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その日

そうだ、俺はこの瞳が現す淡い悲しさに惹かれたんだと思った。
その瞳の奥には、俺が知る事の出来ない深く濃い藍色をした悲しみが潜んでいるのだろうと思わせる様な表情があった。
何万もの涙の粒で洗い続けられている瞳は、豊かな潤いに包まれて、キラキラと輝きを放っている。
その輝きがより一層に藍色の悲しみを淡い表現に変えているのかも知れないと俺は思った。
いったいどれ程の愁いが彼女の身の上に降り注いだのだろうか。
そして、この瞳の放つ魅力は、悲しみ故だけの輝きなのだろうか。
もしも、その悲しみを拭えたとしたら、彼女のこの瞳の輝きは無くなってしまうのだろうか。
いいや決して、彼女の瞳の魅力は愁いや悲しみを纏っているからなのではないのだと、対面に座った俺には直感的に察したのだった。



彼女は、それ迄は明るく楽しい日常に包まれていただろうに、
徐々に剥がれ落ちていった、幸せの欠片を拾い集めることに頓着を怠ってしまった。
足元に散らばっていた筈の欠片は、いつしか少しづつ鋭さを増して行き、日常生活の不協和音に煽られて塊となって襲い掛かって来たのだろう。
多分、何一つ大きな間違いは犯していなかった筈なのに、僅かな振り返りに疲れてしまっていたのかも知れない。
塊と化した欠片は、彼女の意図しない形となって、突如目の前に現れて牙を剥いたのだろうか。

世間的には良くある離婚と言われる手続きは、受け入れるしかなかったのだろう。
傍にいた筈の信頼が、いつのまにか手の届かない距離を置いて静かに冷たく佇んでいた。
一つ一つにすれ違いはなくても、僅かなズレに気付かずに、剥がれ落ちて行ってる幸せが蓄積さるのを日常の中に置き去りにしてしまった結果だった。

彼女にしてみれば、突然に言い渡された離婚は、その時点で事実を振り返れば受け入れるしかなかったのだ。

それでも、それまでに培って来た幸せの結晶である我が子が彼女の支えを一手に引き受けてくれた。
この子が居れば。
この子さえ居れば、私は生きて行ける。
この子の為にと、必死になって新たな暮らしを築き上げていたのだろうと思う。
しかし、その生活にはシングルマザーとしての試練が容赦なくのし掛かり、彼女らしさを見失わせてしまっていたのかも知れない。
と、同時に、子供からしてみれば、両親の離婚は推し量ることの出来ない疑問や不安や淋しさや辛さを抱え、その答えすら見出だせずに母親だけを頼らなければならなかった。
頼られる重圧を感じながらも、日々の日常生活は維持しなければならない。
仕事をこなして収入を得ながら、学校行事や母親同士の付き合いをしなければならなかった。
正にシングルマザーが抱える典型的な重圧だったのだろうか。

きっと、自分を維持出来なかったのだろう。
女らしさにも母親らしさにも、その影は覆い被さって心が荒んで、我が子に対しても愛情が欠落していたのかも知れない。
そもそもが、両親の離婚で不安や淋しさを抱えていた子供は、壊れて行く母親の所に留まらなければならない足枷など無かったのだ。

そして、まだ幼い子供の判断は父親を選んだ。
独り残されてしまった彼女。
たった一人になってしまった生活。
炊事も洗濯も、学校行事もPTAも無くなってしまった。
誰が食べる分けでもない食事は、凝った物を作る必要性はなくなった。
外出が極端に少なくなったので、洗濯物もめっきりと減り、数日纏めてすれば事足りるようになった。
物音のしない静かな部屋の中で、何かをしなければならない事柄がなくなって、ただただ悲しみだけに身を閉ざし、涙だけを流し続けていたのだろう。


俺は、彼女をその悲しみから救い出せる自信などは全く持ち合わせてはいなかった。
無力な自分に対して絶望だけははっきりと自覚していた。
救える技量など俺は持ち合わせてなどいない。
それでも、放って置けなくて、無暗に言葉だけは紡ぎ合って来てしまったのだった。
つまり俺は、卑怯者に成り下がっている自分を自覚しながらも、優しい言葉を投げ掛け、労りの気持ちを言い表し、労りを偽り続けていたのだった。


無力なクズ男の目の前には、想像以上の可愛いらしさを身に纏った素敵な女性が現れてしまっていた。
一瞬にして、その雰囲気に圧倒されるクズ男。
文章では、カッコいい風体を装い、余裕のある大人の男を演じていた筈なのに、そのカラ元気はすっかりと萎縮して、本来の姿である薄汚いオヤヂに戻ってしまっていた。

何故、こんなにも魅力溢れる女性が、
何故、こんなにも、ちゃらんぽらんなクズオヤヂと出会ってしまったのだろう?
出来る事ならば、一目散に逃げてしまいたかった。
許される事ならば、横縞な下心を洗いざらいぶちまけて、その場にひれ伏して許しを乞いたかった。

通勤時間帯の改札口は、土下座を晒すには余りにも劇的なステージ過ぎるのは言うまでもない。
ここで、土下座などを披露してしまっては、周りのギャラリーにスマホで撮影されてしまい、数時間後のテレビやネットで一躍有名人にされてしまうであろう。
一瞬にして咄嗟の判断が、俺の脳裏を鎮めていた。

成り行きである。
身から出た錆でもある。
兎に角俺は、この可愛い過ぎる女性の目の前に座り、静かなカフェの似合わない雰囲気の中で、
彼女の瞳に魅了されていた。

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