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『猫の訪れ』

1

 時々、私は菓子作りをする。 

 今日はマドレーヌを焼いた。オーブンの扉を開けると、その豊かな香りが私の鼻孔をくすぐった。良く出来たマドレーヌだ。食べなくてもそれがわかる。生地はふんわりと柔らかそうで、はちみつの匂いも繊細だった。 

 私はオーブンのマドレーヌを皿に移し、リビングのテーブルに運んだ。マドレーヌは熱々だった。皿の上に乗る3つのマドレーヌは、この世に生を受けたばかりの完璧な彫刻だった。私はいたく満足して、一度キッチンに戻り、沸かせていたお湯で紅茶を淹れた。ポットの中でジャンピングする茶葉を見て心が和んだ。 

 ポットとティーカップを持って、リビングに振り向いたとき、見知らぬ少女がテーブルの横に立っているの気づいた。 

 少なくともそこに人がいるという気配はまったくなかったし、そもそもこのアパートには私以外に人間がいるはずがなかった。彼女は私からするとまさに唐突に現れた存在だった。ゆえに私は驚きのあまり言葉を失い、その場に凍りつくほかなかった。 

 少女はマドレーヌの皿に顔を近づけて、幸せそうにその匂いを嗅いでいた。 

「いいにおい」と彼女は言った。「とっても」 

 彼女は見る限り十三歳かそこらだった。背は小さく、体は華奢だ。腰を曲げ、後ろで両手を結び、目をつむってマドレーヌの香りを味わっている。やがて彼女は唐突にピンと背を伸ばし、私の顔を見た。そして尋ねた。 

「ひとつ食べてもいい?」 

 彼女は私の返答を待たずに、マドレーヌを一つ左手でつまみ、かじった。生地に少女の歯型がついた。彼女はマドレーヌを持っていない方の手で、自分の右頬を軽く抑えた。おいしいものを食べたときの仕草だ。 

「おいしい!」、少女は感極まったように言った。「来たかいがあったよ」 

 私は何も言わず、手に持っていたポットとティーカップをキッチンテーブルに置いた。静かに置こうとしたのだが、やはり「かちゃん」という音を立ててしまった。少女は1つ目を平らげ、次のマドレーヌに手を伸ばしていた。 

 彼女は不思議な服装をしていた。頭にはシルクハットをかぶり、服は燕尾服に似たものを着ている。それが私の知っている正式な燕尾服と違う点は、スラックスの代わりに女性用のスカートが用いられている点だ。黒のプリーツスカートが、燕の尾となる上着の裾部分をふわりと持ち上げている。首元には紺色のタイが結ばれている。黒いニーソックスに足を通し、ローファーを履いている。事情はわからないが、この娘は土足で私の部屋に足を踏み入れていた。しかし私にはそのことを注意する気力がなかった。 

 少女の髪は短く、顔を包み込む程度の長さだった。一見すると整った顔立ちをした男の子のようにも見えるが、間違いなく女の子だ。それくらいわかる。あともう少し年齢を重ねれば、この子は美しい女性になるだろう。それはもはや約束された事項だ。誰もが目を奪われる子になる。今も十分綺麗ではあるが、その輝きは未だ多少抑えられている。十三歳という微妙な年齢が織りなす状況なのだ。もし私が同い年のころにあの子と出会っていたら、他の男子と同じように恋に落ちていただろう。 

 私はこのシルクハットの少女がなぜ自分の部屋にいるか、わからなかった。玄関には鍵をかけておいたはずだ。こんな娘を招き入れた覚えはない。おいしそうにマドレーヌを頬張るその顔に記憶はなかった。彼女はまったくの赤の他人だった。 

 私はゆっくりと声を出した。 

「どこから入ってきたの?」と尋ねた。 

 その声は緊張を伴い、自分の口から発せられたものとは思えなかった。まるで一日中声を出さずに過ごしてきて、今ようやく発声したかのようだった。 

 私の問いに、少女は部屋の反対側を指差した。そこには窓があった。 

「あそこから」と彼女は答えた。 

 私は口を閉ざしていた。言うべき言葉を思いつけなかった。すると少女は補足するように言った。 

「空を飛んできたんだよ」と。 

 私はまだ理解が追いついていなかった。第一に、この部屋はマンションの14階にあるので、下から登ってくることなんか不可能だった。あるいは隣の部屋からベランダを通じて侵入してくることもできない。ベランダには頑丈な仕切りがあるからだ。おまけに窓は常に鍵がかかっているから入ってくることもできない。仮に彼女が本当に空を飛んできたとしても、この部屋に忍び込めるわけがない。 

