短編小説「パープル」
間宮は?
と僕は尋ねた。
死んだわ。
と依子は言った。
間宮は、依子の恋人であった。
依子は肩に。
露出された彼女の白い柔肌に、黒色の海洋生物を乗せていた。
アメフラシ。体長20センチ程の軟体生物。
肩と、鎖骨と鋭角に曲げた肘の上にも。
依子の身体を三匹のアメフラシが這っている。
依子はアメフラシを肌に這わせて遊んでいる。
「ねえ、セックスの話をしましょう。」
と依子は言った。
「アメフラシがどうやって交尾するのか教えてあげる。」
依子は話し始めた。
僕はうつろに依子を見ていた。
僕たちもきっとすぐに死ぬ。
僕が話をまともに聞いていないことに気付いたのか依子は話を中断した。
「ねえ、食べちゃおうか。」
「何を?」
「間宮を。」
「まさか。」
僕は笑った。
依子は笑わなかった。
「まさか。」
僕は繰り返した。
依子は笑わない。
「そうでもしなければ、あたしたちも死ぬのよ。」と依子は言った。
「そうしたところで、僕たちは死ぬんだよ。」と僕は言った。
海中に埋設された研究所に僕たちはいた。
土砂降りが降り出して、雨宿りがてら見学をするつもりだったが、大きな地震が来て僕たちは施設内に閉じ込められてしまった。
此処には食料も水分も備蓄はなかった。
研究所には大きな水槽があって、其処にアメフラシが飼育されていた。
海と水槽が循環式の濾過装置で繋がっていて、水槽は海水で満たされている。
波立ちながら海水は丸窓の採光を反射して、研究所の壁に光の水紋を描いていた。
それを見る度に僕の喉がごくりと鳴る。
閉鎖空間の中で僕たちの渇水は深刻になるばかりだ。
人間は四日も水を飲まないと脱水で死ぬ。
体液中の電解質が欠乏すると、細胞は活動を止める。生命を維持する事を止める。筋肉が痙攣して臓器が機能不全を起こして死ぬ。
死の予感に囚われた僕達に、水の煌めきは、僕達が求めて止まない生命の象徴であった。
渇きの中で間宮は水槽を満たしている海水を飲みたがった。地震の時に怪我をして、失血した間宮は僕達の中で最も先に乾きが訪れていた。
海水を飲みたがる間宮を、依子が止めた。
「海水を飲むと」
依子は根気よく説明をした。
人体の塩分濃度は約0.7%。対して海水の塩分濃度は3%である。
海水を飲むと血中の塩分濃度が上がり、浸透圧を保つために細胞中の水分が血中に排出されてしまう。その結果、細胞が脱水を起こし、原形質が破壊される。
人体の各所に酸素を運ぶのは赤血球であるが、海水を飲むと赤血球も破壊されるので、人体は酸素を運ぶことができなくなる。だから呼吸困難を起こして死ぬ。
海水を飲むと、呼吸が出来なくなって死ぬのだ。まるで海に沈んで溺死するかのように。
怪我が原因で、血を多く失った間宮が、僕達の中で真っ先に死ぬのは明白の事実であった。水を飲む事を制されて間宮は依子を罵った。
世界を呪った。
依子の肩口からアメフラシを奪い壁に向かって投げつけた。
アメフラシが壁に潰れた。
壁にはアメフラシの紫色の色素が付いて、幾つかの筋となって垂れた。
どうしてこうなった、と間宮は境遇を呪う。
そう。
どうして、こうなった。
僕もまた長年に渡って自ら問い続けてきた。
依子。
どうして、僕達は、こうなった。
その深夜。
僕たちは眠っていた。
浅い眠りだった。
微睡みの中で依子の緊張を感じ取り、僕も目を覚ました。
依子と間宮が無言で視線を交錯していた。
二人の姿を非常照明のブルーライトが照らした。
ブルーライトはゆっくりと点滅する。
二人の姿が浮かび上がり、そして闇に溶けた。
丸窓から差し込む月魄の影が間宮を照らした。
海水を飲んでいた。
怪我をした体を引き摺りながら自ら水槽に辿り着き、間宮は海水を飲んだ。
気が付いた時には既にどれ程の海水が、間宮の喉奥に流れたのか知れない。
依子はもう何も言わなかった。
間宮は手で水を掬って幾度も口に運ぶ。
奇態な光景であった。
間宮は水を飲んだ。一時は満たされたかに見えた。だが、復た水を飲んだ。
止むことがなかった。その挙動に間宮自身が困惑していた。
間宮は喉が渇くと呻いた。
海水を飲むほど間宮の乾きは増したように見える。
海水を飲むほど呼吸困難は加速し、息が絶え絶えになり、肩で大きく呼吸をしようとした。
息ができない。
息が。
