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ともだち

友達とは何か。
相手を友達だと感じる時、それは何がそうさせているのか。
友達という言葉は、いったい何を肯定し否定しているのか。

自分の感覚では、ふざけたことが言えるような無意味さを共有できる時に友達だという感覚を持つようになる気がする。無意味さが承認されているという安心感が、コミュニケーションを継続させているように思う。

そういう意味では妻や子どもたちは一番の友達だといえる。ただし、親密な関係が必要かと言われればそうとも限らない。浅い関係の間柄でもその感覚は生じる。例えばBARで知り合ったBARでしか会わない飲み友達も間違いなく友達だと感じる。飲み友達は無意味だからこそ成立する。

友達という言葉を持つ前の幼い頃は、きっとそれを「居心地が良い/居心地が悪い」という感覚として感じ取っていたのではないだろうか。そこから年齢があがり、言葉を獲得していく中で「友達」という言葉によって、私たちは人を分類することを始めているのだと思う。「友達」と「それ以外の人たち」に世界を分けて捉えるようになっていく。それによって人は何を得て何を捨てているのだろうか。

哲学対話での気づきともやもや。

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