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SF小説「ゴッド・ウィル・B・デッド」

あらすじ


この世界には4種類の人類がいる。神族であり世界政府を統べるアイヌアが2億人。寿命1200年の長命種、樹人エントが36億人。機械生命体のアタニは1億6千万人。体組成が水分とタンパク質で出来ているハレスは3200万人。ハレスとよく似ているが忌民として嫌われているウォーゼが800万人。ウォーゼの男は臭いので迫害されているのだ。そのウォーゼの男である主人公セイセイ=ミクラジマは明日40歳になる。明日40歳になる東京都住みのウォーゼ達は死ぬために両国国技館に向かっている。だが、セイセイの足取りは重い。両国国技館に行く前に浅草かっぱ橋道具街をブラ散歩して、20人前の料理ができる大きな鉄フライパンを購入した。買い物のオマケに店から貰った福引券は3枚。セイセイが商店街組合の会場でくじを引くと3枚とも特賞「神様が願いを叶えてくれる券」であった。明日死ぬセイセイに与えられた三つの願い。願いを叶えて貰うために彼は浅草寺に向かう。ホムンクルス使い。人口統制局。月面刑務所街。生命とは。明日死ぬ筈のセイセイの運命が大きく動き出すのであった。(50,000文字 読了時間120分)

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第一章「ホムンクルス使い」


旧吉原検診所には誰もいない。休診日だ。診療所内の照明は消灯しており薄暗い。夕方の西日が窓から差し込む。床が、光と影のコントラストに分かたれる。沸沸として、その床面に扁平な眼球文様が数多に浮き出で、音も無く、縦横無尽と診療所内を移動する。その中心にひとりの男が立っている。フード付きのマントを羽織っている。フードを目深に被って顔は見えない。眼球文様が過ぎた床は艶が増している。ツルツルのピカピカだ。それはまるで禿頭のように光沢を放つ。男は診療所内の清掃をしているのだ。時間が経って日が暮れた。暗がりの中で眼球文様が燐光を放つ。不思議な光景だ。診療所内には外から入り込んだ小さな虫が什器の隙間を這っていたが、眼球文様の扁平な生物はそれらの小虫も喰らうようであった。小虫が眼球文様の生物の口吻に砕かれる音が無音の診療所内に吶々と聞こえる。
それら、奇妙な生物は本当の、生物ではない。仮の命が与えられている生物に極々類似した疑似の生物だ。「ホムンクルス」と呼ばれている。
「ホムンクルス」は「ホムンクルス使い」によって生み出される。

小虫や塵芥を喰らった時に扁平の生物の放つ燐光は仄かに光量を増す。そうして日の暮れた診療所の暗闇はたくさんの燐光が明滅しながら徘徊するのであった。燐光の、淡やかな明滅の中心に男がいる。男は、眼球文様の扁平な生物を使役している。目視の限り、診療所内の清掃は終了した。男が虫笛を吹くと、扁平の生物は男の元に集まって、男が羽織るマントの裏側に鱗の如く張り付いた。
燐光がすべて消えて、診療所内は暗闇に落ちた。マントの男は診療所の外に出た。その場にじっとして動かない。無聊の時間が過ぎていく。待たされているのだ。
診療所の職員と思われる者がやってきて、遅れた事を詫びもせず、男に金銭を渡した。清掃の代金だ。
「約束よりも少ない」男が言った。
「お前、ホムンクルス使いだろう?」
「そうだ」
「気味が悪いんだよ」と診療時の職員が言った。「ホムンクルス使いが院内に入った事がシレルト客足が落ちる。どうして最初に言わなかった。」
「聞かれなかった」フードの男は不遜に言った。
「早くあっちへ行け」診療所の職員が男を追い払う。
「野獣が来るから」

男は少し不満の様子を見せた。が、陰気にその場を後にした。

東の空に月が浮かぶ。男は背中を丸めて月を見た。月は大気に歪んで赤く、大きい。
月には兎がいるかしら、男は思った。
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SF小説
「ゴッド・ウィル・B・デッド」
御首了一

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第二章「忌民ウォーゼ」


浅草、鷲神社の酉の市。アタニ達が露店を開いて縁起物の熊手を売っている。雑多と客が居て、人波の多くは行商を商うアタニである。商売繁盛を願って熊手を買うのだ。アタニの人波の中に少数のエントが混じる。
大きな熊手を買う客があると露天商のアタニ達が威勢の良い手締めを披露する。いま特大の熊手が売られたらしい。どよめきが起こって露店のアタニが勢ぞろいして手締めを三度繰り返した。

セイセイ=ミクラジマはその混雑を横目に通り過ぎた。ウォーゼである彼はアタニの集まる場所を避ける。ウォーゼは差別されている。不用意に近付くとアタニ達から心無い迫害を受ける。この世界でウォーゼたちは忌民と呼ばれて蔑まれている。

この世界には五つの人種がある。はじめにこの世の神であるアイヌア達。アイヌア達は神の国にいて世界政府を組織し、世界の人々を統治している。
それからこの世界の大部分の人口を占めるエント達。彼らは世界中の何処にもいて、公共の職業に就く事が多い。そして数は少ないが都市部に暮らして経済活動の要となる機械生命体のアタニ。もっと数は少ないが美しくて愛されるハレス達。最後に共同体を持たず流浪に暮らすウォーゼ。

ウォーゼが何故、忌民と呼ばれるのか理由は明白だ。彼らは臭い。獣臭がする。彼らの生命は汚穢と不潔に満ちていて、生活はいかにも動物的で、彼らが生きているだけで環境が汚れる。体組成の60%もが水分から成っていて、そのため、彼らは生まれても動いても傷付いても死んでも、形容し難い悪臭の体液を撒き散らす。それら獣畜の如き性質がエントやアタニなど他種族から忌まれるのだ。ウォーゼは年を増す程、生臭い。加齢のウォーゼは汚穢が顕著だ。臭いから嫌いだ。

斯くしてエントの社会学者たちはウォーゼたちが臭いので差別を受けるようになったのだと言う。だが、その学説はエント学者たちの個人的主観であって、ウォーゼが差別される言われは他にある。その理由は単純明快で至ってシンプル。神々の定めた律法にウォーゼたちを差別するよう記されているのだ。律法は神々が世界を統べる為に使われる。非常に長大な書物で、ウォーゼの短い生涯では一生を掛けても読み切ることはできない。この世界にあるあらゆる書物の文字数を合わせたとして、律法の長大さは世界に存在する全文字数の四分の三にあたるのだ、と言われている。その中に、ウォーゼを忌民とすることが定められているのだ、と言われている。律法はウォーゼが忌民であることと、その数を増やさないことを定める。律法に則り種族人口の数が決まっている。まず神々であるアイヌアが全人口の5%、約2億人。エントが人口の90%にあたる36億人。アタニの人口比率は全世界人口の4%の1億6千万人。ハレスが3000万人。ウォーゼは1000万人しかいない。
性別という概念が無い。エントやアタニは性格や外見から察するに全て男だ。ハレスとウォーゼは同種族の男女であるが、世界人口が政府の人口統制局に管理されているので、この世界は生殖によって人口が増えることはない。だから同種族の意識が希薄で性差が異種族の扱いとなった。生殖は野蛮だ。獣畜の如き低劣な行為だ。新しい生命はエントもアタニも神々の国で生まれる。ハレスもウォーゼも神々の国で生まれる。
エントもアタニもウォーゼも男であるので、「男」や「彼」と呼ばれる。種族の名を付けて「エント男」「アタニ男」「ウォーゼ男」と呼ばれる事もある。
ハレスは女であるので「女」や「ハレス女」または「彼女」と呼ばれる。

セイセイ=ミクラジマは鷲(おおとり)神社から離れた。フードを目深に被り、道端を歩く。未だ賑わいの衰えない酉の市に行くために浅草駅から歩くアタニ達が人波となっている。我が物顔に往来を闊歩するアタニ達を避けながら、セイセイ=ミクラジマは背中を丸めて歩く。

第三章「集団予定死」


「明日死ぬ予定の方はこちらにお並び下さい」と拡声器を持った係員が誘導する。大勢のウォーゼ達がその列に並んでいる。

セイセイ=ミクラジマはその光景をかっぱ橋道具街の街頭テレビで見ている。彼には向かうべき先があるのだが、愚図愚図と歩いて寄り道しながら今は駅と浅草寺の方面から外れてかっぱ橋にいる。台所の道具を商う店がいくつも並ぶ。それらの店のショウウインドウに陳列された道具の数々を眺めながら、セイセイはなるべくゆっくり歩いた。そして、交差点の街頭テレビの前に立ち止まった。

テレビには両国国技館が映っている。両国国技館の正門前の広場は蛇腹に組まれた蛇行式行列ができていて、そこに所狭しとウォーゼが並んでいる。張られたロープが小腸のように折り目正しくウォーゼ達を整列させた。上空のヘリコプターが黒蟻のように犇めくウォーゼをリポートしている。
行列の歩足は遅々として進まない。両国国技館に次々増えるウォーゼが、先に並んだウォーゼを圧迫する。
「押さないで下さい」拡声器の係員が終始注意している。押し合いになって列が乱れるのを警備員が押し戻す。正門前広場は紛々ともつれる群衆によって過密だ。だが、まだ塵芥のごとく人波は増える。ウォーゼだ。ウォーゼの群れだ。忌民と呼ばれて迫害されて定住の住居を持たず、生涯を漂泊して暮らす流浪のウォーゼがこれだけ集まる景色をセイセイ=ミクラジマは初めて見る。いや、違う。セイセイ=ミクラジマは今まで見ないようにしてきたのだ。毎年営まれるこの不愉快な光景を。

セイセイ=ミクラジマもまたこの場所に向かっている。いま遅々と進まない彼の歩足は浅草から隅田川の対岸の両国に向かっているのだ。何故か。死ぬためだ。彼らが明日に予定した死を迎え、彼らの屍が円滑に、衛生的に処理されるためだ。
行列のウォーゼ達、そしてセイセイ=ミクラジマは明日、両国国技館の中で死ぬのだ。

セイセイ=ミクラジマと、両国に集まる大行列のウォーゼ達は明日、40歳になる。ウォーゼは40歳で死ぬことが律法で決まっている。体の構造が40歳になった途端に死ぬようにできているのだ。だからウォーゼは40歳の誕生日を迎える日に指定された会場に集合して死ぬ。もし不慮の事態が発生して会場に来れないウォーゼがいた場合、そのウォーゼは文字通り何処なりの場所で野垂れ死ぬことになるので、社会に甚だの迷惑を掛けることになる。ウォーゼの良識として、種族の矜持を賭けて彼らは定められた日限に死亡会場へと向かうのだ。
街頭テレビは再び、ヘリコプターからの映像を写した。アタニ達が集まる酉の市の賑わいと隅田川を挟んで対岸の予定死するウォーゼの行列はこの時期の風物詩となっている。

明日、世界中の各会場で合計一千万人のウォーゼが死んで、その代わりに一千万人のウォーゼが生まれる。
だが、本当はすべてのウォーゼが死ぬ訳ではない。寿命を伸ばす方法がある。しかしその方法の実現は困難を極める。結局セイセイは明日死ぬ。全ての、明日40歳になるウォーゼが明日死ぬ。セイセイはかっぱ橋道具街をゆっくりと歩いた。
絶対神イルーヴァタールを信仰する信心深いウォーゼにとっては明日の死は慶びだ。死ぬことでイルーヴァタールの祝福を受ける事ができるのだ、と律法に書かれている。予定死によって召された命は新たな命としてその日のうちに生まれ変わる。律法の説く教義によれば死は再生である。だが、セイセイは信仰心が薄く、教義に関しては不信心だ。生命はウォーゼも獣畜も変わらない。死んだ獣畜は死ぬだけだ。生まれ変わらない。だから明日一千万人のウォーゼが死んで、明日一千万人のウォーゼが生まれたとしても、それは生まれ変わりなどではない、のではないか、とセイセイは思う。彼の歩足がますます遅くなる。

どうして俺はウォーゼなんだろう。
セイセイは血を呪った。生まれてから、明日という日が来ることは分かっていた。ウォーゼのすべてが、生まれてから死ぬ準備を始める。死を受け入れて生きる。だが、セイセイは予定死を明日に迎えた今日に至っても未だに運命を受け入れられない。ウォーゼ以外に生まれたかった。エント達の気楽な人生を見ろ。40歳など、彼らにとっては未だ幼児の年齢だ。彼らの寿命は800歳なのだ。あの憎たらしいアタニだって良かった。ヤツラの寿命は10年だが、ヤツラは機械の体で苦痛を感じない。俺はウォーゼだ。体組成の60%が水分だ。俺の中の水分が恐怖に震えている。俺はウォーゼだから、こんなにも鬱屈として死が怖いのだ。だがそれも違う。両国の行列を見ろ。死を恐れて尻込みをする者などいない。死を恐れるのは俺だけだ。セイセイは自らが情けない。他のウォーゼ達はとうから覚悟して、朴念と列に加わっている。セイセイのように意気地の無い者などいないのだ。セイセイが臆病であることは、彼の病理に原因があるかもしれなかった。彼は記憶喪失者で、35歳になるまでの記憶がない。彼は5年分の記憶しかない。もし彼が三十余年の記憶があれば、彼も予定死に対して大諦念の達観があったかもしれない。きっとあったのだ記憶を失う前の彼には。予定死に対する偉大な達観が。だが彼は彼が35年をかけて彼自身の死をどのように解釈して、受容していたのか知らない。彼の人生は五年前に突如覚知して始まって、言わば彼の精神は五歳だ。精神が少年なのだ。たったの五年で、死を受容するには短すぎるのであった。
「クソッタレ」
「世界が野獣に喰らわれますように」
セイセイは世界を呪った。
「金、金さえあれば」セイセイは思った。
実のところ5千万元を神の国のアイヌア達に支払うと、20年若返ることが出来るのだ。金のあるウォーゼは死ななくても良い。だが、忌まれて蔑まれ、賤職に身をやつすウォーゼ達が、40年の短い生涯で5千万元を稼ぐことなどできるものではない。不可能だ、多分。いや中にはいるのかもしれない、幸運のウォーゼが。だが少なくともセイセイにはできなかった。
ハレスの寿命も40年だ。だが彼女らは忌民と呼ばれて虐げられるウォーゼ共とは異なり、愛されることに長けていて、時折五千万元を稼いで、寿命を延ばす者もいる。巷間の噂ではそれを繰り返して、二百年の時を生きるウォーゼもいるらしい。
二百年!悠久とも云えるそんな長い時間を生きてみたかった。だが、セイセイが幾ら羨んでも詮無い。彼が明日に屍となることは逃れようもない予定調和だ。

彼はかっぱ橋の道具街をそぞろ歩いて、40センチの鉄フライパンを買った。フライパンのサイズは20センチが一人前調理、22センチが二人前、24センチが三人前・・・と直径が2センチ増えるごとに調理容量が一人前増える。40センチの大きさともなれば20人前の料理ができる。重量も相当ある。約5キロだ。深皿で幅広い料理ができる。セイセイは、それを、買った。
店番はハレスの女がしていた。
「そんなに大きなフライパンを何に使うの」ハレスの女が言った。
「明日、死ぬんだ」セイセイは言った。セイセイは賤職と蔑まれるが、誰にも出来ない特殊な仕事をしている。職業柄ずっと、こんなフライパンが欲しかった。だが、高いので我慢していた。もう我慢する必要はない。
「そうなの」女が言った。
代金を払うと店番のハレス女が福引券を三枚くれた。
「商店街の真ん中に抽選会場があるのよ」女が言った。それから女はフライパンを背負うためのバンドをくれた。
「幸運を」

