伝承異聞「人魚」

老翁は漁師であるので不思議な経験を幾つかしている。中には眉唾とも思われる話もあるが、敢えて真偽を問わず面白いと思った話を記録する。

老翁が未だ若かりし頃に人魚に出会った話。

老翁が小舟で沖に出るとおいおいと呼ばれた。
空耳かと思って漁を続けたが、やはりおいおいと呼ばれる声がする。

老翁は海で呼ばれても返事をしてはいけないことを知っていたので、やはり黙々と漁を続けた。

横目で声のする方角を見ると、波の間に女が半身を立たせていた。
その女が老翁を呼んでいたのである。

すわこれは海の魔物じゃと老翁は思ったが、女が美しかったのでつい返事をしてしまった。

女は乗っていた船が難破したので、三日もこうして波間に漂っている。ようやく人を見つけので助けて欲しいと言った。

老翁は美しい女にもっと近付きたかったが、近寄って舟を沈められては困るので、遠くから声をかけた。

助けてやりたいのは山々であるが、この舟も見た通り小さいのでお前を乗せる訳には行かぬ。
浜まで案内してやるから泳いで付いて参れ。

女は分かったと返事をして舟の横に付いて泳ぎ始めた。

月が波間に煌めいていた。

翁は女に尋ねた。
お前は何処から来たのじゃ

女は答えた
海を遥々超えた所に我らのおる島があるのじゃ

家族はおるのか
もうおらぬ
父も母も去んだ
良人はおるのか
おらぬ 去んだ
子はおるのか
おらぬ 去んだ

お前の島はどんなところじゃ

いつも夏のような所であったとよ
浜辺には赤い花が綺麗に咲くのじゃ

良いところか
良いところだ

漁は二艘の舟で網を曳くのじゃ。
そうすると大きな魚がわんさと捕れる。
真っ青な魚も真っ赤な魚もいる。
捕れすぎて網が破けることもある。
網を縫うのが我らの仕事じゃった。

村は食うに困ることが無い。魚も果実も木の実もたんとあるのじゃ。豊かな所じゃった。

女の話は翁がかつて見聞きしたこともない話だった。沖に出て舟を漕いでもそのような島があるとは知らない。

翁は夢中で女の話に聞き入った。

浜が近付いてきた。
浜の家々は寝静まり深夜に沈んでいた。
翁の家は浜の村にある。
老いた母親と一緒に暮らしている。

おう。
と翁は言った。

浜じゃ。

お前はどうする
と女に尋ねた。

俺も連れて行ってくれよう
と女は言った

翁は考えた。
女を急に連れて行ったら老母が驚くだろう。まず女をここに待たせて事情を母に説明し、納得させるべきである。

翁は女を波間に待たせて、先に家へと向かった。
そして布団に横になっている母を起こそうと近付いた。が、母は目を爛々と輝かせて起きていた。

お前に魔がついたのじゃ
と目の見開いた母は言った。
海に戻ってはならぬ
翁は弁明したが母は聞き入れることはなかった。
母の力は強く翁を取り押さえ縄で括ってしまった。
翁を転がして老母は仏間の観音に手を合わせて一心不乱に念仏を唱えた。

翁は必死に懇願した。

迎えに行くと言ったのじゃ。
母殿、後生じゃ。
後生じゃ。
約束をしたのじゃ。

母は翁の口を轡した。
翁は声も出せなくなり呻いた。

翁の耳に歌が聞こえた。
女の声であった。
美しい異国の歌。
歌声は物悲しく長く続く。

母の観音経は益々強まった。
翁は呻いた。
物狂いのように暴れた。

長く続く歌も止んだ。
歌はもう聞こえない。
老母は読経を止めた。

翁は外に飛び出した。
女の姿は何処にもない。

十三夜月は妖しく
波間に煌めいている。