後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep科学者2 「機能的人権の尊重」

3.

 とあるビルの、とある会議室。

 だれもが左手首ばかりを意識し、確定された未来だけを生きるようになった虚空の浮世とは切り離された空間。すべてが謎に包まれていながら、実質世界の中心ともいえる『レフトホイール』社内の一室で、白衣に身を包んだ二人の男女の科学者が向かい合う。

「赤面って、人間が有する数多くの欠陥のなかでも最も愚かしい機能ですよねえ。わざわざ、自分が動揺していることを周囲に察知させてしまうだなんて」

 女性の方がにやにやとした表情のまま、緊張感の欠片も見受けられない声を発する。
 それは会話をしているというよりは、茶々を入れているといったニュアンスで、まるで自分以外の全て──あるいは自分を含めた全人類──を小馬鹿にして嘲笑するかのような態度だった。

「赤面は、人間のみが唯一持つ機能みたいだからね。複雑な社会体制を構築してしまったヒトだからこそ、言葉外でも自身の心理状況を相手に察知させるシステムが必要だったんだろう」

 対する男性は、部下のそんな丁寧な口調から繰り出される軽薄な毒舌にも落ち着いた意見を返す。その冷静さは真実を追求する科学者故の個性だとしても、人類の在り方を根本から覆す歴史的大発明を成し遂げた業績と照らし合わせて考えれば、彼の見た目はいくらか若すぎる。

 しかしそれは、彼が見た目通りの年齢だったならば、の話である。

「そうですねえ。たしかに、もはや化け物である社長の顔が赤くなったところを、わたしは見たことがありませんし。弱い生き物であるからこそ、人間はその弱さを誇示しあうことで、身を守り合う必要があるのかもしれません」

 ──ねえ、社長。

 
 女性科学者は、いつも通りの粘り気のある笑みをその顔に張り付けたまま、含みを持たせた言葉を漏らす。無礼とか、失礼とかそういう次元ではない、心底嫌味に塗れた言の葉を。

「ああ、その通り。人間は弱いよ」

『化け物』と形容された男性科学者──百年余りの歴史を持つ大企業の『初代』社長は、そんな部下の発言と態度に怒りを露にするでもなく、どころか、冷ややかに応じる。その声音からは、失礼な部下だけではなく人間全体に対する、どこか呆れのような感情も伺える。

 彼の精神は、その若々しい外見に反して、老成しきっていた──それはそうだ。

「だからすぐに、機械や薬に頼るんだよ」
「ええ、こんなに近くでずっと見ていればわかりますよ──薬を飲んで若い姿のまま生き永らえ、機械を大量に生み出して世界を支配する、あなたのお姿を見ていればねえ」

 彼の時間は、百余年前から止まっている。
 まるで、いつまで経っても老いも朽ちもしない、ロボットのように。

「ところで、どうだった。三号機──芦分三科の、試験運用の様子は」

 家族との幸せと人類の発展を天秤にかけた末に後者を選び、愛する者達に恨まれながら生き永らえる不老不死の化け物は、部下の嫌味に無理に取り合うこともせず、逸れかけた話の軌道修正を淡々と行う。

「ええ、鈴木夏向との関係には、なんら変わりはありませんでしたよ。異常事態は皆無でした。つまり、試験的には失敗状態を継続中です」
「そうか。ちなみに……」
「ついでに補足しておきますと。田中湖陽も、あれから──ナンバーセブンと感動の別れを演出したあの日から、なんの変化もないようでしたねえ。相も変わらず、すっきりした顔で、開き直ってます」
「開き直って、ね……そうか。やはり、なんの進展も、発展もなしといったところか」
「ええ、残念ながら。……ただ」

 皮肉めいた『残念ながら』の語尾に引っ付いたそれは、どうやら頭で考える前に口をついて出てしまっていたものらしく、女性科学者はここで初めて、薄く表情を曇らせた。

「ただ?」

ここまでずっと軽い調子で雑談混じりの報告を続けていた部下のその微細な変化を、上司である社長は見逃さない。さすがは機械工学の天才、感情を持たないロボットとだれよりも向き合い続けた彼が、感情に支配される人間の変化を見抜けないはずがない。

 この女性科学者は、実のところ現代で生きるだれよりも『人間的』なのだ。

「……いえ、なんでもありませんよ。高校生の母親にしては外見年齢が若すぎて浮いてしまったのが、ちょっとだけ気恥ずかしかったなあと思っただけです。まあ、どうせ偽りの親子関係でしかありませんから、どうでもいいんですけどねえ」

 しかし彼女は、そんな上司の怪訝には気が付かない風にして──機械のように鈍感を装い、現代人のように間抜けを演じて──得意の皮肉の含みを持たせ、強引に会話を畳んでいく。

「どこまでいっても、おままごとですよ。人間と機械は、まったくもって別物です。当たり前ですが」
「……だな。わかっている」

 舌の上を転がる嫌味に纏わりつく感情に。嘲笑の奥に押し込めたのっぴきならない情動に。軽薄に歪む瞳に反射して見え隠れする情感に。もはや名もなき彼女を構成する人間味に、もしも名前をつけるとしたら。

「わたしたちは、家族にはなれませんよ」

 それはきっとむかしの言葉で、『後悔』と呼ぶのだろう。

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