窒息して間宮は、喉を掻き毟り、その場に崩れ落ちた。
もう声を出すことも出来なかった。
依子は懐中電灯で間宮を照らした。
間宮の顔色は昏い紫色に染まっていた。チアノーゼを起こしていた。
震戦して間宮の顔色が蒼白に変わりゆく。
依子は黙って「それ」を見ていた。
停電した館内は非常発電装置で動いており、青いブルーライトが非常用に点滅する。
刻刻と点灯する青い影が、間宮の死を宣告する時計のようだ。
間宮が徐々に死体となる。
僕達は間宮を壁際に運んだ。
壁際に警報装置の赤いランプが灯っていた。
その赤に、ブルーライトの点滅が溶け合って二つの影は、蒼白した間宮を紫色に染めた。
依子と目が合った。
僕達も酸素欠乏を起こしており、犬のように小さな呼吸で、全身を震わせながら喘いでいる。
恋人である間宮が死の間際にいて、僕は依子に掛けるべき言葉が見つからない。
間宮は渇水の果てに錯乱を起こしたが、僕と依子もまた同じ道を辿るのだ。
既に思考回路は真っ当に働かない。
「ねえ」と依子は言った。
「針でつついて滲んだ血を、飲むの。どう?」
死んだ間宮の血を飲もう、と僕を誘う。
依子と僕もまた明滅する紫色の中にいた。
アメフラシが噴出す紫煙のような。
「アメフラシの交尾の話が途中だったろう?聞かせてくれよ。」
僕は言った。
アメフラシは体長が20センチくらいで日本各地の浅瀬に棲んでいる。岩場の磯にいるのをよく見かける。草食でおとなしい生き物で、別名は海兎。これはアメフラシの姿が兎に似ていることに由来する。
アメフラシの触覚が兎の耳に見える。
背中の瘤が丸みを帯びた兎の背中に見える。
とは言ってもアメフラシは貝殻が退化した巻貝の仲間で、姿は殻を亡くしたカタツムリに似る。刺激を受けると紫煙を噴出して外敵を攪乱する。
雌雄同体である。
頭部にペニスのような突起があって、これを他の個体の尾部にある生殖孔に挿入する。挿入している個体の生殖孔には他の個体が生殖器を挿入する。そうしてアメフラシたちは数珠つながりに性器を挿入し合って接合する。
と、依子は訥々と語りながら、手の拳をアメフラシに見立てて説明をした。続いてウミウシの交尾との違いを説明し始めたが意識が朦朧としていた僕は話の途中で失神した。
気が付いた時、依子は間宮の死骸に唇を当てていた。
僕が起きたことに気が付いた依子と目が合った。
依子は間宮の血を飲んでいた。
依子の唇から血と唾液の混じった雫が垂れた。
依子は体を硬直させた。僕が依子の吸血行為を制すると思ったのだろう。
僕は提案した。
依子は間宮の死骸の血を飲んでも良い。
その代わり僕は依子の血を飲む。
「いいわ」と依子は言った。
「何処を刺しても。」
僕は依子の内腿に針を刺した。
白い肌の上に小さな赤い点ができ、その点が膨らんで血の塊になった。
僕は太腿に唇をあてた。
乾燥した口腔内に粘りのある血液が広がっていく。
依子は間宮の血液を、体液を啜る。その依子の血を僕は啜る。
僕は間宮の死体から依子を引き離して抱きしめた。依子は抵抗しなかった。
脱水を起こしている僕たちの赤血球も機能不全を起こしていて、僕たちは酸欠に喘いでいる。
心臓がか弱く、小刻みに鼓動をする。僕の心臓も。それに重なる依子の心臓も。
戦慄いている。
「あ。」と依子が言った。
「あれ。」
研究所の壁面に大きな丸窓がついて海中の様子が見える。
そこに一体の水死体が張り付いていた。
渦から逃れることができないのか丸窓の外で揺れながら、離れずにいる。
この前の人かしら。と依子が言った。
僕たちは旅行の初日、崖から落ちる人を見た。
依子は若い女だったと言い、間宮は初老の女だったと言った。僕も若い女だったと思った。水死体は膨らんでしまって、もはやそれが女かどうかもわからなかった。
僕と依子は間宮の死体に背中を預けて、その水死体を見ていた。
夜が明けて朝になっていた。
海中に朝日が差し込んで光の帯を作っていた。
水死体も、光の帯の中に泳ぐ海洋動物のように、いつまでも波に遊んでいる。
僕は依子の唇に、僕の唇を重ねた。
依子の唇は乾燥して強張っていた。唇のささくれが刺さる。
依子もまた僕の唇に唇を重ねたが、もう僕たちの感覚は渇きの中に鈍麻していた。唇を重ねれば重ねるだけ、僕たちは孤独になった。
子供の頃のことを覚えている?