大きなフライパンを背負って、セイセイは背筋に芯が一本通ったように毅然とした。これで、セイセイはほとんど無一文となった。もうあとは小銭しかない。財布の中の小銭が寂しくカラカラと鳴った。金が無くなれば死ぬ覚悟もできてきた。折角だから、福引をひいてそれが終わったら両国に向かう。もう亀の鈍足はお仕舞いだ。抽選会場に行く。福引を引く。景品が当たる?当たるかもしれない。これまで何ひとつ良いことは無かった、と思う。何せ覚知したのは五年前だ。良いも悪いも知らない。五年前に俺は突然東京に居て、市民手帳を確認して、あと五年で死ぬのだと知った。五年間、アタニ達に意地悪をされて、惨めでそれから死の恐怖に苛まれて暮らしてきた。良いことなんて何も無い。最後に、何ら景品くらい当たるだろう。自転車かな。自転車なら良い。颯爽と自転車に乗って両国に乗り込んでやるとも。テレビは困るな。持ち運びできないから。ポケットティッシュかな。俺の人生にはお似合いだ。サランラップとか、ポケットティッシュが。せめてポケットティッシュなら肌触りの良い高級品が良いな、俺は肌が弱いから。
そうして引いた福引は特賞が当たった。
「特賞が出たぞ!」派手に振り鐘が鳴った。
会場にいたアタニが騒いだ。誰もが羨む特賞を、生臭いアタニが取ったことで怒号がとんだ。だが、セイセイはもうアタニが怖くない。どうせ明日には死ぬのだ。
「特賞は何?」
「神様が何でも願いを叶えてくれる券」
「何でも?凄いじゃないか」
セイセイは係りのアタニからチケットを受け取った。
また怒号が響いた。だがセイセイに怒号は聞こえない。
「早く行ってくれ」福引の係りのアタニが迷惑そうに言った。
「福引券があと二枚あるんだ」セイセイは言った。
迷惑そうにアタニは二枚の福引券を受け取った。
セイセイは福引をまた引いた。特賞だ。更に会場が過熱した。怒号が止まなくなった。そしてセイセイが最後の一枚を引くと、最後の福引もまた、特賞なのであった。

「イカサマだ」アタニが騒いだ。
「福引は無効だ」
「臭いウォーゼを捕まえろ」
「警察に突き出せ」
「石を投げろ」

第四章「三つの願い」


アタニ達が収まらないので、セイセイは足早にその場を後にした。
セイセイは鉄フライパンを買って無一文になったが、神様が何でも願いを叶えてくれるチケットを三枚も手に入れた。
「なんという幸運!」
セイセイは笑った。明日死ぬ予定だった。それで死亡会場に向かうつもりだった。
だが、もう死なない。なんと言っても神様が何でも願いを叶えてくれるのだから。一枚もあれば、きっと死なずに済む。それが三枚もある。どんな願い事を叶えて貰おう。かつてない幸福感に満たされてセイセイは往来の真ん中を歩いた。アタニが疎ましく睨んだ。神様にアタニ達より偉くして貰おうか。王様になるのだ。
チケットには浅草寺に来るよう書かれている。浅草寺に神様達が来ているのだろうか。セイセイは歩きながら、願い事は何にしようと考えていた。
「ようく考えなくてはいけないぞ」とセイセイは言った。
まず寿命を延ばして貰うこと。それから金だ。なんといっても無一文だ。大金を得るのだ。それから。セイセイは考えた。賤しい仕事で日銭を稼いで、全国を漂泊しながら暮らしてきた。
そう思って、セイセイは立ち止まった。
往来の真ん中に立ち止まるウォーゼをアタニ達が舌打ちしながら避けた。
俺は、アタニ達から蔑まれている。これからも蔑まれ続ける一生に幸福などない。これではいけない。セイセイは再び歩き出して、改めて願い事について考えるのであった。

まずは寿命の問題だ。だが、寿命は金で買うことができる。それなら5千万元と言わず、100億元のお金を貰うことが出来れば、寿命は何度でも延ばせる。もう卑しい仕事をする必要もない。家だって買える。大きな家を買って召使を雇えば、嫌なアタニ達にも会わずに済む。そうだ、金だ。金さえあれば・・・!

と揚々歩いて再び停まる。
もし、その金が、盗まれてしまったら・・・!
盗まれてしまったら、また一文無しのウォーゼに逆戻りだぞ。金が盗まれない魔法の金庫が必要だ。強盗が来たって決して金が奪われないような。いやいや待てよ。強盗だって・・・?強盗が来たら殺されてしまうかもしれないじゃないか。それなら、俺のことを守ってくれるボディガードをお願いすれば・・・。
いや、それは金で雇えるものなのか。
と逡巡考えが止まないのであった。

「それもこれも俺が記憶喪失だからなのだ」セイセイは言った。
そうだ、記憶を取り戻すのはどうだろう?それは良い考えだ。そうすればきっと俺はもっとまっとうな人間になれるぞ。と、考えたものの。
果たして、それが何の得になるだろうか。
そうだ、俺は幸福を手に入れたのだから、記憶などもう無用だ。
と考えが逆戻りすると、歩く向きまで逆になる。とうとう往来の真ん中をぐるぐると彳亍(てきちょく)するのであった。
逍遥が過ぎていつの間にか浅草寺を過ぎてセイセイは鷲神社の前まで戻っていた。先ほどと変わらぬ盛況。アタニ商人が行列を作って、露店を見ている。熊手売りのアタニが声を掛けた。
「買うのかい」
「いや」とセイセイは言ったが何をためらう事があろうか。もうセイセイは誰にも遠慮しないウォーゼだ。財布の中の少ない小銭を出した。
「これで買える?」
アタニの商人は嫌な顔をした。
「熊手は買えないけど小さな宝船がふたつ買えるよ」
「それで良いよ」
宝船を彼はポケットに入れた。

第五章「機械生命体アタニ」


浅草寺に戻らなければならない。彼は踵を返した。
と、その矢先にセイセイはフェロモン薬に酩酊したアタニと肩がぶつかった。
「失礼」
足早に過ぎようとするセイセイをアタニが呼び止めた。「待てよ」
セイセイは酩酊した若いアタニ達に囲まれた。
「こいつ、ウォーゼだ」
「本当だ。どうしてこんな所にいる?」
「気味が悪いから、出てけ」
アタニ達は下卑た嘲笑を口端に浮かべてセイセイを愚弄した。セイセイは彼らを無視して先を急ごうとしたが、酩酊した彼らは執拗にセイセイを取り囲み解放してくれない。彼らの悪戯は過熱を帯びて、セイセイを囲んで方々から突き飛ばしたりと暴力性を帯びた。

酩酊した若いアタニ達に突き飛ばされながら、セイセイは浅草の路地裏に連れ込まれた。表通りの裏側で、通りに並ぶ各店舗の裏口しかない。
人気の無い場所に連れ込み。アタニ達はセイセイを蹂躙し、彼の所持品を簒奪するつもりなのだ。

老醜のウォーゼを迫害する事に人々は抵抗を感じない。無軌道の悪戯が過熱してセイセイから金銭を奪っても、その結果セイセイが死んでも、彼らの良心は痛まない。
セイセイは戦慄っとした。日頃ならいざ知らず、幸運のチケットを三枚も持っている。もし、万が一にもチケットが彼らに奪われたら・・・!そうなったらセイセイに残されたのは両国国技館の集団死亡しかない。
万にひとつの幸運を得て、俺は死なずに済もうとしている。にも関わらず、此奴らは悪戯で俺を不幸の奈落に落そうとする。

命の短いウォーゼ達には古来伝統慣習的な彼ら独自の道徳観があって、それは生命そのものに対する崇拝と信仰である。生命は尊い。生命が老いる事も老衰の果てに死ぬ事も尊い。それはウォーゼの生命に限らず、エントもアタニ、ハレスも含めて尊い。更には獣畜や魚鳥木の生命すら尊い。生きる事と死ぬ事、生命活動が流転する事が尊い。
ウォーゼ達は譬えるなら蜉蝣の、たかだか四十年、寸毫の人生に於いて子々孫々そのような道徳を受け継いでいる。が、そもそも寿命が一千年を超えて、人生の晩年期の数百年間は生きることに飽きて思考を停めて日光浴しかしなくなるエント族や、痛みや老衰、病苦というものに縁遠く死という概念があるのかすら不明瞭のアタニ達に、ウォーゼ達の生命信仰は全く理解されない。
セイセイは彼らが嫌いだ。生命の理が異なる彼らとは相容れない。

「俺は明日死ぬんだ」セイセイは言った。
酩酊したアタニ達は大笑いした。

路地裏でセイセイはアタニ達の輪に囲まれていた。酩酊が進んでアタニ達の嘲笑が止まない。
「明日と言わずに今死んで見せろ」
「臭いウォーゼめ」
黄色と黒の縞々のアタニが言って、周囲のアタニ達が爆笑した。
「汚水袋!」
黒いアタニが言った。
アタニのリーダーは青く光る外骨格を持っていて、彼はセイセイの目の前に来て、おもむろに彼を殴った。
アタニの強拳に殴られて、セイセイは倒れた。それを見てアタニ達は笑った。
セイセイは地辺に這って、胃液の逆流を堪えた。
彼は懐に幸運の切符を持っているが、彼はまだ幸運ではない。こんな事ならさっさと願いを叶えてもらいに行けば良かった。もし、彼が幸運のチケットを持っていることが彼らに知れたら、彼らは間違いなくセイセイからそれを奪う。セイセイの腹底から憤怒が沸いた。

「財布を出せ」
アタニのリーダーが言った。
「嫌だ」セイセイは言った。とんでも無いことだ。財布の中にはチケットが入っているというのに。セイセイは抵抗したが、酩酊のアタニ達はセイセイを抑えて懐から財布を抜いた。
「空っぽじゃないか」
アタニのリーダーは言った。それを聞いてアタニ達が笑った。
セイセイは彼がチケットに気づかない事を心底祈った。
「何だ、これは」
アタニのリーダーがチケットを見つけた。

セイセイは自分を抑えるアタニ達から逃れて、懐の薬瓶の粉末を、アタニのリーダーに撒いた。周囲を粉末の異臭が満たした。

「臭い!」
リーダーが呻いた。アタニの触覚は匂いに敏感なのだ。
周囲のアタニ達はリーダーの狼狽を見て笑った。彼らはひとの痛みに鈍感なのだ。自らが窮地に立たない限り、彼らの感受性は非常に享楽的だ。
臭気で触覚を抑えていたリーダーが短い悲鳴をあげた。
それから、リーダーの外骨格がみるみるひび割れた。その時、周りにいたアタニ達はひび割れる外骨格に得体の知れない眼球紋様が浮かび上がるのを見た。
「ホムンクルス!」
リーダーが戦慄した。
外骨格がホムンクルスと呼ばれた眼球紋様に侵食されていく。
それからセイセイはクチクラの硬化した大きな蛹蛆を放るとそれらは忽ち羽化して、巨大な赤子の如き黒い蝿となった。
その巨蝿が五、六匹もアタニの身体を溶解液で舐っている。
「わあああ」
リーダーのアタニは悲鳴をあげた。
それを見てアタニ達は享楽的に爆笑した。
リーダーの頭部と胸部をつなぐ関節が溶けて、弱まった接合が千切れて、首がぶつりと落ちた。
また、アタニ達は笑った。彼らは何もかもが楽しくて仕方ないのだ。
首が無くなり制御を失ったリーダーの身体が、アタニ達に突進した。リーダーの肉体に追われて、アタニ達は笑いながら退散した。

セイセイは驚いた。首を無くした体が自分の財布を持ったまま走り出してしまった。
「大変だ」
財布を失くしたら彼は破滅するのだ。急いで彼は首無しの体を追いかけた。アタニは身体能力が頑健で足が速い。必死と追いかけるセイセイの息が切れる。それでも頭無しの身体が狭い路地を真っすぐ走れず建物の壁に幾度もぶつかるので、次第に追いつく。もう彼の財布まであと一歩だ。だが、余りに身体が元気よく走り、すぐ先は鉄道の線路であった。折り悪く汽笛を鳴らしながら鉄道が近付いている。このままでは首無しの身体が無軌道に走って、鉄道に突進してしまう。セイセイは体当たりして身体を停めた。地面に倒れた身体が無暗と暴れる。まだ、財布を持っている。放り投げられたら大変だ。彼は、必死に腕にしがみつき、肉体から財布を取り戻した。
肉体は地面の上で暴れ続けたが、やおら起き上がって走り出し、線路に突進し走って来た鉄道の正面に立った。鉄道が警笛を長く鳴らしてアタニの身体はバラバラに砕けた。
間一髪、彼は自らの財布を取り戻した。中を確認する。チケットも無事だ。

セイセイは安堵した。胃腑の奥底から深い、安堵の溜息を吐いた。
そのセイセイを背後から見つめている気配がした。
畏怖の野獣。何処からともなく現れて、エントだろうとアタニだろうと喰らう野獣。そんな野獣がいる、と彼らの都市ではまことしやかに囁かれる。野獣は音もなく忍び寄り、背後から、彼らを襲う。
セイセイは背後を振り向いた。
路地以外、何も無かった。

セイセイが、ホムンクルスと放り出した彼の荷物を取りに戻ると、幸いに荷物は無事に残されていた。ホムンクルス達も元気な様子だ。路上に転がる荷物の傍らにアタニのリーダーの首が転がっている。
「ホムンクルス使いめ」リーダーの首が言った。「野獣に食われろ!」

セイセイ=ミクラジマはホムンクルス使いである。
ホムンクルスは人工生命で動く疑似生物だ。ホムンクルスを知らない者からは古いフォークロアに語られるような魔法生命を宿して動くゴーレムと混同されるが、両者は異なるものだ。伝説の中のゴーレムは「魔法力のようもの」を原動力にして、無機体がいかにも生命体のように動く、という御伽噺だ。

ホムンクルスは実在する。ホムンクルス使いが生み出す人造の生物である。人工生命による生命活動が営まれており、彼らには誕生し、成長して、老衰の果てに死ぬという生物的過程がある。先のセイセイが放った眼球紋様の扁平な生物や、赤子の如き黒蝿のような、この世には存在しない生物こそ、セイセイが作り出したホムンクルスである。

ホムンクルス使いはウォーゼに許された職業のひとつだ。ウォーゼの中でも才能に秀でた者しか、ホムンクルスを生み出すことは出来ない。ホムンクルス使いはホムンクルスを生み出し、仮説の牧場で育てる。餌を与えて必要な世話を行う。時に共に連れ歩いて仕事に使う。ホムンクルスは長生きしない。数分、数時間、あるいは数日で死ぬ。仕事が終わると牧場を片付けてセイセイはまた日雇いの仕事を探して旅に出る。

世界人口の九割を占めるエント達は百二十年の義務教育を経て、職に就くときはどちらかと言えば頭脳労働者に偏重する。そして一般的な傾向として、どちらかと言えば肉体労働を嫌うので、そのような賎職、肉体を酷使する仕事中はウォーゼ達の役務となっていた。特にウォーゼの中でもホムンクルス使い達は、様々の種類のホムンクルスを使役して土木工事から精巧で大規模な建造物の建設、耕作、果実の収穫、漁業、林業などあらゆる肉体労働を担った。優れた労働力であったが使役するホムンクルスが不気味で、ウォーゼの中でも特に嫌われる。

眼球紋様の扁平なホムンクルスは床面の汚れを落とす清掃用のホムンクルスとして使役される。餌粉に対して貪欲で餌粉が撒かれた床は強固な吸引力で破壊してしまう。赤子の如き黒蝿は蛹の状態で長期間休眠できる。外気に触れると直ぐに羽化して成虫となる。光沢効果のある溶解液を口吻から出すことができる。蛹の状態で何年も生きているが羽化すると数十分で死ぬ。これらを組み合わせることで、建物の床面はピカピカになる。今日は清掃の仕事をしていたので、清掃用の二種のホムンクルスを持ち歩いていたのである。
ホムンクルスは危険なものだ。簡単に人体を壊す。アタニとは言え、人間にホムンクルスを使うことにセイセイは抵抗を感じたが、そうしなければ彼らはセイセイを死に導くのだ。アタニに良心を働かせてはいけない。

