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蜂の針、八十八

「ど、れ、に、し、よ、お、か、な、と」

 時は幕末。世は戦乱。 

 主君への忠義に殉じるが幸せとされた侍が、各々の哲学に則った理想郷を描いて生きることを選んだ、時流の海峡。ある者は新時代の到来に思いを馳せて国家転覆を謀り、またある者はそれでもお上に侍して異人を払うに躍起となる。

 下剋上が横行し、縦横も判然とせぬ、斜に傾いた不安定な時代。

 そこに、時の流れなどお構いなしといわんばかりに我が道──まるで時代を凝縮したかのような、光も差さぬ黒い森のなか──をひた歩く影が、ふたつ。

「うむ。決まりじゃ」

 ひとつは、小柄な体躯に大きな態度を被せた娘。頭から足先までを覆う布切れは薄汚れているが、その身に穢れは一切感じさせない。どころか、むしろ高貴な気品さえ漂う。布の隙間から伸ばした右腕の先端は、世の様と同じく幾枝にも分かれた道の、いちばん右端を差していた。
 
「決まったか、姫」

 もうひとつは、長い髪を後ろに束ね、腰に刀を差した侍風な男。娘──男は『姫』と呼んだか──が、人差し指で示す道の先を確認することもせず、その小さくも荘厳な背中の後を追う。

「こっちじゃ」
「根拠は?」
「右人差し指」
「御意だ。拙者もそれに続こう」

 それだけの意思疎通を交わして、小さな姫と侍は、暗闇の奥へと吸い込まれていく。その足取りには、一抹の迷いも見受けられない。頭上に生い茂る草木を掻き分け、足元に転がる枝を踏み鳴らし、歩を進める。

「ふふん。これは賭けじゃな。さてさて、ヘビが出るか、ジャが出るか……楽しみよのう」
「それだと蛇一択ではないか」
「そりゃあ、森に鬼は住まぬであろう」
「む……それもそうか。このような場所に居を構えていては、道に迷って人攫いも捗るまい」
「相も変わらず、いちいち想像が物騒な男じゃな。そのような心配なら無用じゃろう。ほら、遠くからみれば同じに見えても、近くで目を凝らせば幹の一本、花の一輪、模様や形が違っておる。むやみに迷いはせんよ」

 植物だって、生きている以上、個体差はある──みすぼらしくも煌びやかな姫君は、肩を揺らして、くつくつと笑う。殿からでは表情までは見えないが、笑い声の後に発される言の葉の色を聞けば、艶美なそれは背中に映し出されてしまう。侍はただ、後をついていく。

「しかし、こんな風に森を踏み荒らしては、怒られるやもしれんな。蛇は地の神ともいわれておるし」
「蛇であろうと鬼であろうと、なにが出たところで拙者が叩き斬る。心配は無用だ」
「おいおい。これだけ行をともにして、うぬはまだ儂がわからぬか?」

 軽い雑談に興じながら、闇をさらに深くする大小の陰は連なって、巨影の形を塗り替えていく。もはや垂れる葉は暖簾へ、佇む枝は木板へと化していた。庭を横切って昔馴染みの家へ遊びに向かうみたいな調子で、未開の地に足を繰り出し続ける。

 分岐の度に、決して無為に竦んだりしない。この不釣り合いで不格好なバディには、動乱を生き抜くに必要な資質は、最低限備わっているようである。

 しかして、なにが起こるかわからないのが時流の裂け目。否、この時代に限らずとも、それはいつの世とて等しく──森奥という場所は、お喋りに興じながら飄々と渡れるような場所では、ないのだ。

「わしは心配をしておるのではなく、心の底から──ん」

 姫が立ち止まる。必然、後ろをついていた侍も足を止める。

「どうした、姫」

 賽を振るうような軽々しさで行き先を即決した主の突然の静止に、男はその訳を問う。

「いや──のう、リンマル」

 辺り一帯を見渡してから、振り返った姫の顔は──綻んでいた。
 破顔。破れても美しく。小さな背中にはやはり似合わぬ、妖艶な笑み。

「拙者の名はリンマルではない。輪廻丸だ」
「よいではないか、リンマルで。覚えやすいし」
「一文字しか変わらぬであろう……?」
「リンマル。なにか、音が聞こえぬか?」

 なにか、音。

 呼び名の“ネ”を抜くとか、抜かないとか、そんなことはなんでもよくて──自然あるところには、それに適した種が宿る。根が張る。

ブン、ブン。

「む。これは、羽音……?」
「どうやら、わしらは知らん間に、地だけではなく、巣まで荒らしてしまっておったみたいじゃの」

 迷路のように入り組んだ、森の奥深く。暗闇に飲まれた大自然。
 皮を剥いだ模様が刻まれた幹にも、陽も満足に浴びぬのに咲く花にも。
 自然界のあらゆる事物には、相応の理由がある。

 ブンッ!

「そこだ」

 ぶんっ!

