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サム・ライミ版スパイダーマンから見る"男と女"

 俺は元来サム・ライミ版のスパイダーマンしか観ないと決めている。理由は劇場で見たアメスパが面白くなさすぎたからというのもあるし、そもそもアメスパがサム・ライミ版のオマージュすぎたというのもある。何よりこういう原作ありきの作品ではストーリーに忠実に、しかし監督が上手いこと自分の思想を落とし込んでる職人技が光る。きっとお前らもサム・ライミ版しか観ないよな?トムホ?ショタコン専用機だろ。

はじめに:VFXが凄い

 まず、この時期のCGだけ集めたいくらいCGの味がある。マジでリアルなんだけど、技術者の頑張ってる感も垣間見えるのが良い。現代ならではの楽しみ方かもしれない。胡散臭いとまでは言わないし背景と浮いてもないんだが、技術の限界を攻めたグラフィックだなと感じる。PS3のめちゃくちゃ画質が良いほうのゲーム遊んだ時の感覚。

 性別というテーマ

 本題に入るが、総じてサム・ライミ版スパイダーマンで語られるのは"性別"についてである。つまり男とは?女とは?というステレオタイプな感覚について、俺らの感覚に訴えかけるように作られている。
 ここで他のハリウッドと一味違うのは、こういうステレオタイプな男女観を否定していないところだ。むしろ肯定までしているように俺は感じた。
 男女の感性や性質の違いによって今日では様々なコンフリクトが起こっているが、サム・ライミ版では真の意味で男女に優劣を定めていない。
「女とはこうある生き物で、男とはこうある生き物だから、分かり合えないままでいいのだ」
というポジティブな諦めを表現しているのだ。これは女性に無理やり男性的な強さを付加したり、男性が女性らしさを獲得するよりも余程自然である。サム・ライミ版は後の歪なフェミニズムに支配される社会を予見していたのかもしれない。

 シーン、キャラ別:性差の描写

●主人公:ピーターパーカー
 能力獲得前はモテないしヒョロガリでヒロインにも全く見向きもされていないが、能力獲得後男性的な肉体と暴力性を手に入れ、同性からは必ずその強さを不気味がられ、異性からは好意を持たれるようになる。
 「大きな力には大きな責任が伴う」
という叔父の言葉を大事にしているが、叔父曰くピーターは大人になろうとしていて、これはその際の啓示らしい。
 大人の男性には大きな力(資本)があってそれで女子供を適切に守らなければいけない、ということに違いないと俺は思った。

●ヒロイン:MJ
 父からの家庭内暴力を受けるが男性に服従することはしない。作品内で常に性的な象徴であり、彼女の行動指針もまた常に恋愛である。しかし驚くほどセックスが描写されない。これは恐らく意図的で、ピーターのみに好意があると観客に見せるためのミスリードであると考える。
 ピーター以外の男にする、付き合うが人前でキスをしない、という行為はセックスはするが愛さないという表現の言い換えに他ならない。それは今作の段階では彼女にとっての恋愛が演技の一環でしかなく、表層のみの行為であるからと考えると納得いくだろう。
 彼女の将来の夢は舞台女優なのだが、その根底には"家庭内暴力を受けている自分(内面)⇆他人と遊んでいる明るい自分(外見)"という心理があり、演じることで社会的な立場の獲得と暴力からの逃避の両方を達成していることがわかる。
 ちなみに家庭内暴力から逃げてニューヨークに来たことで彼女の内面(暴力的な男性)が存在しないことになり、彼女は常に他の男性からの暴力を受けなければ自己を保てないということになる。
 根拠としてニューヨークに行ってすぐ好きでもないモラハラ気味のハリーと付き合い、ある意味での自傷行為をしている。

●ライバル、親友:オズボーン家
 オズボーンは常に"肉体的な強さを持ち得ないが資本で男性としての立場を獲得した存在"として描かれる。ハリーは金持ちアピールこそしないが金で女を黙らせようとするシーンがめっちゃある。スパイダーマンを妬んでいることからもわかるが、ハリーもといオズボーン家は本当は野生的な力が欲しいが資本という不安定な強さに依存している状態だ。だからオズボーン家は作品全体を通してどこか弱々しい。
 そして肉体的な強さまで獲得したグリーンゴブリンもといオズボーンパパは、"大きな責任"を放棄したことで男性的な力で女子供"のみ"を脅かす。みんな意外と気づいてないかもしれないけど、グリーンゴブリンが攻撃したのって実は弱い奴だけで、女子供老人、よくて退役軍人みたいなラインナップ。ここでピーター叔父の言葉の意味が「お前めっちゃ強くてなんでもできるからって弱いものイジメするなよ」って意味だったんだなって再確認できる。めっっちゃ強いのにそういう弱者しか狙わないのはやはりグリーンゴブリンが"間違った男性"を象徴しているからだなと感じる。

 これは女にはわからん世界だ…

 よく男が集まって会話してるところに女が入ろうとするとこんな雰囲気を感じるだろうが、だいたい会話の内容は下ネタかゲームの話しかしてない。でも実際女はその話についていけない。話にというか熱量についていけない。この現象と似たような感覚をこの作品のラストに感じ取った。
 ピーターは戦いに勝利し、葬式場でMJに告白される。しかしピーターはあれほど恋心を抱いていたMJを「君には僕の全てを理解できないから」という理由で振るのだ。
 自分はヒーローで自分の近くにいると危険だから振るって、人によってはマジでおかしい考え方で、だって普通だったら彼女にしちゃえばMJは守らなきゃいけない存在になるわけで、作品としてはめちゃくちゃポジティブに終われるはずなんだよな。
 でも振ったのって、「女にはスパイダーマンという大義はわからんだろうから付き合わん」という最強のミソジニー宣言なんだよな。オズボーンパパを殺した=偽りの強さ(資本)ではなく肉体的な強さで、その強さに見合った人々を救う(世界平和)ってわけで、葬式場のシーンはその意思を固めるシーンでもある。
 そしてMJはといえば彼女の作品での最終的なゴールは"一番強い男と付き合う"なんだよな。だからあろうことか葬式場でピーターに告白している。
 まあ普通に葬式場で告白すんなよって思うが、もう少し詰めるなら2人のゴールの違いは
男=社会的な価値⇆女=自己利益
と対比させることができる。どちらに優劣があるとかは描かれていないが、少なくともピーターはそこで自己利益のみを追求する女性を間違っていると断定し、MJと決別した。
 後に続編で描かれるのは男の身勝手さと女性の利益追求の正当性についてで、特に3は1との対比が素晴らしいなあと思う。 

まとめ

サム・ライミ版スパイダーマン、かれこれ5回くらい観てて意外と浅いなあって毎回思うけどなんだかんだ面白い。少なくともこんくらい書くことある。
ちなみに俺はヤリマンが嫌いなのでMJも嫌いです。男女平等には程遠いぞ。サム・ライミ


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