「助けてくれ」アタニの首が喋った。眼球紋様のホムンクルスがアタニの首を齧っている。
「食べられちゃうよ」
「死んじまえ」セイセイは言った。自業自得だ。アタニ達の軽率な暴力によって、死んでいたのはセイセイであったかもしれなかった。
「食べられるのは嫌だ。アタニのリーダーは懇願した。
「助けてくれるなら何でもする」
「何でも?」
「何でもだ!」
アタニのリーダーがそう言ったのでセイセイは眼球紋様の扁平のホムンクルスをコートの内側に回収した。赤子のような黒蝿はまだアタニの首を舐ろうと飛び回っていたが、彼らの命は刻刻と弱まっていた、あと数分で地に堕ちて死ぬ。
セイセイは黒蝿を手の平で追い払った。
「ああ、助かった、ありがとうありがとう」
アタニの首は言った。
「俺の子分になれ」
セイセイは言った。言葉が強い。今までの彼ではない。幸運のチケットを手に入れたこと。そして、そのチケットを取り戻したことが、彼を変えたのかもしれない。もう彼は寿命の到達に怯えるウォーゼでは無いのだ。もっと、何か別の者に変わったのだ、と彼は思った。
「誰がウォーゼなんかの」
アタニの首が言った。セイセイが首を落とすと黒蝿が首に群がった。
「食べられるのは嫌だ」
「子分になれ」
セイセイはまた蛹蛆を撒いて巨大な赤子の如き黒蝿を増やした。羽化したばかりの活きの良い黒蝿がアタニを舐った。
「助けて!助けて!」
アタニは言ったが、セイセイは助けなかった。黒蝿達はすぐに死ぬので、セイセイはアタニを苦しめるために数分ごとに新たな黒蝿を投入しなければならなかった。アタニは黒蝿の唾液によって外装の腐食が増した。黒蠅の唾液はリノリウムの床材の光沢を増すことができるが、アタニ達のクチクラ質には刺激が強過ぎるのだ。また更に数分が過ぎるとアタニの外骨格は完全に溶けて、アタニは剥き出しの筋繊維と神経系を曝露した。
「もうアタニじゃない」
セイセイはアタニの首の前に鏡を掲げて惨状を見せた。アタニが見たものはアタニ達が誇るクチクラの美しい外骨格ではない。ウォーゼのように醜い筋繊維が顕になった自らの姿であった。アタニのリーダーはもう自分がアタニの資格を失ったことを悟った。
「通りに放り出してやる」
セイセイは言った。残酷な提案だった。通りにいるアタニ達が、汚物となった自分を如何に処理するのか想像に難くない。自らに突き刺さるであろうアタニ達の冷ややかな視線。彼らは自分をアタニとして認めない。
「殺してくれ」
アタニだったものが言った。アタニにはアタニの矜恃がある。美しい外骨格。それがアタニの矜恃である。だが、彼はそれを無くした。もう、彼はもう生きていく自信がない。

セイセイはまたホムンクルスを出した。空洞を持つムカデ。彼らは空洞の中にあらゆるものを収納出来る。鞄の代わりになるので便利だ。セイセイは空洞を持つムカデにアタニの頭を噛ませた。神経節が繋がってムカデ身体はアタニの思う通りに動くようになった。それから、床面の補修材を出して、アタニの顔に貼り付けた。それが、外骨格のように見えなくもない。ムカデ体を得たことで外骨格が遠からず修復されるだろう。それまでの応急手当であった。アタニだった者はセイセイに率直に感謝申し上げた。
「子分になる」
ムカデ体の、アタニだったものは言った。

第六章「樹人エント」


シャモジ、とアタニは名乗った。出身地は広島県の宮島である。名はシャモジで姓はミヤジマ。それが、アタニの生首の名前であった。
新世界に於いて、個々の名前は日本国の言語辞典から命名される。音が重視されるため、名前の意味は不明瞭である事が多い。
シャモジ=ミヤジマのシャモジは飯炊きの杓文字である事は明白であるが、そのような意味を想起出来る名前は少ない。
セイセイの場合は言語辞典中の「生成」「精製」「清々」「西征」などのいづれかからの命名であろうかと推測されるが、一体どのセイセイが彼の名前の由来であるのか、それはもう彼にも分からないのであった。

セイセイはシャモジ=ミヤジマの首を頭の上に乗せた。同化したムカデ体がマフラーのようにセイセイに巻きついた。
フードを被ってしまえば不格好な出で立ちであるが、セイセイの顔が隠れて背高のアタニのように見えなくもない。これなら不逞のアタニに絡まれる事も無いだろう。セイセイは一刻も早く浅草寺に行きたいのだ。これ以上、頭が空洞のアタニ達の、俗悪な悪ふざけに付き合うのは御免だ。

二人は鷲神社の酉の市から離れて浅草寺に向かう。裏道を歩いて浅草寺の裏手に着くとそこは浅草の花街の中である。料亭と芸者小屋が並んでいる。ここも観光地であるので、アタニやエントがそぞろ歩く。
「ゲイシャガールだ」
シャモジが言った。
花街を歩く花魁は美しいハレスの職業だった。若い娘嬢達が白塗りの化粧をしてキモノを着ている。ハレス達の外見はウォーゼ男にやや似ている。だが、性質は全く似ていない。柔らかいし、良い匂いがする。
「ウォーゼ男は嫌いだが、ハレス女は好きだ。特にゲイシャガールは大好きだ」
シャモジが言った。
花街の姐さんがセイセイ達に手を振った。
「手招きされてるぜ。シャモジが言った。
「寄らないよ」セイセイが言った。

「良い娘嬢がいるよ」
黒頭巾のウォーゼが声を掛けた。
「どんな?」シャモジが言った。
「寄らないよ」セイセイが言った。
「アンタ頭がふたつあるね。しかもアタニの頭とウォーゼの頭だ」黒頭巾のウォーゼが言った。
「クレイジーだろう?」シャモジが言った。
シャモジとセイセイが娘嬢の写真を数葉見ると、そのゲイシャ達は大層な美人であった。どの写真にも名前が書いてある。とりわけ美人の嬢の名はマキジャク。
「ワオ、本当に美人だ」
シャモジは言った。
その時、遊郭の二階から半裸の娘嬢が顔を出した。
「ちょっと」
何やら困った顔をしている。娘嬢の顔は平素であって、どの写真の顔とも異なる。
「マキジャク」と、セイセイが言った。
「誰が?全然違う」シャモジが言った。
「マキジャク」と黒頭巾のウォーゼが娘嬢の名前を呼んだ。
「写真と全然違うじゃないか」シャモジが言った。

客の様子がおかしいとゲイシャガールのマキジャクが言うので、黒頭巾は屋敷内に入った。シャモジとセイセイも同行した。遊郭の寝室が森になっていた。香炉の匂いなのか甘い香りが部屋の中に充満している。
「なんだ」
黒頭巾のウォーゼが言った。

床の中で寝ていた客が大樹になってしまったのだと言う。大樹の中心にエントが見えるが、声を掛けても反応しない。
「お客さん、困るよ」
黒頭巾が言ったが、エントの返事は無い。
「死んでるんじゃないか」
「いや、眠っているように見えなくも、」
エント達の生命活動は希薄だ。樹人と呼ばれるように、彼らの体組成は樹木に近い。
年老いたエントは動かなくなるので、そうなれば木像なのか、老人エントなのか見分ける事は難しい。だが、エントから枝が伸びて大樹になる等の話は誰も聞いた事がない。まさしく奇景である。
「枝、ではないな」
セイセイは言った。
「枝であれば葉が付くだろう?」
「枝じゃなければ何なんだい?」シャモジが言った。
「根だね。これは気根だよ」
確か、植物には気根と呼ばれる木の幹から直接伸びる根を持つものがいる。下方に伸びた気根は地面に潜り、幹を支える支柱根になる。マングローブなど、熱帯の海岸に生える樹木には気根を持つものも多い。
エントの体から幾つもの気根が伸びてそれが部屋を満たしている。

「旦那のホムンクルスで何とかならないの?」シャモジが言った。
「ならないな」セイセイは言った。
今日連れているホムンクルスは床面磨きのホムンクルスなので、木を伐採するようなホムンクルスはいない。そもそも伐採して良いのかどうかも分からない。
「万能では無いんだよ」セイセイは言った。
よく言う、とシャモジは思った。ホムンクルス使いは命をいくらでも生み出す事ができる。ホムンクルスとは、擬似生命とは一体何だ。他の生物とは何が違う?まるで神の、いや悪魔の御業だ。気味の悪い異常な能力だ。だからウォーゼの中で特にホムンクルス使いは嫌われるのだ。
「医者を呼んだ方が良いんじゃないの?」
「いや区役所の農林管理課だろう?」
「台東区に農林管理課なんてあるのかなあ」
エントでない彼らにはエントの奇病に対してどうして良いのか分からない。エント達はあらゆる物事に無頓着で、朴訥として、欲求や欲望、動物的活力というものに欠けるので、もしかしたら自ら等の病理についても興味は無いのかもしれない。
医者か、農林管理課のどちらを呼ぶのか迷った結果、彼らは警察を呼んだ。
「あれ、私は?」
警察が来る前にエントが目を覚ました。
「お客さん、困るよ」
黒頭巾が言った。エントにも状況は理解できないようだった。
「この森は」
森が自らの身体から発生していることをエントは発見した。
「警察を呼んだよ」黒頭巾は言った。
「警察は困る」エントは言った。慌てて退店しようとしたが、樹林の繁茂によって身動きが取れないのであった。
「困った」エントは言った。そう言いながら、また眠りにつこうとしている。
「寝るな」黒頭巾が言ったが、結局エントはまた眠ってしまった。
「どういう事?」マキジャクが呆れた。
中心にいるエントには頸動脈上に白い花のようなものが咲いていた。
「花だ」
エントは樹人だ。体組成は植物に近い。だからといってエントが樹木になる事も、花が咲く事も聞いた事がない。
総苞に包まれて中に白い群花が咲く。頸動脈ばかりでない。数箇所に同じ花が咲いた。甘い香りが強くなる。
セイセイは花に触った。花から花粉が舞った。
「花粉だ」黒頭巾は手を払った。

花が落花した。
その途端にあれだけ大きく伸びた気根もエントから全て落ちて、それからエントは目を覚ました。
「あんたに花が咲いていたよ」シャモジが言った。
警察が来て、寝室の惨状を目にした。警官らもエント族であった。
「これは何だ」
「このエントから根が伸びて、延びたと思ったら自然と落ちたんだ」
「そんな話、聞いたこともない」
二人の警官は小声で話し合った。
「そこのウォーゼ」
警官が不遜にセイセイに声を掛けた。
「お前が犯人だ」
「そんな馬鹿な」セイセイは言った。
「お前が見るからに怪しい」
確かにセイセイの出で立ちは怪しい。頭にアタニが乗っている。
「身分証を見せろ」セイセイは身分証を見せた。
「明日死ぬ奴じゃないか」警官は小声で話し合った。
「犯人が分かった」
「犯人?」
「お前だ」
明日死ぬ事で自暴自棄になったウォーゼが遊女を人質に遊郭に立て篭もり、騒乱を起こしたのだ、と警官は推理した。であるからそのウォーゼを捕まえて両国国技館に引き渡せば事件は解決するのだと、警官は説明した。
「いや、待ってくれ」セイセイは言った。「俺は明日死ぬ予定だが、死なずに済むんだ」
セイセイは福引で神様が願い事を聞いてくれる話をした。すぐ先の浅草寺に着きさえすれば、どんな願い事がでも叶うのだ。
「チケットは没収する」
警官は言った。とんでもない横暴だ。国家権力による簒奪だ。だが、それがウォーゼの受ける差別なのだ。
その時、寝所が白煙に包まれた。
「火事よ」
誰かが言った。エント警官は慌てて外に飛び出した。彼ら樹人は火が恐ろしいのだ。
「大変だ、我々も逃げないと」セイセイは言った。
「そう、逃げないと。裏口からね」マキジャクが言った。白煙の正体はマキジャクが仕込んだ煙玉であった。セイセイとシャモジ。それからマキジャクは裏口から逃げ出した。「私も連れて行ってくれ」エントが加わった。
「浅草寺まで!」

第七章「浅草寺宝蔵門仁王像」


エント警官が追ってきた。無線で応援を要請している。「犯人が逃亡中!」
何処からともなく花街の其処此処から警官が湧き出る。「御用だ御用だ」
「どうしてこんなに警官がいる?」シャモジが言った。
「暇なのよ、奴ら」マキジャクが言った。エント警官は暇を持て余して遊郭に入り浸っている。エント警官は他のエントと違って威張るのでゲイシャガールから嫌われている。
大勢の警官に追われながらも一行は浅草寺の敷地に入った。
「残念無念」エント警官たちは浅草寺の敷地に入れない。セイセイを恨めしく睨んでバラバラと解散した。
息切れしながら一行はようやく安堵した。
「どうしてアンタまで逃げたんだ」シャモジが言った。
「色々あるのよ」マキジャクが言った。
「あなたは?」マキジャクはエントに尋ねた。
「警察に追われてるんだ」エントは言った。
「どうして?」
「殺人犯だと思われている」
「それは本当なの?」
「嘘だ」
先程のエント警官の杜撰な捜査を見る限り、多くの冤罪事件が発生しているに違いない。犯人として処罰される者の中に本物の犯人がいるかどうかも疑わしい。いや、本当に事件があったのかどうかすら疑わしい。とセイセイは思った。表情から察するにシャモジもマキジャクも同じ事を考えている。
エント警官の欺瞞に巻き込まれた不憫なエントなのだ。少し生真面目過ぎるのかもしれない。
「殺人犯と疑われてる私が同行するのは怖いかもしれないけれど、どうか信じて欲しい」とイス=アオキガハラと名乗るエントは言った。生真面目なのだ、不憫な彼は。
「エント達は120年も義務教育を受けるのに、どうしてエント警察はあんなにダラしないのかしら」
マキジャクは言った。
「高等教育を含めればエント達は実に200年を学業に費やす。知識は膨大にあるんだ。だが、私たちは物事を深く考える事には慣れていない。例えばあんなエント警察でも設計図を見ずにテレビを作る事はできる。設計図は頭に入っているし、半導体を作ること、基盤を組むこと、樹脂を合成して成形加工する事まで私たちは知っている。テレビはおろか、私たちは宇宙船だって作る事ができる。だが、どのタイミングでテレビを作り、宇宙船を作るのか考える事が出来ないだけなんだ」
イスの年齢は400歳との事だ。寿命が1200年と定められている彼は、あと800年も生きるのだ。

セイセイの持つチケットには浅草寺の五重塔に来るように書いてあった。本殿を回って宝蔵門をくぐる事になるが、宝蔵門が閉まっている。
「どうして?」
「夜だからた」仁王像が言った。門の左右にそれぞれ仁王像が立っている。彼らが門番の役目もしているのだ。
「急いでるんだ」セイセイが言った。
「今日はもう店じまいだよ」吽形の仁王が言った。
「いつ開く?」
「明日だ」
セイセイは困った。明日まで待ったら死んでしまう!セイセイは仁王像たちに懇願した。
「どうしてウォーゼの言うことを聞かなければいけないんだ」仁王像の機嫌が悪い。彼らはエントなので、ウォーゼが嫌いなのだ。

「お願いよ」マキジャクが言った。
「うーん」仁王像達が言った。彼らはエントなのでウォーゼ女が好きだ。
「何か面白いものをくれたら考えてあげる」仁王像は言った。
「何かあるかしら?」
着の身着のまま遊郭を出てきてしまったので持ち合わせが何も無い。
「何も」シャモジが言った。彼は荷物どころか身体も無い。彼の身体はバラバラになってしまった。

「エントはどんなものが好きなの?」
マキジャクはイスに聞いた。
「私たちはキラキラ光るものが好きだ」
「光るもの?ガラス玉とか?何か持ってない?」
「私のイヤリングはどうだろう」イスが言った。
「いいの?」セイセイが言った。
「あなたの話に興味あるから」イスが言った。神様が願いを叶えてくれることに皆が興味があるのだ。此処を通り抜ければ、神様がいる、に違いない。
「これも良いけど一人分だからなあ」仁王像のエントが言った。
「フライパンは?」セイセイは背中に背負った鉄フライパンを見せた。
「ウォーゼはあっちに行け!」阿形のエントが言った。セイセイとは話をしたく無いようだった。
「宝船があるけれど、どう思う?」
セイセイはこっそりとイスに尋ねた。
「酉の市の?光ってる?」
セイセイはイスに宝船を見せた。
「素晴らしいよ!」イスは言って仁王像に見せた。
「素晴らしい造形だ」阿形のエントが言った。
「素晴らしい造形だ」吽形のエントが言った。
「俺たちもう帰るから勝手に通って良いよ」阿形のエントが言って、二体のエントは帰ってしまった。

