思わせる。
星が瞬いている。彼は今までに空を見上げた事がない。見上げた夜の星数の多さに彼は息を呑んだ。

彼の内ポケットにはピストルのような、現金封筒が収まっている。彼はその銃身を握った。現金封筒の確かな手応えを彼は感じた。

宮脇朔太郎は孤独の漂泊者だ。
荒涼の風が吹いた。
宮脇朔太郎はおっぱいから生まれて乳の谷間に還る。乳と蜜が流れる川に彼の魂が漂泊している。
かつて女達がいた。今はいない。
宮城朔太郎は孤独の漂泊者だ。
荒涼の風が吹く。

彼は国境を越えた。
(了)

ハードボイルド小説「宮脇朔太郎の隣人は泡姫みるきー



#小説
#ハードボイルド
#ネムキリスペクト
#NEMURENU
#蜜蝋



梗概(約1000文字で全内容をまとめています)
「宮脇朔太郎の隣人は泡姫(みるきー)」


自称世界の大作家である宮脇朔太郎は生活の糧を得るために大鳳出版が発行する地元の風俗情報誌「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」に風俗店のレビュー記事を寄稿している。「びんびん☆」編集長の大黒善蔵とは折り合いが悪く、記事を書いても捨てられる事を繰り返している。今日もまた、宮脇朔太郎の10万文字風俗レビューは大黒善蔵に捨てられた。
大鳳出版の編集者、宇井みゆは自らの配属先が「びんびん☆夜のホットスポットマガジン」になったことに憤った。若い女の勤める部署では無い。だが、その怒りは編集長大黒善蔵に一蹴される。
宮脇朔太郎はレビュー記事を書くために「コスプレソープ♡‬ハニーカム」の泡姫みるきー八野蜜月嬢の元を訪れた。宮脇朔太郎の難儀の性格はあらゆる風俗嬢の嫌悪の対象であるが、八野蜜月だけは宮脇朔太郎を厭う事がない。宮脇朔太郎の生理的嫌悪物質から風俗嬢を守るため、店舗側の配慮で取材の時間は2分間と決められた。彼を励ますために、八野蜜月は自らの乳房を彼に見せる。「お金を貯めて指名しに来てね」と言った八野蜜月の言葉は深く宮脇朔太郎の心裡に宿るのであった。
その夜、帰宅した彼を出迎えた義妹、宮脇翔子は彼にマンションの隣室に新たな転居者が入った事を伝える。その新たな転居者とは他ならぬ「ハニーカム♡‬」の泡姫みるきー、八野蜜月嬢その人であった。
恋慕の対象が隣に暮らす事で、精神がそぞろに乱れる宮脇朔太郎。仕事も手につかなくなり、その相談を「おっぱいバブ☆ちくびーむ」の面々に相談した所、彼ら彼女らの好意によって宮脇朔太郎はソープランドの入浴料を得るに至った。
奮起して「ハニーカム♡‬」の門を叩いた宮脇朔太郎だったが、目当ての八野蜜月は既に接客の最中であった。3時間後にまた来る事を約束して宮脇朔太郎は近くの喫茶店で逡巡と時間を潰す。
そこに現れたのは新たに宮脇朔太郎の担当となった「びんびん☆」の女編集者、宇井みゆであった。彼女は宮脇朔太郎のレビュー記事の締切がとうに過ぎている事に怒っていた。宇井みゆの気迫に押されて宮脇朔太郎はレビュー記事を書き上げたが、結局「ハニーカム♡‬」で八野蜜月を指名する事は出来なかった。宮脇朔太郎は自らが失意と安堵を感じている事を発見した。