 闇の隙間から黄色い点が飛び出すのと、侍の腰に差さった鞘から刀が抜かれるのは、ほぼ同時だった。
太刀筋が風を凪ぎ、羽の音はひとつ消え、黄色い点が、ぼとりと地面に落ちる。
その正体は、昆虫界でも指折りの、獰猛な危険生物。

「さすがは幕府も恐れる抜刀術。速過ぎて見えんかったわ──うぬがおらねば、わしはいまごろ、こやつの毒刺に冒されて終いであった」

 その実、クマや毒蛇よりも被害が多数確認されている、殺人虫。
昆虫網ハチ目スズメバチ科。
黄色い毒注射──スズメバチ。

「貴女も、危機も、まだ終いではない」

 ブンブンッ、ブンブンッ、ブンブンッ!

 ふたりの頭上が、ぼんやりと黄色で覆われていく。気が付けば、辺りはすでに殺人虫に取り囲まれていた。羽音が重なり、毒針が舞う。

 人差し指を左右の耳穴に通して不快な音の侵入を防ぎながらも、姫は笑っている。妖艶な笑み。刀を構え、両の手の空かぬ侍は、耳を塞ぐではなく目を閉じ、呼吸を整え、針のように鋭いその羽音に、意識を傾ける。

「ははっ。おいリンマル、こやつら、どんどん増えて来よるぞ!」
「十四の、二十五の、三十の……それ以上か」

 木々が揺れる。羽の振動によって巻き起こったのか。そのざわめきが、空気をより一層不穏な色に落とし込んでいく。

「半」

 大気を揺らす羽の刻みに紛れて、姫。

「? なにか申したか」
「だから、半じゃ。わしらを襲うこの蜂の数が偶数である方に──わしは賭ける」
「そんな場合か」
「なにが出ても、うぬがおれば心配は無用──ではなかったか?」

 森奥で危険生物に囲われながらも、姫は艶やかな笑みを崩さない。頬を緩ませ、口角を上げる。この状況が──否、なにかを『賭ける』という行為そのものが、楽しくて仕方ない、といった風だ。

「よいか、これは賭けじゃ。うぬは丁に賭けろよ。敗けた方が、今晩の宿代を持つということで、どうじゃ」
「……いいだろう」

 そしてその性こそが、彼女が巷で『博打姫』と呼ばれる所以──にして、いまこうしてボロボロの布切れを被り、侍とともに山奥を歩み、殺人蜂に囲まれるに至る要因である。

「よしきた! 敗けても、後悔するでないぞ」
「武士に二言はない。貴女も、約束も、死んでも守ろう──ただ」

 闇に浮かぶ黄点の包囲網は、まばらに散ったり列を成したりしながら、徐々にその範囲を狭めていく。毒針が一斉に降りかかるのも、時間の問題だ。

「博打も宿も、まずはここを切り抜けてからだ」

 侍は刀を伸ばし、羽の音への牽制を続けながら、賭博の愉悦に浸り口元を歪ませる姫に歩み寄る。分厚く大きな背が、薄く小さな肩を覆う。

「姫、しばし拙者の陰に隠れていろ。そこに立たれていては危ない」
「はいはい。気をつけろよ、蜂の毒は、たった二針であの世行きじゃからの」
「武士の立ち合いは真剣が基本。二突きどころか、一太刀浴びるが命取り。心配ない。それに──これから拙者が貴女を守るのは、もっと怖くて、危ないものからだ」

 鼓膜を突き刺す羽音の針が、鋭くなる。

「怖くて危ない──この、蜂の群衆よりもか?」
「ああ」

 散在していた点が、ひとつの大きな膜となって、一か所に流れ込んで──。

「拙者の剣だ」

 ──すべてが、散った。

侍は、刀に鞘を戻す。

「ほお、さすがじゃな。あれ、しかしうぬは居合が専門ではなかったか?」
「貴女こそ、ここまで行を共にして、まだ拙者がわからぬか。幕府が恐れた拙者の剣術は、抜刀のそれではない──殺しのそれだ」

 傷を負わすのではなく、息の根を止めるための、蜂の毒よりも禍々しい剣。試合ではなく、死合に特化した、殺しの術。そしてその剣術こそが、侍が『輪廻丸』と呼ばれ、小さな姫の後に付いて山を渡るに至った要因。

「おお、そうじゃったのう。毎々、一太刀で斬り捨ててしまうから、忘れておった」
「まったく。……まあ、どちらも大して変わらぬが」

 ぽとりぽとりと、命が落ちる。二つずつに斬り分けられた死骸は大地に汲み取られ、廻り巡って、木の幹となり、花の蜜となる。

 花の蜜。

「して、リンマル」
「リンマルではない。輪廻丸だ」
「よいではないか、どうせ忌み名であろう。それこそ、大して変わらんよ」

 迷路のように入り組んだ、森の奥深く。暗闇で命を形成する大自然。自然界の事物には、相応の理由がある。模様の異なる木の幹にも、光も差さぬ暗闇で凛と咲く花にも。

 生きとし生けるすべてには、生命には、理がある。

「賭けの勝敗じゃ──何匹であった?」
「八十七」
「むう」
「しかし」

 スズメバチは、幹の皮を剥がして巣を作る。女王蜂を守るために。しかし、その高い攻撃性と獰猛生の代償か、甘い蜜を運んで、女王に献上するようなことはない。

 では、蜜を貰い受ける代わりに、花粉をここまで運ぶのは?