セイセイ達は宝蔵門を通り五重塔に向かった。五重塔にはエント僧侶達が夜業をしていた。
「勝手に入って来ちゃ困るなあ」
エント僧侶のひとりが言った。
「仁王像達に入れて貰ったんですよ」イスが言った。
「彼らは良い加減で困るなあ」エント僧侶が言った。
「願い事を叶えて貰えるチケットを持ってきた」セイセイが言った。
「今日はもう店仕舞いだよ」
「明日じゃ間に合わないんです」
「仕方ないなあ、神様に聞いてみるけど」
僧侶は電話を掛けてアイヌアに尋ねた。
「良いみたいだよ、その代わりチケットは一枚無くなる」
アイヌアを時間外に呼び出す事で願い事のひとつが消えるらしい。
「分かった」セイセイは言った。願い事が叶わなければ明日に死ぬのだ。
「それから今すぐ神の国に来ること」
「アイヌアが此処にいるんじゃないの?」
「神様がいるのは神の国だよ」
「神の国になんて行けない。行き方も知らない」
エント僧侶はまた電話を掛けた。
「迎えを寄越しても良いけれど、その代わりチケットは一枚無くなる」
「分ったが、そうするとチケットはもう残り一枚しかなくなる。他に難題を押し付けられたら、結局願い事は叶わない」セイセイは言った。
「大丈夫だ」エント僧侶は言った。
「行けば願い事は叶えられる」
ヘリコプターが降りてきてセイセイを出迎えた。
「四人とも乗れる?」ヘリコプターが起こす強風と、プロペラの回る轟音の中で、セイセイはパイロットに聞いた。
「いいよ」パイロットは言った。
それで四人は願い事を叶えてくれるアイヌアの元に着いた。
「神の国には初めて来る」シャモジが言った。
「もちろん、誰も来た事なんてないさ」セイセイが言った。
「アイヌアに会えるかな」
「初めて会う」
「みんなそうだよ」セイセイが言った。
—----------

第八章「神族アイヌア」


四人の前にアイヌアが現れた。
「願い事を叶えてほしいのは誰?」
「俺だ」セイセイが言った。
「セイセイじゃないか」アイヌアが言った。
「知り合い?」
「いや?」
アイヌアが電話を掛けている。
「セイセイが戻って来たぞ」
「やっぱり知り合いじゃないか」とシャモジに言われたが、セイセイには覚えがない。
「早く捕まえろ」
「あまり良い知り合いじゃないみたい」
他のアイヌアが現れてセイセイ達を取り囲んだ。入国管理局のアイヌア達だ。神の国に仇なす危険人物の入国を取り締まっている。
「大人しくしろ」
「願い事を叶えて貰いに来たんだ」
「お前の望みは何だ、邪悪なセイセイ」
「誰が邪悪か」
アイヌア達がセイセイを捕まえようとするので、セイセイは鉄フライパンを振り回して応戦した。
「どうなってるの?」
「さっぱりだ」

増え続けるアイヌアを制するため、セイセイは黒蠅の蛆蛹を撒いた。数匹の赤子の如き黒蠅がアイヌア達に向かって飛んだ。
魚卵を口に含んで吹き出すと、それは巨人の手足の生えた魚になった。巨人の手足を持つ魚が、アイヌア達を踏み潰す。
「うわ、気持ち悪い」
「邪悪だ」
「悪魔!」
アイヌア達は口々にセイセイを非難した。
「チケットがある!願い事を叶えてくれ」
「お前はダメだ」アイヌアのひとりが言った。
「何故だ」
「お前は罪人だからだ」
—-------

第九章「神の国」


セイセイは焚き火に巨大な鉄フライパンをくべて、20人分の肉を焼いている。その周りをアイヌアが囲んで肉の焼けるのを待っている。牛肉のサーロインが10kg用意された。焚き火の火力は十分で、熱せられた鉄フライパンは厚く切られたステーキを内側からじっくり熱するのであった。
「野菜も食べないと」アイヌアが言った。

ひとしきりの肉が焼けて塩胡椒とハーブで調味をすると、アイヌアとセイセイ達は肉を食べ始めた。牛肉の表面は脂によってカリガリと香ばしく、中はレアだ。赤い断面から肉汁が滴り落ちた。焚き火で焼いた肉は煙で燻されて風味が良くなる。厚めの肉の重厚感と燻煙の風味によってステーキの野趣は十分だ。極上ステーキをひと口を頬張り、至福に浸る。柔らかな肉を噛み締める。肉の繊維から旨味が滲み出て、口中を満たすのだ。肉の旨みと塩とハーブの旨味は相乗して、馥郁とした幸福感が多幸の暴風と化して神経を駆け巡る。アイヌア達は歓喜の声をあげて、咀嚼を止める事が出来ないのであった。火を囲んだ脂と旨みの狂宴である。

シャモジとイスは肉を食べないので、それを遠くで見ている。
「それではオマエは記憶喪失だと?」
入国管理局取締課第一班の班長、ヒトマド・スガモは尋ねた。
「そうだ」セイセイは言った。

セイセイは以前に、罪を犯した廉(かど)で神の国を追放された「アイヌア」だ、とヒトマドは言った。
「本当に?信じられない」とセイセイは言った。
「本当に?信じられない」とシャモジは言った。
「本当に?信じられない」とマキジャクは言った。

神に叛く者は神の国を追われるのだ。失楽園である。セイセイはアイヌアであるが、神の国に入る事は出来ない。
「どんな罪を犯したの?」マキジャクが訊いた。
「政治犯だね。彼は神の国の転覆を企んだ」
「それで?」
「月の刑務所に送られた」
「月!」
「だが、刑務所を脱獄した彼は長らく月面の地下組織で活動して、レジスタンスの副リーダーにまでなったのだ。そして、世界政府に対してテロルを企て、月から地球に密航。そこまでの足取りは世界政府も掴んでいたが、五年前、地球に来た直後に突然行方知れずとなった。以来、セイセイは指名手配犯だ」
「そうなの?」
「そんな記憶ある?」
「いや全然、人違いではなくて?」
ヒトマドはセイセイの手配書を見せた。
「あっ!セイセイ」
間違いなくセイセイである。
「指名手配犯が神の国に来ちゃったわ!」
「逃げた方が良いかな」セイセイはそわそわと落ち着きが無くなった。
「お尻がムズムズするよ」
「いや、大丈夫」ヒトマドが言った。「警察もセイセイの知り合いだから」
指名手配犯になっていてもセイセイは知人が多く、随所に融通が利くらしい。アイヌア達はお互いに100年以上生きているため、全員が幼馴染とか、ご近所とか、親戚のような馴染みが形成されていて、警察機能は幾分麻痺をしていると、ヒトマドは説明するのであった。
「我々はそもそも滅多なことでは死なないし、生活にも困っていない」ため、犯罪に対して頓着がない。世界の富の90パーセントがアイヌア達が保有している。誰かアイヌアが大金を盗まれたとして、他アイヌア達から盗まれた大金以上の義援金が集まる。
そんな状態では犯罪など滅多に起こらないものだよ、とヒトマド班長は言うのである。神の国に暮らす神々は鷹揚なのだ。下界に暮らす女ハレスのマキジャクはそこにユートピアを見るのだが、何故セイセイはその恵まれた楽園を捨てて国家転覆などを企んだのだろうか。

「世界政府がそんなに嫌いなの?」
「覚えが無いなあ」
「具体的には人口統制局の局長、シシクシロの暗殺だ」
「シシクシロ?誰?」
「暗殺までしようとした人を覚えてないの?」
「欠片も覚えてない。写真とかある?」
「ええと、」とヒトマドはモバイル端末でシシクシロの写真を探した。古いニュースにシシクシロ氏が写っている。顎の太い頑健そうな大男だ。
「五年前だね、シシクシロ氏が人口統制局の局長に就任」
「覚えてないなあ」
「セイセイも人口統制局で働いていたので、二人は上官と部下の関係に当たる筈だ」
「職場の上司を暗殺しようと?」
「当時から国の要職者だったから国家反逆罪が適用された」
彼がアイヌアで、月面に追放された政治犯?暗殺テロルの計画者?信じられない話であった。
「記憶喪失という事であれば、俺の一存でチケットを使うことを許可しなくも無い。何を願うんだ」
「俺は明日、死ぬことになっている」
「本当?」
ヒトマド・スガモはセイセイの身分証を確認した。
「出鱈目だ。月から密航する時にでも作った偽造品だろう」
「と言うと?」
「お前はアイヌアだから、寿命なんて設定されていないよ」ヒトマドは言った。
「じゃあ明日になっても死なない?」
「もちろん。そもそもお前が何年生きてるかなんて、俺にもわからない。少なくとも俺より年上だよ。」
「あなたは何歳なの?」マキジャクが言った。
「140歳だ」ヒトマドは言った。
「それより年上?」
セイセイの気持ちは複雑だ。知らない話ばかり出てくる。
「じゃあ金だ。一生遊んでも使い切れない程の金が欲しい」
「そういうのは無理だ」ヒトマドは言った。
「この企画に金銭の予算は無いからね。ゼロはどう転がってもゼロだ」
「無から命を生み出す事はできるのに?」
「ホムンクルスのこと?」
「そう」
「ホムンクルス使い達は特別なんだ。お前もシシクシロも。人工統制局の奴らは皆、異常だ」
「人口統制局の人は皆んな、ホムンクルス使い?」
「人口統制局の出生に関わる課の奴らは殆どね」とヒトマドは言った。その物言いに少しく冷笑を帯びる。あまり仲の良い部署では無いらしい。
「でも、お前が一文無しで可哀想だから少しお金を貸してあげるよ」
ヒトマドはセイセイに10万元を渡した。
「では俺をアタニよりも偉くしてくれ」
「それも駄目。お前は追放された身だから、刑罰の特赦は出来ない。神の国を追放されたお前はもうアイヌアを名乗ることは出来ない。ウォーゼの身分で生きるしかないし、ウォーゼが迫害される制度を変えることは出来ない」
「それなら俺の記憶を戻してくれ」
「駄目だ。お前は思想犯だから、お前の存在自体が危険視されている」
セイセイは困った。明日死ぬことは無くなった。それは幸いだ。だが考えていた願い事は全て拒否された。
「このチケットは他人に譲渡できる?」チケットの転売が出来ればまとまった金銭が得られるかもしれない。だが、ヒトマドは言った。
「不可だ。譲渡を認めると、このチケットを奪い合って戦争が起きる」
アイヌアが肉を次々運んで来るので、セイセイは質問しながら次々肉を焼かねばならなかった。
「野菜も食べなきゃ」アイヌアが言った。
「こんなに柔らかいステーキは初めて食べるわ。脂が乗っていて最高ね」マキジャクが言った。

離れて見ていたシャモジにはアタニ用の栄養ブロックがひとつ、イスにはエント用の栄養ドリンクが一本渡された。
「地上にあるものと変わらないな」ムカデ足を使って器用に開封しながらシャモジが言った。
「神の国にはアタニもエントもいないからね。これは地上にあるものと同じものだよ」
イスが言った。
「俺たちの扱いが冷た過ぎやしないか?」
「ここは神の国だから仕方ないよ」
イスは言った。

「この鉄フライパンは良いモノだね」ヒトマドが言った。
「かっぱ橋で買った」
「なるほど」

「月に行こうかな」セイセイは言った。地上の願いは叶わない。月に行けば、自分の記憶を取り戻すこともあるかもしれない。
「それなら出来る」ヒトマドは言った。
「彼らを連れて行っても?」セイセイは尋ねた。
「ううん、、、」とヒトマドは煮え切らない。「アタニとハレスのお嬢さんは問題ない、だがあのエントは駄目だ」と遠くにいるイスを指さした。
「どうして?」
「エントを地球の外に出してはいけない、と律法にある。それにも関わらず、先々月にエントがひとりエントが地球外逃亡をして、月に潜伏しているらしい。お陰で入国管理局ではエントの逃亡に対して神経過敏なんだ。」
ヒトマドは言った。

「どうしたの?」
何とかイスも月に連れて行きたいのだと懇願するセイセイと、それを断固として断るヒトマドのやりとりに、通りかかった男が声を掛けた。
「これは閣下」ヒトマドが驚いて敬礼した。
人口統制局局長のシシクシロ=シンジュクであった。
先程の自身の身の上を聞いていたセイセイは咄嗟に身を隠した。ヒトマドもまた、彼を隠した。
何せ、セイセイはシシクシロの暗殺計画を立てた張本人である。記憶を無くしたとはいえ、暗殺しようとした元上司と顔を会わせるのは気不味い事この上ない。
「誰?」
見つかってしまった。
「おお、セイセイ君」シシクシロ氏は言った。
セイセイはシシクシロを見た。
初老で顎の太い頑健そうな大男。
「実は」とヒトマドはセイセイが記憶喪失であることを説明した。
「同志よ!」シシクシロは言った。「不幸な事だ、可哀想に」
そう言って大男はセイセイを抱き締めた。
「暗殺しようとした事を怒ってないのかしら?」とマキジャクは小声で言った。
「こう見えてまだ恨んでるのかも」ヒトマドは小声で言った。
「それで下界に暮らしていたセイセイが、かっぱ橋の福引で願い事を叶えるチケットを当てたらしく、願いを叶えて貰いに此処に来たのです」
「下界に、暮らしていた!」シシクシロは大仰に言った。
「かつての同志が、なんと哀れな!記憶を失って神の国に戻る道を忘れてしまったのだな!」
「いいえ、閣下。セイセイは一連の事件で、神の国を追放となっているので」
「そうだった!お前は不幸だ!」
「叶えられる願いが無いので月にでも行こうかと、仲間内で行きたいという希望なのですが仲間の中にエントがおりまして。許可し兼ねる状況だった訳です」
「エント!アタニ!がお前の友だちなんだね!かつて、神の国随一の天才と言われたセイセイが素晴らしあ友人をお持ちだ!」
「如何致しましょう、閣下」とヒトマドは言った。
月行きの旅券の発行は入国管理局の仕事であるが、局長クラスになると人口統制局の局長であっても、他局の瑣末事に越権して決裁ができるらしい。
「認めようじゃないか!」シシクシロ氏は言った。
「存分にご友人と月旅行を楽しんでおいで」
斯くして、セイセイとその一行は月旅行に行く事が決まったのである。
「兎の木彫り人形でも買ってきてくれ給え!」シシクシロ氏が笑った。
—------

第十章「月面刑務所街」

月の居住環境は地球に比べてあまりに悪く、観光に訪れる者も少ない。それなりの観光地は用意があるが、月面施設の設備は多く、度々故障しては気圧事故を起こして旅行者が死ぬので危険も多い。
物好きなアイヌアと、月の資源を売買しようとするアタニの豪商以外、高い旅券を買ってまで月行きの宇宙船に乗る者はいないのだ。
神様が何でも願い事を叶えてくれるはずのチケットが、セイセイの願い事を何一つ叶えてくれなかったので、セイセイ達一向は月旅行に行くことにした。

だがセイセイの人生を大きく変わっていた。本日40歳になるセイセイは集団予定死会場で死ぬ筈だった。だが、セイセイは死ななかった。セイセイは差別を受けるウォーゼでは無かった。40歳で予定死するウォーぜでは無かった。セイセイは世界に2億人いる神様の一人なのだ。神族アイヌアの身分を剥奪された身ではあるが。

セイセイがアイヌアである、という事は確からしいが肝心のセイセイにはその記憶が全く無い。アイヌアで人口統制局に勤務。上司の名前はシシクシロ。かつては神の国随一の天才と呼ばれた。少なくとも年齢は140歳以上。失われた記憶が戻ると少なくとも140年間の記憶が蘇るのだろうか。現在のセイセイの記憶はたった五年だ。塵芥の如く軽薄極まりない人生だ。140年間、俺は一体何をしていたのだろう、とセイセイは思う。5年間の人生に良い思い出が無いセイセイに140年間は長過ぎる。