宮脇朔太郎は複雑の情を抱えて帰宅した。彼はその晩、義妹の全裸の姿に鉢合わせる。幼い頃から見守ってきた義妹の成長に彼は染み染みと感じいるのであった。
夜。宮脇朔太郎は興奮して眠れなかった。隣宅の八野蜜月の生活音が聞こえぬものかと布団の中で耳を澄ませている。
彼の恋慕は募って彼は生霊と化して隣宅の八野蜜月の裸体を網羅する夢を見た。
昼まで惰眠を貪る彼を起こしたのは宇井みゆの電話であった。彼女は激怒しながら宮脇朔太郎の文章にクレームが付いた事を伝えた。
クレーム主は「ハニーカム♡‬」で働く泡姫みるきーの御嶽夏帆嬢であった。風俗嬢を魚や野菜に例える宮脇朔太郎の文章に怒っている。
紆余曲折を経て、宮脇朔太郎は御嶽夏帆嬢の尻の下で、人間椅子となってワンワン鳴いている。
その後、宮脇朔太郎は喫茶店で迷惑料と称して宇井みゆにチョコレートパフェを奢る羽目になった。宮脇朔太郎の気持ちは暗澹に沈んでいる。実は先程の店で、御嶽夏帆嬢の尻の下でワンワンしている彼のあられない姿を、想い人である八野蜜月嬢に目撃されていたのだ。
失意の理由を聞いて呆れた宇井みゆは、彼を揶揄って自らの乳房を見せる。だが、八野蜜月の乳房に比べて貧相な宇井みゆの乳棒は宮脇朔太郎から罵倒を受けるのであった。
家に帰って洗濯籠の中にあった義妹の下着を鑑賞していた宮脇朔太郎に、訪客があった。隣宅の八野蜜月嬢である。彼女の作ったビーフシチューのお裾分けであった。
「今度、指名にきてね」八野蜜月嬢は宮脇朔太郎の耳元に囁いて部屋に戻った。馥郁香しいビーフシチューを食べながら、これは恋の味であると宮脇朔太郎は断じた。だが、思わせぶりな八野蜜月嬢の態度とは裏腹に、その晩隣宅から聞こえてきたのは八野蜜月嬢とその恋人の情事の婀娜声であった。宮脇朔太郎は一晩中続く八野蜜月の艶声に眠れぬ夜を過ごした。
後日、宮脇朔太郎は「おっパブ♠︎セニョリータ」の取材時に困惑の胸の内を吐露し、おっぱい達と宇井みゆに嘲笑される。愚弄に耐え兼ねた宮脇朔太郎は一念発起して恋文を書き、八野蜜月に届けたのであった。
恋文を受け取った八野蜜月嬢は宮脇朔太郎を私室に招き入れる。だが、彼はその部屋の浴室に、嬢が精肉解体している途中の子豚の死骸を発見する。それが二番目の彼氏のペットだと伝えた八野蜜月嬢は宮脇朔太郎の為に、子豚の陰茎と睾丸を切り落とした。凄惨の浴室内で愛を告白した宮脇朔太郎であったが、八野蜜月嬢から彼は拒絶されるのであった。
宮脇朔太郎は八野蜜月嬢を失い、何故か「ハニーカム♡‬」に来ていた。そこに現れたのは桃尻の御嶽夏帆嬢だった。だが御嶽夏帆嬢からも宮脇朔太郎は拒絶されるのである。当惑しながら宮脇朔太郎は義妹に愛を求めたが、「脱ぎたてのパンティーの股染みの匂いを嗅がせろ」と迫った事で義妹との関係は決定的な破砕を迎えた。女たちを次々と失った宮脇朔太郎は狂乱の中で我武者羅に夜街を走って、大鳳出版の宇井みゆを訪ねた。宇井みゆへの愛が真実の愛と気付いた彼が、編集室に入ると、宇井みゆは編集長大黒善蔵との情事の最中で、彼女の桃源郷が宮脇朔太郎に開陳されていた。その後、街中で暴行を受けて血だらけになった宮脇朔太郎は再度、八野蜜月を求めて「ハニーカム♡‬」の門前に立つ。彼は胸元の「銃口の如く確かな手応えをした現金封筒」を握り締め、「ハニーカム♡‬」の扉を開けた。