「──これで、八十八だ」

 また、ひとつ。命が斬り落とされる。

 生の循環。
 魂の輪廻を断ち切る、輪廻丸。

「お。一匹、隠れておったか。臆病なやつじゃのう」

 博打姫の膨れっ面が、ぱあっと晴れる。敗けに傾いていた賭けが、最後の逆転勝ちに転じたことが、うれしくてたまらないらしい。年端に沿う満面のその笑みからは、妖しげな艶やかさも影を潜めている。

 生まれの境遇こそ違えば、彼女の魂の性質は元来、こういった笑顔の方が似合うものだったのかもしれない。

「否。その者は、他よりも勇敢な兵であったよ」

 反して、神妙な面持ちで、地面に落ちた危険生物に──いまさっきまで「生物」であった塊に、視線を落とす輪廻丸。刀はもう一度抜かれ、すでに鞘に収まっている。柄を握る左手には、一滴の汗。。

「見ろ、先に斬り捨てた群衆にいた蜂よりも、ひと際小さいであろう?」
「見ろ、と言われてもこの暗がりで、よくわからぬが。種が異なるか」
「獰猛な先の軍隊蜂と違い、戦には不向きな種であるのだろう。行を共にしていた他は、大きな羽音に乗じて、そそくさと逃げたに違いまい。この者だけが、一匹残り、縄張りを踏み荒らした拙者らに命懸けの太刀を──突きを、浴びせにきた。立派だ」

 抜いたことすら気付かせぬ抜刀術。容赦なく害敵を叩き斬る殺しの術。人間ですら、それも、一時代を築いた国の主でさえも面倒を見切れなくなったその強さに、この小さな蜂は、真っ向から戦いを挑んだ。徒党も組まず、策も弄さず。

 それは強さといえるのか。はたまた、無謀が故の弱さか。
 どちらにせよ、敗けたことには、変わりはない。この蜂は巣も、己も、守れなかった。

「ふむ。後先を顧みない愚かさは、わしも嫌いではない。こ奴に、ハナから勝ちにゆく気概があったかは、甚だ怪しいがの」

 博打姫は、侍の落とす視線の先を軽く一瞥してから、その線を辿るように、背中から這い出し、顎と額をぶつけそうな勢いで、腰に手を当て、瞳を覗き込む。

「さあ、リンマル。賭けはわしの勝ちじゃな。剣の腕はあったとて、ツキがなければつまらんよて。夜が来るのが楽しみじゃのう、反故にするなよ」
「致し方ない。一度交わした約束だ、死んでも守ろう」

 大小の影は、ふたたび、一歩を踏み出す。迷いなく。また次の分岐では、博打隙のお姫様が人差し指を振り、侍がその背中についていくのだろう。一行はそうして、時流に逆らうように、我が物顔で、我が道をいく。

「ただ、ひとつ聞いておきたいのだが」
「なんじゃ。いまのわしは気分が良い、なんでも聞け」
「姫が敗けていたとして、宿代を払う持ち銭が、貴女にあったか?」
「ないよ」
「やはりな! では、敗けておればどうするつもりだったのだ!」
「そのときはまた、宿主と賭けにでも興じていたよ」

 踏みしめた地面には、先刻の生が、死と成って散らばる。森を振るわせていた羽も、毒を蓄えた針も、自然の一部と果ててしまう。それを救いと取るか、呪いと取るかで、その人間の性質は、大きく異なるのだろう。

 博打好きな姫は。姫を守る侍は。

 どちらだろうか。

「ハナから敗けるつもりで、博打を打つ阿呆がおるか」

 スズメバチも、ミツバチも、たった一匹の女王を守るために戦う。自らの身を顧みず。
 それは、主君と武士の関係にも似ていた。
 ただ、時代は幕末。世は動乱。その図式も、変わろうとしている。文明が花開く時は、刻一刻と迫っていた。

「わしは賭けに勝った。だから、気分が良い」
「そうか──む。しかし、姫」
「なんじゃ。気分が良いからなんでも申せ」
「賭けの勝敗というなら、貴女が選んだこの道で、蛇でも鬼でもなかったとはいえ、危険な蜂が出てきてしまったのは、『ツキがなかった』とは言えぬのか?」
「ふん、なにを言い出すかと思えば──阿呆か。うぬが斬ることで事なきを得たのだから、その賭けとて、わしの勝ちに数えられる」

 ざくざくと、蜂の死骸を躊躇いなく踏みしめながら、姫は歩く。侍も、その背中に続く。

「なんせ、わしはうぬに、世の顛末を──己が命運の行く末を、賭けておるのじゃからな」
「……なるほどな。武士に二言はない。拙者も命を懸けて、姫の為に尽くす所存だ」

 目の前には、幾枝にも分かれた道。

「ふふ。今生の世が果てるまで──あわよくば、互いの魂が尽きた、遥か彼方の未来までも。よろしくのう、リンマル」

 ふたりの未来は、姫が示すその人差し指の先に、伸びている。

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