宇宙船ではテレビが東京の局番のニュースを流していた。本日、世界では一千万人のウォーゼが予定死を迎える。そして、それから数時間後、今度は一千万人のウォーゼが新たに生まれ国の育児機関に収容される。テレビは両国国技館を映した。昨日のような行列は無かった。あの行列に集まったウォーゼ達は国技館の中で静かに死ぬのを待っているのだろう。
昨日まで、セイセイはその群衆に加わる筈の一人であった。いわば死を待つ群衆は彼の同胞である。
記憶を無くす前のセイセイは思想犯で、神国の国家転覆を企んだ事で月面の刑務所に収容されたのだと言う。ウォーゼ達の他人事とは思えない大量死に、記憶喪失になる前のセイセイも心を痛めたのだろうか。人口が完全に管理されている。増えても減ってもいけない。だから、ウォーゼ達は人工的に生まれて人工的に死ぬ。それを不自然と憤ったのだろうか。
月面旅行のツアーコースには月面刑務所も組み込まれている。お土産品は受刑者達が作る工芸品で、月面木材を使用した木彫りの兎人形が有名だ。もしかしたら、刑務所の見学をする事でセイセイの失われた記憶が思い出されるかもしれない。

宇宙船の客席のセイセイの隣にはシャモジが座っている。彼は先日身体を無くしたが、ヒトマドが焚き火料理の御礼にシャモジの新しい身体をくれた。シャモジは元通りアタニになったが、もうセイセイを小馬鹿にする事は無い。何故ならセイセイはアタニ達が信仰する神族だからだ。いや、セイセイがアイヌアでなかったとしても、シャモジはセイセイを差別する事は無いだろう。数々起こる数奇の運命は彼らを長年の親友以上に信頼で結びつけた。その隣には樹人のイスが居て、その隣にはハレス女のマキジャクがいる。彼らにはセイセイの感傷旅行に無理に付き合わせたようで申し訳ないが、彼らは偶然訪れた運命を存分に楽しんでいた。まさか、自分自身が月に行く機会があるなんて思ってもみなかった。

窓外はもう宇宙であった。宇宙を見る事は初めてであったが、それは窓から夜を見る事と変わらなかった。だが、彼らはその夜の中に浮かぶ地球を見た。地球が青く光っている。地球の表層を大気が纏い、それが緩慢に動いている。気団が重なって出来る雲が、ゆっくりと形を変える。いつまでも見飽きぬ光景だ。

地球の外周には宇宙ゴミが飛び回っており、それが時折、地球の引力引かれて大気圏で燃える。チリチリと燃え上がる火花もまた美しい光景であった。

セイセイは率直に感動した。
「見ろよ」
隣のシャモジに言った。シャモジの機械生命体のカメラアイが作動音を立てて、青く光る地球を見た。
「ふむ」シャモジは言った。それだけだった。

彼らが月の空港に到着するのは3日後である。
軌道が安定すると彼らは座席から離れて、それぞれの時間を気ままに過ごした。イスは殆どの時間を寝て過ごしたし、マキジャクは宇宙船内のアイヌア達とサロンで話をしていた。シャモジは宇宙貿易商のアタニと仲良くなった。セイセイは三日の間考え事をして過ごした。
セイセイはずっと記憶喪失以前の自分のことを考えていた。アイヌア達が統治する地球に人道的疑問を感じる事は時折ある。もっと平等な統治をするべきでは無いだろうか。律法はアイヌア達に都合が良いように作られて、それ以外の種族はまるでアイヌア社会を成り立たせる為の機械部品でしかない。
だが、機械部品たる彼らにも情動というものがあり、人生の機微に思い患って生きている。

このセイセイの感情も公表すれば思想犯の扱いを受けるのだ。アイヌア達は神であり、絶対神イルーヴァタールから世界の統治を信託されている。アイヌアの生活は他の種族の搾取から成り立っていて、搾取が無くなればアイヌア達は暮らしていけない。

だからといってアイヌア達の統治機構を破壊するような過激思想までセイセイは持たないのだ。アイヌアが滅べば地球は無政府状態となり、その中ではアタニやエント、ウォーゼもまた生きていく事は出来ない。管理されながらも平和なのだ。

だが。セイセイは両国国技館の行列を思い出す。平和なのだろうか、本当に?

記憶喪失以前のセイセイは刑務所を脱獄して反政府組織に加わった。その後にテロルをするために地球に密航。
やはり政府の転覆を企図していたのだろうか。政府を転覆させて、その後にどうするつもりだったのだろう。

そんな疑問をマキジャクに充ててみた。
「アイヌアだけが文明の利器を享受している。アイヌアの生活に比べたらイスやアタニの生活ですら原始時代だ。本当に差別を受けているのはウォーゼばかりではない。アイヌア以外の種族が、アイヌアから等しく差別されているのだ」
そう言われてマキジャクは言った。
「仕方ないわ。私たちは神様とは違うもの」
「違わなくなくない?彼らもアイヌアも違わなくなくない?」
「恐ろしい事を言わないで!」ハレス女のマキジャクは言った。パレスやウォーゼが神々と変わらなぬと言うのであれば、間違いなくそれは危険思想に他ならない。マキジャクはその発言に政治犯と呼ばれたセイセイの本質を見た気がするのであった。

そんな三日前を過ごして宇宙船は月面の宇宙空港に到着した。
ウサギの形をしたロボットが彼らを出迎えた。
「いや、これはロボットでは無い」
セイセイは言った。セイセイは同業だから分かる。これは高度なスキルで産み出されたホムンクルスだ。

「セイセイ、よく戻ったな」
ウサギのようなホムンクルス達が言った。
「知り合い?」
「いや」セイセイは知らない。記憶喪失だから。だが、記憶喪失以前の彼が、このホムンクルスを知っているのだ。
「もちろんだとも」ウサギ型のホムンクルスは言った。
「我々を生み出したのはお前じゃないか」
ウサギ型のホムンクルスはセイセイに懐いて離れない。真白く柔らかな毛玉が心地好い。石鹸の匂いのするフワフワであった。
知能が高くて寿命の長いホムンクルスを作る事は可能だ。だが、今のセイセイはそれをしない。
悲しいからだ。知能が高くて寿命の長いホムンクルスが生を全うして死んでいく事が。

自分を囲む温かくて柔らかな毛玉達にセイセイはそんな悲しさを思う。

月面に作られた温室のラベンダー畑を観光した後に、セイセイ達が乗るバスは月面刑務所に向かう。
刑務所は想像していたよりも巨大で、古い。このような建物が未だに稼働している事にセイセイは驚いた。そして、自分もまた過去にはこの中に暮らして受役をしていたのだ。セイセイは言い知れぬ愁心に囚われた。
この景色を知っている、気がする。
刑務所と言ってもひとつの建物なのでは無い。受刑者が多くいるので、彼らが暮らしているのは独立した住居群である。元は月面の新興住宅地であった。月面開発当時は賑わっていた。だが月面の悪環境が周知の事実になると、月面を訪れる者は極端に減った。況や月面の新興住宅地に住む者は皆無となった。月面に揚々と開発されたニュータウンは廃れて幽霊都市になった。それが刑務所街として再利用されている。刑務所がひとつの街を構成している。地球を追放されて月に住まねばならない事が刑罰であるので、受刑者達は月面の廃れた住宅地で比較的自由に生活をすることが出来る。
月面刑務所街を観光するセイセイ達は受刑者の何人かとすれ違った。彼らはそれぞれの工房で刑務をしている。一日の刑務が終われば家に帰る。刑務に応じて独自の通過が配給されてそれで必要なものを買うことができる。受刑者が運営する喫茶店やレストラン、床屋まであるのであった。
立ち寄ったお土産販売所に木彫りの兎が並んでいる。セイセイはそれをひとつ買った。
ウサギはどれも同じ形だが、手彫りなので少しずつ顔つきが異なる。セイセイはそれを面白く眺めた。
そのうちのひとつの、お腹にボタンが付いていることにセイセイは気付いた。何気なくセイセイはボタンを押した。
その木彫りのウサギが喋り出す。
「時間だよ」
大きな音がして刑務所街の中心から白煙が上がった。爆発が起こったのだ。刑務官や受刑者が建物から出てきて騒ぎになった。
その爆発を合図に販売所の床面に穴が開いて、中から武装した人民がぞろぞろと現れた。
「この販売所は我々が制圧する」と武装の民兵が言った。
「誰だ、お前たちは」お土産販売所の係官が言った。
「我々は月面レジスタンスだ」民兵のリーダーが言った。
「革命よ、大変」マキジャクが言った。

「セイセイ、よく帰ってきたな」レジスタンスのリーダーが言った。
レジスタンスの革命は、人手不足で刑務官の足りていなかった月面刑務所街は難なく制圧した。
レジスタンスは月面刑務所街の占領を地球の世界政府に向かって高らかに宣言した。
「月面刑務所街は我々が制圧した。我々は世界政府の律法が適用される事を拒否する!」

月面刑務所の刑務官達は捕虜として囚われたが、刑務官がいないと街が機能しないため、彼らには危害が加わらないことが約束された。彼らの占拠によって刑務所街を追放されたのは刑務所街の所長ひとりであった。
その所長の瀟洒な邸宅は刑務所街の駅前の一等地にあったがレジスタンス達は以後の本拠地を此処に構えた。長く地下生活をしていたレジスタンス達は大いに喜んだ。刑務所街の囚人たちも管轄がレジスタンスに変わったことを喜んだ。新たな所長にはレジスタンスのリーダー、ヒタタ・シンジュクが就任した。虜囚の身となり、今まで通りの実務を担当する刑務官たちに、ヒタタ・シンジュクは今までの報酬に加えて毎年5000圓相当の商品券を贈る事と年間休日を3日増やす事を約束したので、刑務官たちも彼らを歓迎した。
ヒタタ・シンジュクの初頭演説を聴きながらマキジャクはセイセイに聞いた。
「大丈夫なのかしら」
「世界政府も月の管理が面倒なんじゃないかな。お金もかかるし」

—----

第十一章「新世界のアイオーン」

「なんだって記憶喪失?」月面刑務所街のあらたな所長であるヒタタ・シンジュクは驚いた。
セイセイはヒタタの部屋に招かれて話をしている。マキジャク達は邸宅の中で他のレジスタンス達と雑談をしている。

「だが、そんな筈はない」暫く考えた後にヒタタは言った。
「何故なら、今日の事は俺とセイセイが打ち合わせた通りに進行したからだ」
「なんだって?」今度はセイセイが驚いた。

「打ち合わせ通り?」
「そう、今日お前は月面刑務所で決められた時間に決められた場所に狼煙をあげた」
「いやいや」到底信じられない。いまセイセイがこの場にいることは紛うことなき偶然だからだ。
「偶然だ」セイセイは言った。
「そんな筈はない」うさぎのホムンクルスの親分が言った。「お前は今日、五年前の約束通り月に帰ってきた。一日の狂いもなく。そんな偶然があるか?」
「そんな偶然は無い」セイセイは言った。
「そうだろう?だからお前は記憶喪失では無い」
セイセイは訳が分からない。
「さあ、セイセイ。俺の名前を呼べよ」
ウサギのホムンクルスが言った。だが、セイセイはウサギの名前が分からない。
名前は分からないが、このウサギが創造主である自分を長い間待ち続けていた事はひしひしと分かる。名前を呼べない事に胸が痛む。
「馬鹿野郎」ウサギはセイセイに飛びかかって彼の頬をぶった。膝の上に心地よい重圧が乗っている。石鹸の匂いがする。柔らかくて温かな毛玉であった。

「これが予定通りなら、これからどうなる?」
セイセイはヒタタに尋ねた。セイセイは記憶が無い。記憶を取り戻すために月面に来たのだ。
「まず、最初は宇宙海賊アタニ達との和睦だ」

月面のレジスタンスは活動財源を月面野菜の収穫によって賄っている。月面で作られた野菜は栄養価が高く高級食材として人気がある。これをアタニの宇宙貿易商と取引して対価を得ているが、アタニ商人から噂を聞いた宇宙海賊アタニが度々、レジスタンスの野菜農場を襲撃するのだ。レジスタンスが宇宙海賊アタニの気まぐれな襲撃に負ける事は無いが、農園が荒らされるので手を焼いている。彼らは死を恐れず無鉄砲に急襲してくるので始末に悪いのだ。

それから次に宇宙船の修理だ。レジスタンスの宇宙船は壊れているので修理が必要だ。だが、レジスタンスの中に技術者が居ないので修理が出来ずにいる。
「この宇宙船が直れば、我々は貿易商を通さずとも直接地球の商人と野菜取引が出来るのだ。不当に野菜が買い叩かれる事が無くなり。我々は適正価格で活動財源を得る事が出来る。」
「技術者などいない」セイセイは言った。
「いるだろう?」ヒタタは言った。
エント族は120年の義務教育を経て人類の創り出したあらゆる知識を身につけている。彼らはそれらの知識を使い、テレビだろうとヘリコプターだろうとこの世に開発されたどんな機械でも作り出す事ができる。当然彼らは宇宙船にも通じていて、エントがいれば、宇宙船の修理など容易い。

アタニとの交渉の為には、アタニを仲間に加えなければいけないし、宇宙船を直すにはエントの知識が必要だ。通常であれば気難しいアタニやエントをレジスタンスの仲間に加える事は至難であった。

「……」
セイセイは無言になった。その至難が難なく達成されている。アタニのシャモジやエントのイスはすっかり仲間だ。
こんな偶然は無い。もしかして自分はレジスタンスにからかわれているのでは無いだろうか。

こんな偶然は。
セイセイは慄然と震えた。

そもそも本当に自分は記憶を無くしているのだろうか。セイセイの中に恐ろしい疑念が浮かんで彼は戦慄とした。
ホムンクルス使いは無から生命を生み出す事が出来る。
もしかして、今セイセイが「自分」と呼んでいるこの意識が果たして本当の「自我」なのだろうか。
何故、自分は5年前にある日突然、東京の真ん中で自明を得たのだろう?

ホムンクルスを作るように、記憶喪失以前のセイセイが、自らの脳内に第2人格を生み出した。それが自分なのではないか。
第二人格はセイセイとして暮らしているが、第二人格の知らないところで本当のセイセイも同じ身体に同居している。セイセイは記憶喪失になったのでは無く、自ら生み出した第二人格の影に潜伏をしている。つまり、自分の影に本当のセイセイ、国家転覆を企てたテロリストセイセイがいて、いま、この瞬間にもセイセイは影の中から世界を見ていて、自分を操っているのではないか。
そんな馬鹿な、とセイセイは頭を振った。一度でも自分が誰かに操られていると感じた事はあったか。無い。自分は間違いなく誰の干渉も受けずに自由意志で生きている。俺は仮想意識では無いし、俺の中に隠れる「本当のセイセイ」など居ない。

だがもし本当に俺が生み出された第二人格、ホムンクルスの如き擬似の存在であるなら?ホムンクルスが突然死ぬように、自分も役割を終えて突然消滅するかもしれない。そんな残酷な事をするだろうか、本物のセイセイは。

「セイセイはどんな人間だったんだ?」セイセイはヒタタに尋ねた。

「敵にすればあんなに恐ろしい奴はいない。奴は笑いながら宇宙海賊達を幾人も葬った。俺たちレジスタンスが刑務所街の占領に成功したのも、お前の計画があったからだ」
ヒタタは言った。
「セイセイは良い奴だよ。俺達にとっては」ウサギホムンクルスの親分が言った。
「その背中にあるフライパンで宇宙人参のホットケーキを作ってくれた。俺達はセイセイが好きだ」
「彼はアイヌアの世界政府をどうするつもりだったんだ?」
「壊すつもりだったな、完全に」
「壊してどうする?今の政府の管理下で平和に暮らしている人々だっているのに」
「平和なんて無い」ヒタタは言った。
「人類と呼ぶべき存在はアイヌアだけだ。アイヌアが生きる為にエントやアタニは作られたんだ。何故、月面刑務所街にエントやアタニは居ない?」
「彼らが犯罪を犯さないからだ」
「本当に?犯罪を犯すエントやアタニはいない?」
セイセイは答える事が出来なかった。沢山いそうだ、特にアタニ達は。
「犯罪を犯したエントやアタニには死刑しか無いからだ。人格を矯正するよりも新たなエントやアタニを生み出した方が早い。彼らは人類によって作られた存在だから人権は無いのだ」