と依子が尋ねた。
どんなこと?
僕は聞いた。
一緒に遊んだことがあったわね。
近所だったからね。
よく他の子と混じって一緒に遊んだね。
かくれんぼをした事があったわね。
周りは他に誰もいなくて、わたしたち一緒になってお社様に隠れたわ。
格子戸の向こう側で遊んでいる子供たち。
私たちの背後には影。
身を縮ませて私たちは潜んでいた。
あなたの息が首筋にあたるのがくすぐったかった。
そんな話を聞き乍ら、いつの間にか僕はお社様の格子戸の中にいて、隣にいる依子の身体を抱き寄せていた。その外で無邪気に遊ぶ子どもたち。
大人になった僕達にお社様は狭い。
依子の髪を梳いて、耳朶を噛む。依子から吐息が漏れた。
依子の腕が僕の首筋に回る。
僕の手が依子の背中を弄る。
服の裾から手を入れて依子の生身に触れた。
湿潤として温かな皮膚。
湿度のある吐息。
潤沢な唾液。
「大丈夫?」
依子が言った。
僕は目を開けた。
「夢を見ていた。」
僕は言った。
「どんな?」
「子供の頃の夢。夢を見て思い出した事がある。」
「なに?」
「子供の頃に水天神様に罰当たりな事をして、それ以来僕は雨男だ。」
依子は笑った。
「じゃあ、此処にも雨を降らせてよ」と依子は言った。
何処から何処までが夢だったのだろう。
丸窓から水死体は消えていた。
間宮の死体もなくなっている。
依子を抱き締めた事は?
依子の渇いた唇の感触は?
重ね合わされた情動は、夢だったのだろうか。
「依子」
僕は彼女の名前を呼んだ。
なあに。
と彼女は答えた。
君が好きなんだ。
ずっと前から。
或いは最初から。
僕は言った。
中学校に入って依子は水泳に入部した。バタフライの強化選手だった。
水中に踊るしなやかな筋肉の躍動。
上下する肺臓。
活発な呼吸。
泳ぎ終えて依子は呼吸を整えて、再び開始線にセットした。
「位置について」と言ってコーチがピストルを構える。
依子の肉体に筋肉の緊張が漲っていく。
プールの上には青い空が、広がっていた。
天の高みは果てなく、宇宙まで続く無限。
其処には永遠があった。
その姿を眩しいと思った時からずっと僕は君の事が好きなんだ。
再び目を開けると夜になっていた。
依子がいない。
青い光が、断続して点滅する。
その光の中に間宮の死体が浮かぶ。
僕は水槽に近づく。
アメフラシたちが水槽の中に暮らしている。
幾匹ものアメフラシがつながって交尾をしている。
一匹のアメフラシがペニスを挿入しながら反対側にある産卵管から卵を産んでいた。黄色い毛糸玉のような卵塊、が少しずつ伸びていく。
背後を振り返ると間宮と依子が抱き合っていた。
明滅する青い光、赤い光の中に艶めかしく二匹の獣が絡み合っている。
気が付くと僕は丸窓の外にいて、愛し合う間宮と依子を眺めている。
僕は渦の中の水死体であった。
迷妄する幻覚が繰り返し現れる。
いまが現実なのか幻覚なのかもう判別がつかなくなった。
知覚の中で僕は暗闇にいた。非常発電装置が動作を停止したのだろう。
ブルーライトも点滅しない。
真っ暗な夜。
真っ暗な海。
轟々と海鳴りが聞こえる。
研究室にあったアルコールランプに点火して僕達は灯を囲む。
温かな光であった。
焔が揺れている。
僕と依子を照らしながら。
依子が僕に身体を預ける。
僕もまた依子に身体を預ける。
アルコールランプの周りにホルマリン漬けの海洋生物を並べる。
「綺麗だね」
見た事もない海洋生物たちの姿は、依子の肉体の各部位に似ている。
依子の乳房のような海洋生物。
依子の唇のような海洋生物。
依子の女性器のような海洋生物。
依子の眼球のような海洋生物。
「ああ、綺麗だね」
そして目を開けると、依子は床に倒れていた。
依子。
僕は彼女の名前を呼んだ。
死んだの?