文明の爛熟した人類は環境汚染と戦争と奇病と少子化によって人口減少が続き、旧世界の末期にはとうとう全盛期の20分の1、たった3億人に減った。地球環境は荒廃していた。資源は枯渇していた。残った人類が安定的に存続するためには、人類の生活を支える存在が必要だった。3億人の人類は国境を無くして世界政府を組織し、既存の生命倫理を棄てた。人類に寄与する労働力が必要であった。労働力を確保せんと次々人工生命を生み出した。人工生命の開発時代が始まった。まず人類は樹人エントを作った。塩分に耐性のある樹木に血液を流して動物的生命を与えた。彼らは1200年生きて、人類の文明を保存出来る。そして彼らは荒廃した森林に代わり、光合成を行っている。動く森林だ。彼らは次々量産されて、地球環境の修復に寄与した。彼らのお陰で大気は保全され地球の環境が守られている。エント達は生活意欲が希薄なので、人類のように享楽の為に自然を破壊しない。地球環境を汚染しない。彼らが農業や工業に身をやつし生きる理由は3億人の人間達に食料や工業製品を供給するためである。

大人しいエントだけでは経済が活性しないので、流通を促進するために人類は機械生命のアタニを作った。本来アタニとは人間という意味である。人間は機械生命にアタニの名を授けた。アタニはエント達が作った農林水産の第一次産品や、工業製品を物流して3億人の人間達に届ける。
アタニは10年で死ぬようにプログラムされる。古くなった機械を修理するより、古くなった機械を捨てて新品を投入する方が楽だからだ。

「それならウォーゼは?」
ウォーゼは何のために生まれた?彼らはアイヌアと見た目は変わらない。
「ウォーゼは人間が作り出したホムンクルスだ。人間は人間を作ることに成功している。」
「何の為に?」
「アイヌア達は人間なのにどうやってあんなにも長命を保てると思う?アイヌア達はウォーゼから身体の部品を調達するのだ。ウォーゼを捕らえて臓器や身体を切除して移植することでアイヌア達は長命を保っている」
とヒタタは言った。
人工生命であるウォーゼに人権は無い。2000年前、新世界が始まった時に人間は人間を作り出そうとした。だが人間が作る「人間」、は人間の形をした死体と、体を持たない人間のようなもののどちらかしか作る事が出来なかった。それで人間は、「体を持たない人間のようなもの」に「人間の死体のようなもの」を与えて、それを住処に生きる事が出来るようにした。その結果、彼らはとても不思議な生態を得た。
ウォーゼ達は日頃、人間のような顔をして暮らしているが、その身体は脳内の「身体を持たない人間のようなもの」が操作している。その「身体を持たない人間のようなもの」は脳内で成長を続け胎児のような身体を得る。「人間の死体のようなもの」が死ぬと、頭が割れて「身体を持たない人間のようなもの」が生まれる。これが、「一番はじめのウォー」である。それは人間の赤子そっくりで、人間のように成長するが、その脳内には新たな「身体を持たない人間のようなもの」が生まれている。そして脳内で「身体を持たない人間のようなもの」は成長し、肉体が死ぬと頭を割って新たな肉体として「身体を持たない人間のようなもの」が生まれる。こうしてウォーゼは死と再生を繰り返すようになった。
「いつまでも若い肉体を手に入れるために、ウォーゼは年を取ってはいけない。人間たちはウォーゼの寿命を40年に設定して、40歳になったウォーゼが自動的に死に、新たなウォーゼに生まれ変わるようにしたのだ。」

ヒタタは携帯端末の画面をONにした。ウォーゼが集合している。これは両国国技館の映像だった。ウォーゼがカプセルの中で眠っている。夢を見ながら死ぬのだ。幸福の夢を見る装置があって、ウォーゼは夢の中で幸福が最高潮に達すると、それをセンサーが検知して殺人ガスが吹き出す仕組みだ。
ウォーゼ達が次々死んでいく。映像が早送りされた。全てのウォーゼが死んだ。死んだウォーゼの頭が割れて噴血と共に新たなウォーゼが出産される。次々ウォーゼ達の頭が割れて、新たなウォーゼ達が生まれて、産声を上げる。
人間の部品を調達するためだけに生まれた生物。血の惨劇。不自然の生命。
セイセイは目を背けた。

「人類はそうやって生き延びたのだ」と、ヒタタは言った。
「こんな恐ろしい事を」セイセイは言った。
「こんな恐ろしい事を新世界のアイオーンが始まった始祖からやり続けているのが、お前が所属していた人口統制局なんじゃないか」

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第十二章「野獣」

その晩、セイセイが寝付けずに、レジスタンス達の食堂にいるとイスが現れた。
「眠れないのですか?」イスが言った。
「そう、眠れない」
心が晴れない。モヤモヤと不安が渦巻く。だが、その不安の正体を掴み兼ねる。アイヌア達が、ホムンクルス使い達が生み出した亜人種たち。一斉に死んで再生するウォーゼたち。ウォーゼを切り刻んで若返るアイヌア達。言い知れぬ嫌悪感。だが、セイセイ自身がそうして生き延びてきたアイヌアであるのだ。セイセイが嫌悪するのは自分自身であるかもしれない。だが、とセイセイは考える。人間が2000年前に人類の生贄、つまり人工生命を作らなければ、人類は絶滅したかもしれない。人類存続の為に必要な犠牲とも思える。人類の餌となるべく獣畜を牧するのと同じだ。いや、同じだろうか。彼らには情動と自由意志がある。

「私の友人は」
イスが話し始めた。
「不思議なエントでした。私たちは一緒に暮らしていた」

或る日、イスとソマ=アオキガハラは森林を散歩した。エント達は自然が好きだ。木々の間をリスが走っている。鳥たちが羽を休めている。二人は木の実を採取しながら森林を歩く。その先で野獣がひとりのエントを食べていた。二人は野獣を見るのが初めてだった。
「野獣だ」イスが言った。
「どうしてあなたは食べられているの?」ソマが言った。食べられているエントは視線をイスとソマに向けたが、何をか答える力は残っていないようだった。
野獣が肩首に食らいついている。エントの血液が止まらない。
「ねえ、どうして?」ソマはエントに聞いた。エントは目を閉じた。野獣の顎がエントを押し倒し、爪を立てて身体を抑えた。野獣は巨魁だ。大きな前足で抑えられたら逃げ出す事は出来ない。野獣が、エントを貪る音が森の静謐の閑かな谺となった。
イスとソマはエントを食べる野獣を見ていた。

エントはバラバラになった。野獣は腹が膨れてエントを食べる事を止めた。
野獣は二人に近付くと、擬々と嗤った。邪悪な笑みであった。イスとソマはその邪悪に硬直した。奈落に落ちていくような、絶望感を味わった。青褪めて身動きの取れない二人を、畏怖の野獣は大きな身体で絡まるように取り囲んだ。それから霧のように彼等に纏わりついて、彼等を一回ずつ舐めた。二人は恐怖に支配され、身動きも取れず立ち尽くしていたが、野獣は霧のように音も無く消えた。

その夜の事であった。
イスはソマに呼ばれて目を醒ました。
「これ」
とソマは言った。それが、何を意味するのかは明瞭であった。ソマに白い花が咲いていた。火花のように花弁を尖らせた白い花。それが垂れ下がって屍人の手のようにも見える。

イスはその花に触れた。花からは仄かに甘い香りが広がるのであった。

ソマは物思いに耽ることが増えた。イスがいつものように木の実拾いに誘ってもソマは曖昧に返事をするだけで、テーブルから離れようとしないのであった。

ソマの佇む窓ガラスに小鳥達がやってくる。

「花が咲くエントなんて君だけだね」
イスは言った。
イスとソマはもうずっと長いこと、一緒に暮らしている。彼らの仕事は森林公園の管理番で、日々、遊歩道に落ちた木々を拾ったり、倒木の除去、旺盛に茂る雑草を刈ったりしている。森林公園の中に彼らの住居は有るのであった。

ソマの白い花は、花弁を尖らせたまま暫く繚乱としていた。だが、数日を過ぎれば花弁は萎れて落花する。
「花はまた咲くよ」
イスはソマに言った。

ソマが居なくなったのは突然だった。
或る朝に、りす達の騒ぐ日があって、その日。もうソマは住居の森林公園の何処にも居ないのであった。
畏怖の野獣が現れてソマを食べてしまったのだろうか。イスは森林を隈無く探した。
以前に野獣に食べられたエントの木片はまだその場所に散乱していた。
ソマが片付けたがらなかったのだ。
畏怖の野獣がもしソマを食べてしまったのだとしたら、きっとソマの残骸が見つかる。
ソマの残骸は何処にもなかった。

「ソマがいない」とイスはエント警察に相談したが、警察が殺人事件だと騒ぎ出し、イスが犯人になってしまった。エント警察達が彼を捕まえようとするので、イスは森林公園から逃げ出したのであった。

その後にイスは浅草花街の遊郭に迷い込み、マキジャクにお酌をされて、そのまま寝入ったら森林になっていたのだと言う。
「私はソマを探しているんです」
イスは言った。
セイセイも花の咲くエントなど、聞いた事が無かった。だが、もしその話が本当だったら?不思議とセイセイには樹人ソマがその身を消した理由が分かる、ような気がする。

「ヒタタが、宇宙船の修理をお願いしたがっていたよ」セイセイは言った。
「やりません」イスは言った。

イスは頑なに宇宙船の修理を断るのであった。理由は分からないがエント達は頑固で気難しい一面を持つ。人に調子を合わせない。説得は難しかった。
翌日、セイセイはヒタタにイスに宇宙船修理を頼んだ事を話した。
「そうか」ヒタタは落胆した。
「月にもう一人エントがいる筈だよ」セイセイは言った。
「月にエントが?」エントは環境保全の要であり、人類のあらゆる知識を蓄えている為、エントの悪用を防ぐ目的から地球の外に出ることが禁じられている。
「入国管理局の藩庁から訊いた」セイセイは言った。
「入国管理局の班長って、ヒトマド=スガモのこと?どうして彼がそんな事を」
セイセイは入国管理局の班長であるヒトマドからエントが月に密航した事を聞かされていた。
「もし、それが本当であれば宇宙船の修理はそのエントに頼む事ができる」
月に密航したエントは直ぐに見つかった。彼は月面刑務所街の映画館の裏側に住んでいた。エントに住居を世話したのは不動産業を営む月面刑務所街の受刑者である。彼から住所を聞いて、ヒタタとセイセイは月面のエントを尋ねた。
「やらない」と、そのエントは言った。「でも100年くらいしたら考えが変わるかも」
それを聞いてヒタタは小声でセイセイに言った。
「どうしてエント達はこんなにも自分本位なんだろう?」
エント達の非協力的な態度について、以前のセイセイであれば辟易としていたに違いないが、イスという友人を得た今ではその身勝手さにも慣れた。彼らは自然と同じなのだ。意のままに操る事など出来ない。
「宇宙船の修理をしてくれるエントを探し続けるしか無いですね」
「それこそ100年かかってしまうよ!」
「仕方無いです」
「やはり君の友人にお願い出来ないかな?」
「イスに?無理でしょう」
そんな二人のやり取りを耳にしていたエントが言った。
「イス?イスと言いましたか?もしかしてイス=アオキガハラ?」
どうやらイスの知り合いらしい。
「そうですよ、イス=アオキガハラです。お知り合いですか?」
「こんな所でイスの名前を聞くなんて!」

—------

第十三章「新しいエント達」

「君はソマ!」
イスは驚いた。かつて森林公園の警固番として一緒に暮らしたソマが目の前にいる。頸動脈に丸い珠花を包んだ白い総苞が咲いている。
「花が咲いているよ!」
イスは君を探していたのだ、とソマに言った。
「どうして何も言わずに消えてしまったんだ。畏怖の野獣に食べられてしまったんじゃないかと心配したんだよ」

ソマはイスに失踪した時の事を話をした。
「この花が原因なんだよ」
ソマは頸動脈に花を咲かせている。
「実は私の花はあれからずっと咲き続けているんだ」
落花してもすぐに蕾が出来る。そして花が咲く。
「花の形状を見て、私は恐ろしい事に気付いてしまった。イス?君は気付かない?」
そう言われても、イスには分からないようだった。
「部外者が口を挟んで申し訳ないが」とセイセイが言った。
「君の花はイスに咲いた花と形が違う」
「そう?」シャモジが言った。
「イスにも花が咲いたの?」
「そう、あなたの花とは異なる花が」
「なんて事!」ソマは言った。「イス、あなたはもう地球に戻らない方が良い」
「どうして?」
「戻ったら、きっとあなたの元にも畏怖の野獣が来るわ」
「野獣が?どうして?」
「君たちは野獣を見た事があるの?」ヒタタは言った。野獣は暗闇の中から現れて、人間を喰らう。エントでもアタニでもウォーゼでも関係なく。野獣の存在は多くの証言に支えられているが、その実在が確認された事はない。見た者は食べられているからだ。
野獣は獣の形をしているが、動物では無いとされている。目撃情報は都市部にしか無いし、あまりにも神出鬼没だ。野獣が襲うのはエントやアタニ等人間に限られている。アイヌアの生み出した実験動物であるとか、旧世界のアイオーンの作った悪魔であるとか諸説ある。数々の目撃情報があるにも関わらず野獣の存在を裏付ける写真や記録は皆無であって、都市部の中の幻の存在が野獣である。
無論、セイセイもヒタタも野獣を見た事は無い。
「俺は野獣を見た事があるよ」シャモジが言った。
「路地裏にいると時々視線を感じる事があって、でも周囲を見回しても誰も居ない。ある時に強烈な視線を感じて、俺は振り返った。一瞬だけ、影が見えた。あれはきっと野獣だったんだと思う。その数日後に、その場所でアタニがひとり死んだんだ。バラバラにされて」

「私の前にも野獣が現れたのよ」ソマは言った。
森林公園で二人は野獣がエントを捕食するのを見た。それからソマには頸動脈や手首の血管の皮膚上に花が咲くようになった。
それから、ソマの目の前に野獣が現れてソマは逃げた。野獣の話をイスにすれば、野獣は次にイスの前に現れるだろう。黙っていなくなる事は忍びなかったが、ソマはイスの目の前から消えた。
野獣は何処にでも現れた。ソマを狙っている。ソマが見ると消える。現れる度に、野獣はソマに近付いていた。現れては消える野獣。刻刻と距離を縮める。もし距離がゼロになったらソマは野獣に食べられるのだろうか。少し前までソマは死ぬ事を怖いと思わなかった。ソマは500年生きた。長い人生に飽きていた。
イスとの森林の警固は楽しいが、淡々と繰り返す日々に飽きた。初めて森林で野獣を見た日にソマは野獣に喰らわれて死んでも良いと思った。だが、今は違う。ソマは死ぬ訳にいかない。
「ねえ、イス。私とあなたは新しいエントになったのよ。私たちが地球から離れて月面で出会う事には意味があるんだわ」
ソマは言った。
「どういう事?」
「私の花をよく見て?気付く事は無い?あなたの花との違いは?」
「雌花だ」セイセイが言った。「ソマの花には花粉を作る雄蕊が無い」
「どういう事?」
「エントは男しか居ない、と一般に言われるが、花の形状を見る限りソマは女だ。エントの女性だ」
花の咲く植物には二種ある。花の中に雄蕊と雌蕊が揃う植物。そして花が雌花と雄花に別れる植物。ひとつの花が雌蕊と雄蕊を有するという事は生物で云えば両性を有しているということになる。つまり、両性具有だ。これを雌雄同株と呼ぶ。
生物の目的のひとつに多様性の獲得がある。環境の変化に適応するために様々な遺伝子を取り込もうとする。だが雌雄同株の植物は雄蕊で作られた花粉の遺伝子と、それを受容する雌蕊の胚珠が同じ遺伝子であるため、多様性が獲得出来ない。それで植物は遺伝子情報を交換するために、他の個体の花粉を入手する様々の進化を遂げた。
マングローブ林を構成する樹木のひとつであるオヒルギは花に甘い蜜を有して、花蜜を啜る小鳥を誘う。小鳥は蜜を飲む時に身体に花粉を付着させ、他の花の雌蕊へと花粉を運ぶ。他にもひとつの花が雌蕊の成長する時期(雌期)と雄蕊の成長する時期に分かれて、雌期と雄期を混在させる事で集団の遺伝子情報が交換されるよう臣下した植物もある。植物には性がある。その性別を獲得した植物もある。
一方、個体が性別を獲得した植物もある。カキノキは雄株と雌株に分かれて柿は雌花が受粉する事で結実する。だからカキノキの雄株は実が出来ない。
日本に植生する金木犀には実がならないとされる。それは日本の金木犀が中国から輸入され、雄株しか無いからと言われる。雌株を輸入しても雄株に性転換してしまう為、日本には金木犀の種子は無い。
エントを生成する基礎となったのは熱帯のアダンの樹であるから、そもそもエントには雌雄がある筈である。だが、エントは生まれてから雌がいた記録は無い。エントには男しか居ない。だからエントは自ら殖える事は出来ない。それが通説であった。もしかしたら本当はエント女の存在は確認されながらも、人口統制の名目でエントの異性株について世界政府が隠蔽していたのかもしれない。
いま目の前にはエント女がいる。
その意味する所はエント達は世界政府が人口統制を行わなくても植物生殖によって殖える事が可能だという事だ。
生殖を禁止している世界政府にとっては女性のエントはその存在すら許されない。野獣の真偽は定かでは無いが、確かにソマが地球にいる限り、エントの女性であるソマは政府から狙われ続ける。