依子は死んでいた。
だが、起き上がった。
「わたしを一人にしないでね」
依子は言った。
「捕まえていてね」
かつて。
僕達は確かに結びあっていた。愛の言葉など必要なかった。
だがいつしか僕達を括る縄は絆され互いを見失った。
どうしてこうなった。
間宮の隣で笑う君を見ながら僕は問い続けた。
「もう離さないでね」
依子は、もう動けなくなった僕を、その胸に抱き寄せた。
依子の湿潤として温かな皮膚。
柔らかな肉体。
艶やかな唇。
心臓の鼓動。
豊かな血流。
十分な肺呼吸。
僕たちの感覚を、視界を殺すように黒い雨が穿っていく。
豪雨だ。真夏日のスコールのような。
君の姿が雨に消えていく。
独りになって立ち尽くす僕を雨が穿つ。
雨が、穿つ。
天を仰ぐ。
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果てない天の高みまで、青い空が広がっている。
「位置について」と言ってコーチがピストルを構える。
呼吸を整えた依子は再びプールの縁にセットした。
依子の肉体に筋肉の緊張が漲っていく。
波が彼女の肉体を揺らした。
永遠が、其処にあった。
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青空。
かつての夏日のような。
鉄格子の窓から僕は空を見ている。
あの時、アルコールランプの火がホルマリンを発火させ、研究室に火災が発生した。けたたましくサイレンが鳴り、無機質な人口音声が非常事態を繰り返した。
そして天井のスプリンクラーが作動した。
研究室に雨が降った。
渇水して死ぬばかりであった僕の上にも雨が降り注いだ。
針のような鋭さで、スプリンクラーの雨が僕を穿つ。視界を塞ぐ。
さながら豪雨であった。
火はとうに消えた。 だが、火が消えても尚、雨は止まない。
依子に、間宮に。死体たちに。
雨が降る。
喉がごくりとなった。水だ。乾いてひび割れた皮膚から水分が吸収される。僕の体は自然と水分を吸収し、僕は生き永らえた。
非常放送設備と連動した緊急電話が消防局に通報し、救助が来た。
そして僕は逮捕された。
消防隊が発見した時、間宮と依子の死体は著しく損壊されていた。
僕が二人を殺し、死体を損壊したのだ、と検察が糾弾する。
「死体が切り刻まれて、一部が食べられていた」と検察が言った。
アメフラシたちが、依子に、間宮に群がったのだ。
僕は無実を主張したが二人の損壊部分から僕のDNAが検出された。
証拠ばかりが揃って僕は抗弁の気力を失くし、こうして拘置所に入っている。何もかもがどうでも良く、拘置所の中で僕は空ばかり見ている。
毎日食事が配膳されるが、死ぬかと思うほどの飢餓を体験した僕は三度の食事に対して真摯に手を合わせるようになった。
脱水による酸素欠乏から僕の大脳辺縁系は破壊され幻覚が見える。
光の帯の中を虹色の蝶々が飛んでいる。
文机の上でアメフラシたちが戯れる。彼らは海草を食べ、眠り、交尾する。
部屋の片隅には女だか何だか分からない水死体が転がっている。
「どうしたの」
僕の隣にはいつも依子が笑っている。
依子は掌を開いてみせる。
一枚の貝殻があった。
アメフラシは体内に一枚の貝殻を隠し持っている。彼らが巻貝だった時の名残だ。薄片に依子の肌が透けている。
「綺麗だね」
依子が言った。
「そうだね」僕は言った。
「まるで、角膜のようだ」
君の、美しかった瞳の。
僕は依子の唇に僕の唇を重ねた。
湿った吐息。
湿潤の唇。
潤沢な唾液。
軟体生物の如き舌。
穏やかな日々が過ぎる。
依子。
僕達を括る縄。
青空を仰ぐ。
そして永遠。
短編小説「パープル」村崎懐炉
20200530 初出。
20200531 表紙作成。「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー【雨】に参加」
20210208りりかるさんによる朗読「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー【紫】」
20210305 全体的に改稿。