後日。イスにも頸動脈から二房の花が咲いた。ソマの花形とは異なる。白い総苞の中に小さな雄花が並んで、花粉と甘い芳香を放っている。
その頃にはソマの雌花散ってしまっていたが、そのうち折り合いついてソマの雌花が結実する日は遠くないと思われる。
初のエントによる自然発生である。人口統制されている地球ではこの歴史に残る事件は起こり得なかっただろう。
「おはよう」
イスが通り過ぎた。花の香りが広がる。

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第十四話「ウサギのホムンクルス」

ソマの雌花が結実した。パイナップルを赤くしたような果実になった。それがソマの頸動脈から下がっている。重くなるので果実と首を布で巻いている。芯の周りに果実の犇めく集合果で熟した果実が実から零れてはらはら落ちる。ウサギのホムンクルス達が面白がってこれを野菜農園に撒いた。発芽するとエントが生えるのだろうか。全ての種子が発芽しない。種子を撒いたうちの、発芽したものは3株だけだ。だが、その3株の成長は早く背丈はもうウサギのホムンクルス達を越えた。

記憶喪失以前のセイセイは国家の転覆を企図していた。アイヌアの政府が無くなるとエント達は生活が出来ないと思っていたが、彼らには彼らの文明があってアイヌアがいなくても平和に暮らしていくのかもしれない。と、セイセイはエントの新株を見ながら思う。

そんな事を考えていると、「わ」とイスが声をあげた。セイセイとイスは温室のエントの新株の前でお茶を飲んでいた。
エントの新株は成長すると気根が伸びて、樹木の胴腹に丸い根球を作っていた。その気根の絡まる玉を割って小さなエントが現れた。
エントの赤子だ。
「わ」
エントの発生は樹木に目鼻が付いて歩き出すのかと思っていたので、赤子が突然驚いた事にセイセイも驚いた。

エントの赤子はまだ言葉を喋らない。周囲が教えなければならないのだ。
その時、セイセイの脳裏に何かがよぎった。
世界政府はどうやって人類を増やしているんだっけ?
子供たちは収容所で集団教育を受けながら成人になるまで過ごす。だから家族というものは無い。だからセイセイは赤子をその手に抱いたことなどない、筈であった。だが、セイセイには赤子をその手に抱いた記憶があるような気がする。赤子の母親がその傍らに立っていたような気がする。

通りがかったウサギのホムンクルスの親分が赤子を見つけた。
「おい、なんだこりゃ。エントの赤ん坊だ」と笑って赤子を抱き上げた。
その声を聞きつけてレジスタンスが集まってきて。エントに限らず、赤ん坊という存在を見るのが初めてだった。だからおっかなびっくり代わる代わる赤ん坊を抱いた。
ソマとイスは嬉しそうに笑った。
ひとしきり談笑して各自は自室に戻った。
ウサギの親分が残っていた。
「赤ん坊が可愛かったね」セイセイは言った
「おう」親分は言った。そして彼はセイセイの膝の上に乗った。
「おい、抱き締めてみろ、コノヤロウ」
セイセイはウサギの親分を抱き締めた。
「おい、セイセイ」親分は言った。
「俺達を生んでくれた事は感謝している。お前は俺たちの神様だ。だが、俺達は毎日死ぬ事が怖いよ」
親分は言った。
「毎日、死ぬ事が怖い」
また、何かが脳裏をよぎった。俺は以前、この言葉を聞いている。
突然、セイセイの記憶が戻った。ひとつの記憶が関連する記憶を呼んで。次々記憶が呼び覚まされる。月面でのウサギ達との日々。レジスタンスの仲間たち。月面人参の収穫祭。大きなフライパンで作るうさぎ達の為のホットケーキ。
宇宙海賊達との戦争。
それから。

それから。

セイセイはマキジャクの部屋に行った。
「どうしたの?」
マキジャクは言った。化粧を取って平素の顔だ。
「思い出したよ、君はマキジャクだ」
「ええ、そうよ。どうしたの急に?」
「君の記憶は35年分しかない」
「35歳だから、当然そうよね」
「違うよ」
「君は記憶喪失で、それ以前の記憶を無くしているんだ」

彼らは100年前、地球で、神の国で恋人だった。家族だった。幸福の日々の中で女が懐妊して、密かにエント医者が出産に立ち会った。子供が生まれた。その子供を二人は抱いた。大きな喜びに包まれた。
だが、それを政府は許さなかった。神の国と言えど人口が管理されている。私的な出産は許されない。子どもは奪われた。
彼は、政府を非難した。世界政府の要職に就く彼の言葉には影響力があった。政府は彼を拿捕した。思想犯として月へ追放した。
月面で、彼は地球を見た。愛する妻が、地球にいる。
彼は地球に帰るため、脱獄した。妻に、マキジャクに会いたい。何をしてでも地球に帰るのだ。

脱獄した受刑者をレジスタンスに匿まっていた。レジスタンス達は月面の地下にある大農園でで野菜を作りながら自給自足の生活をしている。

彼は野菜を作りながら地球に密航する機会を狙った。密航計画を立てるため、彼は頻繁に宇宙空港に出入りした。彼らの作る野菜を買い取ったアタニ商人によって宇宙野菜が地球に運ばれる。

だが、彼が空港で見たものは。

「どうしたの」
セイセイとマキジャクに声を掛けたのはレジスタンスのリーダー、ヒタタ・シンジュクだ。

「もしかして記憶が戻ったの?」
「戻ったよ」
「何処まで?」

地球に密航を企てるセイセイが見たものは月面の繁華街、ニューススキノの高級店で世界政府高官と親しげに話をするレジスタンスのリーダーだった。
政府高官のシシクシロ・シンジュクは人口統制局に務めるセイセイの上官であった。いや、その前は同僚だった。彼らは新世界のアイオーンが始まった時からもう2000年も世界人口の安定に努める同志であった。能力はセイセイの方が高かった。彼は人口の安定を進めるためにホムンクルス研究をして、エントを生み出す事に成功した。
シシクシロはホムンクルスから人間を作ろうとしていた。彼の研究でウォーゼ達が誕生した。

そして、シシクシロはセイセイとマキジャクから子供を奪った張本人だ。その彼と反政府組織のリーダー、ヒタタ・シンジュクは癒着している!

彼等は結託して刑務所から脱獄者を増やしていた。シシクシロは受刑者が減った分、彼らに使われる筈だった運営費を横領出来たし、ヒタタは脱獄者をレジスタンスに誘導し、野菜作りの労働力を得られる。
ヒタタは安い労働力を得て、月面野菜売りによって莫大な利益を得ていたのである。
反政府組織のリーダーが政府と癒着している。反政府組織の同志達が宇宙海賊との戦争に明け暮れ、地下の大農園でつつましい生活を送っていると言うのに!

だが、その真実に彼は目を瞑った。ヒタタの協力が無ければ地球に密航する事は難しい。身分証明書の偽造は彼にしか出来ない。
彼はヒタタと友好な関係を継続し、ヒタタに彼が地球に密航する事の必要を説いた。そして、彼は地球に潜伏し地球で協力者を得て月に戻ると約束した。

地球に戻ったセイセイは神の国の中でマキジャクを探した。だが神の国の中を探してもマキジャクはいなかった。
マキジャクは浅草の花街にいた。ハレスの花魁として人気を博していた。ハレスは下界に住むアイヌアの女たちの事なのだ。マキジャクの前に立ったセイセイを見ても彼女は男が誰なのか分からないようだった。記憶封印術が施されている。シシクシロの仕業に違いなかった。記憶を司る脳領域に小さなホムンクルスが埋め込まれ、記憶が操作されている。シシクシロのホムンクルスに特有の黒い影が僅かに見え隠れしていた。封印術を解くために彼はマキジャクを連れ出さねばならなかったが、事情が分からない人々によって騒ぎになり、セイセイはエント警察によって拿捕された。

「同志よ!」
エント警察の留置所に囚われたセイセイを釈放するため身元引受人として名乗りを上げたのはシシクシロだった。
「なんて可哀想な奴なんだ!」
そう言ってシシクシロはセイセイを抱き締めた。
「マキジャクにホムンクルスを埋めたな」
セイセイは言った。
「そうだ、可哀想だったからな」
「何が可哀想だ」
「毎日泣くので記憶を消してやったんだ。今は楽しそうだったろう?」
「子どもは何処だ?」
「馬鹿な事をしたな、セイセイ。子どもを産むなんて。律法で禁じる最大の禁忌だ」
「何が律法だ、クソッタレ。律法の時代は終わった。いつまでも古い慣習を続けようとするなよ」
「お前は悪魔に魅入られているぞ、セイセイ!」
「子どもはどうしたって聞いてるんだ!」
「子どもも何ももう30年も経ってるんだぜ。立派な大人に成長したよ」
「何処にいるんだ」
「さあな、何をやっても出来が悪かったから神の国から追放されたんじゃないか。出来損ないウォーゼと間違えられてバラバラにされて居ないと良いな」
「外道!」
「外道はどちらだ!セイセイ、俺がお前を裏切ったなんて目で見るなよ。裏切ったのはお前なんだぜ」
シシクシロは言った。荒廃した旧世界のアイオーンから新世界のアイオーンを創世した2000年間に渡る盟友だ。
「お前はこの世界を壊そうとしているな」
「壊すのでは無い。更に新たな時代を目指すのだ。人々がもっと自由に生きる世界を。我々だけでは無い。エント達やアタニや、ウォーゼだって自由になれる時代を目指すのだ」
「我々は一度滅んだのだよ。我々が自由に生きれば、その先は滅亡しかない。2000年前に、旧世界の破滅と共に答えは出たのだ」
シシクシロが黒煙を吐いた。周囲は忽ち黒煙に包まれた。
「うわあ」セイセイは言った。
シシクシロの黒煙濃度が高まって黒煙は獣の形になった。おぞましい野獣だ。
「君はホムンクルスに取り憑かれているよ」
セイセイは言った。
「素晴らしいだろう?」
野獣はゆらぎの中で形を変えながらセイセイを襲った。
野獣がセイセイの中に入ってくる。
これは。
セイセイは思考が曖昧に堕ちていく。抗わなければいけない。逃げなければいけない。今すぐこの場を離れなければいけない。そうした挙動を制するものが体内に溜まってセイセイの思考を止める。それと共にセイセイの2000年間が黒い闇に塗り潰される。
始めに無くしたのは生命の創造。無生物を生物に変える実験。単細胞生物の誕生。それらが応用されて次々人工生命が作られていく。進化する技術。高度化する人工生命。
その果てにセイセイは、何をしたのだろう。暗闇の中で泥炭に堕ちる記憶の欠片。もうセイセイは旧世界のアイオーンを忘れた。新世界の人工生命開発の狂乱を忘れた。最初のエントたち。アタニ達。シシクシロの開発した人造人間ウォーゼ達。ウサギのホムンクルス達。を忘れた。
セイセイは曖昧の思考の中で考える。どうしたら良い?

どうしたら?

シシクシロが開発した黒い霧の獣。それと同じくセイセイも白い霧の獣を生み出していた。ウサギのホムンクルスだ。ウサギのホムンクルスが白い霧となってセイセイの中に入る。黒い霧が記憶を傷付けないように、白い霧がセイセイの記憶を守る。黒い霧と白い霧がセイセイの中で渦巻いている。

霧が晴れた時にセイセイは記憶を失っていた。だが、記憶が完全に消された訳では無かった。セイセイの記憶は白い霧の獣に守られている。セイセイは記憶を無くす前に白い霧の獣に命令した。導け、と。記憶を無くしたセイセイは自らに宿った白い獣の存在を知らない。その声は届かない。だが、セイセイに宿るケモノがセイセイを導く。

第十五章「白獣」

「何処まで思い出したの?」
ヒタタ・シンジュクは聞いた。
「全部だ」
「それは良かった」
ヒタタ・シンジュクはセイセイに近付いた。
「待て、近付くな」セイセイは言った。
「どうして?俺たちは仲間だ」ヒタタは言った。
「いや、お前は信用ならない」セイセイは言った。
「どうしてそういう事を言うかなあ」ヒタタの様子があからさまに変わる。矢張りだ。
ヒタタは人口統制局の局長であるシシクシロにホムンクルスを埋め込まれている。
記憶をとりもどしたセイセイは以前よりもホムンクルスの気配に過敏になっている。いつの頃から?最初から?それとも五年のうちに?ヒタタの脳内に小さなホムンクルスが住んでいる。この気配はウォーゼのものだ。ヒタタは脳内にホムンクルスを埋められてウォーゼになっている。

ヒタタの頭部が肥大して、割れた。鮮血を噴いて、室内を真っ赤に染めた。
「ギャア……ッ…!!」
マキジャクが噴血を浴びながら悲鳴を上げた。だが、怪異はそれだけでは無い。
割れた裂傷部から、小さな人間が現れた。セイセイはこれを知っている。ウォーゼの脳内にいて、ウォーゼの身体を操っている小人だ。現れたウォーゼの小人が言った。
「記憶を取り戻したんだな、セイセイ」
「シシクシロだな」セイセイは言った。外見はウォーゼの小人でも風格に覚えがある。
「そうだ、俺はウォーゼと意識を繋いで何処にでも現れる」ウォーゼの小人にチャンネルしているシシクシロが言った。視覚や聴覚が繋がっているらしく、小人が見るものはシシクシロにも見えているらしい。
「そこにいるのはマキジャクだな。相変わらず美しい!素晴らしい造形だ!」血塗れのマキジャクをシシクシロが賛美した。
「ヒタタが死んだよ」セイセイが言った。
「また作れば良いだろう?お前なら簡単じゃないか」シシクシロが言った。
「そういう話じゃない!」セイセイは憤った。だが、憤る資格がセイセイにあるだろうか。あらゆる実験によって生命を粗末にしたのはセイセイも同じだ。セイセイとシシクシロ、共に旧世界から生き延びる真神と呼ばれる。幾度とない長命化の施術と若返り術を繰り返してきた。それらの技術は数え切れない無辜の民の犠牲の上に成り立っている。今さら、人道の顔が出来る権利など無い。セイセイの慷慨はかつての自らに向けたものである。セイセイやシシクシロなど旧世界からの生き残りが、真神と謀って作った神の国などという欺瞞めいた宗教国家に向けられた慨意である。
かつてのセイセイもシシクシロと同じ目をしていたのだ。
「また、作れば良い」
それが出来るのだから。マキジャクが死んでも、記憶を取り戻したセイセイなら全く同じマキジャクを作る事ができる。人格や記憶さえ再現出来る。だが、全く同じ物が出来たとしても、それは異なる。

「同志セイセイよ、とりあえず地球に帰って来たまえ!我々の齟齬について話し合おうじゃないか。我々は理解し合える筈だよ!」シシクシロは言った。

「クソッタレ!」セイセイは言った。
「きゃあ!」マキジャクが悲鳴を上げた。
「ボボボボボ」シシクシロの操るウォーゼの小人が黒い霧を吐き始めた。それが野獣の形に変わっていく。

「ボボボボボ」マキジャクの中の黒い霧が周囲の野獣に反応して溢れ出てきた。
セイセイを挟んで両者がボボボボと黒霧を吐いては畏怖の野獣が大きく育つ。
野獣は「おぞましさ」を喚起する。種族によっておぞましい事の感覚は異なる筈だが、個々の感性が持つ忌避感、嫌悪感を捉えて等しく「恐怖」を与える。
ウォーゼが忌民として嫌悪される事、黒霧の獣が畏怖の野獣として恐怖される事。そうした感情の負を扱う事がシシクシロの嗜好なのだ。

セイセイは野獣を前にして息が詰まるような嫌悪感に支配された。身体が野獣を拒絶して動くことも能わない。野獣がセイセイを見て擬々と嗤う。

「セイセイ!」体内の黒煙を吐き切って正気に戻ったマキジャクが、かつて神の国に暮らした伴侶を発見した。野獣の黒霧が封印した記憶領域が、野獣を排出した事で活性を得て封印が解けたのだ。長い間の蒙昧が晴れて、マキジャクはアイヌアとして暮らした200年の記憶を得た。
そして目撃した光景は、伴侶が悪しき害獣によって囚われようとしている姿であった。突如として危機である。
「きゃあ!」
マキジャクは悲鳴をあげた。銀の鈴の鳴るような清浄の美声だ。
その美声を聞いて、シャモジや、イスが駆けつけた。

「何、コレ?」シャモジが言った。
「野獣!」ソマが言った。
現れた友人達がセイセイの気持ちを程よく和らげた。畏怖の野獣による恐怖の縛縄が解れた。
「お揃いだな!」
シシクシロの幼体が言った。
「ヒタタの頭が割れてる!」

その隙をついてセイセイもホムンクルス達を呼び出した。眼球文様の扁平な生物が燐光を放つ。周囲に淡い光が明滅する。扁平な生き物がセイセイからぞろぞろと這い出して、野獣の肉体を固める。
「何だ、これは。野獣が齧られている」シシクシロは言った。
そしてセイセイは赤子の如き黒蠅を放った。
黒蠅達が野獣を取り巻いて、野獣の黒霧を啜る。
「野獣を食べてる!」シャモジが言った。
野獣が苦しみ、セイセイのホムンクルスから逃れようと暴れる。野獣は黒霧に拡散できるので、野獣を倒す事は出来ない、とされていたがセイセイは野獣に備えて対野獣討伐専用のホムンクルスを開発していた。

「セイセイめ!」シシクシロは悔しがった。またしてもセイセイに負けた。
野獣は黒蠅に啜られて、力を無くした。
「野獣を退治できる人がいるなんて!」ソマは言った。
セイセイ達はシシクシロの魔の手を退けたのだ。一同はセイセイを称えた。マキジャクはセイセイに駆け寄った。二人は伴侶として見つめ合った。
「これからどうするの?」
マキジャクは言った。
「新たなアイオーンが始まるんだ」
セイセイは言った。月面で新たな律法を作り、新たな世界を作る。月面のアイオーンが始まるのだ。

その時。

僅かに残った黒霧が、憎むべきセイセイを最後の力を振り絞って睨めつけた。残存する黒霧の自我が、擬々と歯軋りした。そして、それは安堵に包まれた人々の、その中心にいる幸福の二人に尖鋭の神経を集中させ、細く長く鋭い槍となってセイセイとマキジャクに向かってその身を放った。
マキジャクはセイセイの背後に澱んだ黒霧が凶暴のファランクスとなって二人に尖突するのを見た。寸毫、狂槍から逃げる間は無い。マキジャクは目を瞑った。

黒霧の最後の力はセイセイの胴腹を貫いていた。
黒霧の自我は英雄を幽冥門の道連れにした事に愉悦し、擬々と嗤って消失した。
セイセイを囲んだ仲間たちは、セイセイが突然の凶刃の犠牲となった瞬間を目撃し、セイセイが絶命する緩やかな時流を見た。
黒霧が消失した跡にはセイセイを貫く孔が開いた。その孔からセイセイの血が噴き出す。

「ウワハ……ッーーーーー!」
その静寂を破ったのはシシクシロの哄笑であった。
「死んだな、同志セイセイ!」
2000年に渡る私憤の仇敵セイセイが死んだ。シシクシロが繋がるウォーゼの小人は死んでいくセイセイと青褪める仲間たちが大いに愉快で、歓喜に笑った。あまりに笑い過ぎて、ウォーゼの小人の肉体に限界が訪れて、小人は白眼を剥いて血を噴き出した。
「セイセイが死んだ!セイセイが死んだ!」
ウォーゼの小人の肉体的限界を超えてシシクシロは狂喜乱舞し、ウォーゼの小人は体組織が寸断されて死んだ。

シシクシロが消えて、その場で喋る者はいなかった。英雄が死んだ。その事実に仲間たちは沈痛の奈落に堕ちた。眼前には二体の死体がある。憎むべきシシクシロの分身ウォーゼの小人の残骸と、それからシシクシロの奸計により即死した英雄の死体。

「セイセイ!」
兎のホムンクルス達がセイセイの元に現れた。兎達はセイセイが死んでいる事を瞬時に理解した。
「そんな馬鹿な!」
兎の親分が言った。兎達は血濡れるセイセイの死体に群がった。
「セイセイが死んだ!」哀哭と叫ぶ。

兎達の哀哭に呼応したのか、その場にいたセイセイの仲間たちは不可思議な光景のはじまりに気付いた。セイセイがかっぱ橋で買った巨大な鉄フライパンが軟柔に形を変えながら光っている。それが、シシクシロの手からなる邪悪なもので無いことは、灯明の如く和らいだ光からも分かる。フライパンは既にフライパンの形を無くして、白い小獣の姿となり、また拡散して白い霧となり、次に白く光るセイセイの姿になった。

「何?」鉄フライパンの白く輝くセイセイが言った。
「何が?」セイセイの死体を取り巻く仲間たちが言った。この白く光るセイセイが何者なのか知る者はいなかった。
「あれ?俺が死んでる?」白く光るセイセイが言った。
「死んでるわよ、あなた」マキジャクが言った。
「死んだよ」シャモジが言った。
「本当に?死んだの?」白く光るセイセイが言った。それで、白いセイセイはセイセイの死体に近付いて心音を聞いた。心音は止まっている。次に白いセイセイはセイセイの死体の眼球を見て虹彩の働きを確認した。瞳孔が開いたままで虹彩の働きは失われていた。更に白いセイセイは死体の口唇に掌を当てて呼吸の停止を確認した。
「死んでるね!」白いセイセイは言った。
「死んでるのよ!」マキジャクが言った。

「ううむ」白いセイセイは唸った。
「エントにアタニ。お見受けした所、君たちはセイセイが集めた仲間たちだな?」白いセイセイは言った。
「それから君はマキジャクだ」
「更にはウサギのホムンクルス達」
白いセイセイはひとりずつを指差した。

「セイセイの仲間である君たちに提案がある」
と、白く輝くセイセイは言った。
その、提案を彼らは聞いた。そして、端的に困り果てた。

白く輝くセイセイはセイセイの生み出したホムンクルスである。五年前にセイセイがシシクシロの黒霧に襲われて記憶が封印される直前に、セイセイは白獣のホムンクルスを自らに憑依させて黒霧の侵食を妨げた。その白獣のホムンクルスはセイセイの中で黒霧の侵食を防ぎながら、セイセイをひとつの方針に導き続けた。その声はセイセイには聞こえなかったが、セイセイの無意識は声に呼応して行動方針が定まり万端、事は成った。セイセイの命を受けた白獣は、月面でセイセイが兎のホムンクルスと交わる事で覚醒し、その役目を終え、消える予定であったがセイセイが白獣に擬骸を与え、擬似生命の命を繋いだ。その擬骸こそセイセイがかっぱ橋で買った巨大な鉄フライパンであった。鉄フライパンの中で眠っていた白獣はセイセイの死と共に目覚めたのである。

「セイセイの仲間である君達に提案がある」と、白獣は言った。
白獣は擬似生命なので、物体に宿る事ができる。そして、その無生物は生物に転じる事ができる。
「つまり」
白獣はセイセイの死体に命を与える事ができる。その場合、セイセイの身体が持つ記憶や人格は元通り復元されるだろう。だが、それは仮宿の命を得たセイセイであって、厳密にいえばセイセイでは無い。
勿論、セイセイ本人にとってもそれは分からない。彼は生き返ったと思うだろう。
「あなた方もセイセイが生き返ったと思うだろう」
だが、セイセイは死んだのだ。白獣の人工生命がセイセイを活かしているに過ぎない。
「そのような意味合いで僕ならセイセイを生き返らせる事ができるけれど、どうする?」
と、白獣は言った。

「そりゃ勿論」とシャモジは言った。生き返らせるに決まっている。人格も記憶もセイセイなら、それはセイセイ本人に違いないのだから。我々は英雄を失う訳にいかない。
「しかし」とイスは言った。生命が異なるのだからそれはセイセイでは無い。我々が得るのは偽物のセイセイだ。
「それなら」とシャモジは言う。セイセイが死ぬ方が良いのか。
「既に」セイセイは死んだのだ。その事実は変わらない。
「俺は」と兎の親分が言った。セイセイには生きていて欲しい。例えそれが偽物だとしても。セイセイの温もりが俺たちには必要なのだ。
「私は」ソマが言った。セイセイの死を受け容れるべきだと思う。セイセイを生き返らせる。それこそ我々が憎んだシシクシロの思想なのではないか。我々が新しいアイオーンを創世するのだと決めた以上、我々は悪しき技術に頼るべきでは無い。
「理屈では無い」シャモジが言った。要するに俺たちがセイセイを求めているかどうかだ。そして、俺たちはセイセイを必要としている。例えそれがセイセイの複写だとしても。
意見は分かれた。そして互いの主張は平行線を辿っている。
「早くしないと生き返らせる事が出来なくなるぞ」白獣は言った。
「我々に求めるべきは迅速な決断だ」とシャモジは言った。不可逆性の可能性で考えるべきだ。いまセイセイを生き返らせなければ、我々はセイセイを永久に失う。だが、いまセイセイを仮宿に生き返らせれば、我々は更に選択の機会を得る。
「即ち、仮宿のセイセイを生かし続けるか否か」
現状、結論が出ないのであればひとまずの解決策としてセイセイを生き返らせて、我々は更なる検討の時間を重ねるべきだ。
「いいや」イスが言った。もしセイセイを仮宿に生き返らせてしまったら、それはセイセイの新たな生命だ。それを殺人する訳にはいかない。例え我々の選択肢が間違えていて、それが大きな不幸を呼んだとしても我々は新たなセイセイを殺人出来ない。

「早くしろ、本当に間に合わなくなるぞ!」白獣が言った。
「セイセイを生き返らせてくれ!」兎が悲痛に叫んだ。
「因業を背負うな!」イスが言った。

いま此処には問題解決するための五人の票がある。アタニであるシャモジ。エントのイスとソマ。兎の親分。そして、「わたし」とマキジャクは考えている。
票が真っ二つに割れている。つまり、多数決で考えるならば、決定権はマキジャクにあると言えた。セイセイの「死」を受け容れる事は自らの「死」の受容に繋がっている。イスやソマはエントだ。長い時間を生きてきた。彼らは自らの死にも頓着が無い。
シャモジは寿命が10年しかない。ウサギ達も死の恐怖に怯えている。

マキジャクは考えている。
私は?月面のアイヌア達は?

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第十六章「    」


100年の時が過ぎて、マキジャク達の暮らした月面では月面の市民たち、つまり元囚人とレジスタンスと元刑務官達が和やかに協業して、月面刑務所街の復興が果たされた。

駅前商店街も大きく賑わっている。アタニ商人との交流も盛んだ。月面と地球の世界政府の国交は断絶されたが、月で開発された技術と地球で開発された技術は、製品がアタニ商人によって貿易される事で交換されている。

イスとソマの子供たちはいま三人いる。
まだ就学年齢だ。イスとソマが交互に子ども達に教科書の内容を教えている。
最初の子ども、アダンは今年で100歳になるので、あと20年で義務教育の学課を終える。彼は月面で酸素燃焼発電所を作るのが夢なのだと語る。月面でエント達が増えれば、彼らの生み出す酸素が大きなエネルギーとなる。だが、まだ月面のエントはイスとソマ、その子供たちの五人だけ。五人目の子どもはまだ新株で樹木の胎内にいる。イスとソマは新しい子供の名前を考えている。地球の世界では、個々の名前は人口統制局の職員が辞典をめくりながらおざなりに命名していた。自分たちから生まれる子供には、イスやソマが好きな言葉を選んであげようと思っている。
はじめの子どもがアダン。エント達の先祖の名前だ。それから二番目の子供がカイヨウ。海の事だ。三番目の、これから生まれる子供は……。

彼らは月面刑務所街の中の森林公園に暮らしている。アタニからリスを買って森林の中で飼っている。
エントの知泉を頼って月面の市民達が誰彼現れては教えを請う。
二番目の子どもカイヨウは、まだ義務教育の中途で生まれて50年しか経っていない。幼いエントだ。ものを作るのが好きで小さな重力発生装置を作っては、分解して改良を加えてまた組立てる遊びをしている。

人間の作る造形が好きだ。知識を与える代わりに人々がイスやソマの偶像を作ってくれる。そのような工芸を見るのが好きだ。人間たちが歌を歌う。その歌を聞くのが好きだ。
平和だ。

兎のホムンクルス達が手紙をくれた。兎のホムンクルスの親分が死んだのだと知らせてくれた。
セイセイが作ったウサギのホムンクルスには自我があり、自我故に常に死の恐怖に震えながら暮らしている。だが、彼らは震えながらも前向きで明るさを忘れない。
セイセイの事が好きで、月面のコロニーから離れた廟堂の管理をしている。

「お客さんが来たよ!」
カイヨウが外遊びから戻って言った。
アタニ商人のシャモジだ。
「来たよ」シャモジが言った。
アタニ達は10年で世代交代するので、かつてイスが出会ったシャモジの後継である。だが、彼らは記憶を共有するので、既知の友人として交流が途絶えない。 地球で暮らしていた頃にはアタニの友人が出来るなど考えられなかった。
「新しい体はどう?」イスは言った。新品の身体に記憶が移植されている。情報処理装置は新たな仕組みを備えているので、考え方は今までのシャモジでは無い。それを「新しい身体」と呼ぶことが妥当かどうか。寧ろ、「はじめまして」と挨拶をするのが正しい。だが、イスなりの感傷があって世代交代したシャモジにはいつも「新しい身体は」と挨拶をしている。
「情報処理速度が今までよりも20%速い」とシャモジは言った。色々な事が思いつくから、喋る速度が間に合わないなと笑った。

「お土産があるんだよ」シャモジが言った。
古い記憶を閲覧している時に見つけたデータらしい。
「こんなものが気に入るか分からないけれど」
と、彼が差し出したのは浅草鷲神社の酉の市で買った宝船だ。
「素晴らしい造形だ!」イスは笑った。


(了)
SF小説「ゴッド・ウィル・B・デッド」
御首了一

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#三つの願い
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#ネムキリスペクト
#SF

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スクロールしても終わりが見えないシリーズ。現在3万文字。書く体力が尽きて後半はかなり端折っているので、そのうち改稿したいと思います。(もっと長くなります)
こんなに長い小説を読んで下さった方が果たしているのでしょうか。貴重なお時間を費やして本作品に付き合ってくれた方、誠にありがとうございます。それと、新年あけましておめでとうございます。本年における皆様の幸せをお祈り申し上げます。謝謝。至幸甚。
2024元旦 御首了一

1月9日 改稿
広げた伏線が回収できず、とうとう50,000文字に達してしまった・・・!
某公募に出そうと思っておりましたが、完全に文字数オーバーで修正の時間もなし。こんなに長い文章を読んで下さる方がいるんでしょうか・・・?
初稿からの変化
・シシクシロ氏が沢山喋る
・新キャラ「ソマ・アオキガハラ」登場
・新キャラ「野獣」登場
・新キャラ「白獣」登場
・月に移動してからラストまでの展開を大幅改稿