 現実的なのは玄関から侵入してきたという手口だ。だがこちらも鍵がかかっている。キーの一つは私が常に持ち歩いている。もう一つの方は今は手元にないが、だからと言ってそれがまかり間違ってこのシルクハットの少女の手に渡るとは考えられない。 

「もし良かったら、君の名前を聞いてもいいかな?」と私は質問した。ちょっとずつではあるが、落ち着きを取り戻してきた。 

 彼女はちょうど2個目のマドレーヌを食べ終えたときだった。私に向き直り、きりっとした顔つきになった。右手を左に向けて、頭を下げた。あたかもステージ上で観客に自己紹介する手品師みたいに。頭を動かすと、彼女の耳についているイヤリングが揺れた。ティーポッドとティーカップを模したイヤリングが両耳にあった。 

「ボクの名前はダージリン」と彼女は言った。「はじめまして」 

 ダージリン、と私は頭の中で繰り返した。 

「はじめまして、ダージリン」と私は言った。「ダージリンっていうのは、紅茶の名前だね?」 

「そうだよ」、彼女はうなずいた。「おじさんは紅茶が好き? それとも、コーヒーが好き?」 

 私は少し考えた。答えに迷っていたわけではない。このダージリンという名前が本名なのかどうか、判断しようとしたのだ。結局答えは出なかった。マジシャンみたいな格好をしているし、芸名か何かかもしれない。 

「どっちも好きだけど、どちらかと言うと紅茶が好きかな」 

 それを聞いた彼女はにっこりと笑った。どこか勝ち誇ったような感じだった。 

 私は静かに息を吐いた。 

「1つ聞いてもいいかな」と私は尋ねた。 

「いいよ」 

 ダージリンは右手を椅子の背もたれに置いて、寄りかかった。さあ質問をどうぞ、という感じだった。 

「君はどうやって僕の家に入ってきたんだい?」 

「言ったでしょ。窓から入ってきたの。空を飛んでね」、彼女は当然のことのように言った。「ほうきに乗ってね、空を飛んでいたら、おいしそうなにおいがしたんだ。だから入ってきたの」 

「ほうき?」と私は聞き返した。 

「そう」、ダージリンはうなずいた。「これね」 

 ダージリンはそう言って、テーブルに立てかけていた棒のようなものを手に取った。そうするまで、テーブルに棒があることを私はわかっていなかった。彼女が持っているのはほうきではなく、杖だった。ステッキと表現したほうが正確かもしれない。握り手の部分には複雑な模様が描かれている。 

 私が何も言わずに、漠然とそのステッキを眺めていると、ダージリンは声を潜め、大事なことを打ち明けるように言った。 

「実はね、ボクは魔法使いなんだよ」 

「魔法使い」と私はその言葉を繰り返した。もはや私の思考は追いついていなかった。 

「そうだよ。魔法使い。このカッコを見たらわかるでしょ?」 

 この格好というのは、つまり、コスプレみたいなこの服装を指しているのだろう。私にとってこの服装と魔法使いはどう頑張っても結び付けられなかった。 

「マジシャンかと思った」と私は素直に言った。 

 彼女は眉をひそめた。少々腹を立てたようだ。 

「違うよ。ボクは魔法使いだよ。マジシャンじゃなくて」 

「魔女ではないんだよね?」 

 ダージリンは首をかしげた。そのとき耳のイヤリングが揺れた。「まあ、ほんとのところ、ボクは魔女なのかもしれないけど、ほら、魔女よりも魔法使いって言う方がなんとなくイメージがいいかな、って思って」 

「確かにそうかもしれないね」と私はなんとなく同意した。「ちなみにどんな魔法が使えるの?」 

「一通りの魔法は使えるよ」とダージリンは言った。 

「例えば?」 

「また今度見せてあげるよ」 

 私は間を置いてから言った。 

「ということは、またここに来るつもりでいるんだね」 

 すると、ダージリンは悲しそうな顔をした。 

「だめかな?」 

 私はとっさに首を振った。 

「そんなことないよ」と私は言った。「でも……でもね、他人の家に勝手に入るのは、よくないよ。だってーー」 

「知ってるよ」、ダージリンはあっさりと言った。「ジューキョ・シンニューザイにあたるんでしょ」 

 住居侵入罪。彼女が口にすると、それこそ呪文のように聞こえた。 

「そうだね」 

「でもね、ボクには関係ないの。だってボクは魔法使いだから」 

 私は視線を落とした。小さく「なるほど」とつぶやいた。合点がいったわけではない。世の中には、理解がとうてい及ばない事象に対しても、「なるほど」という言葉を唱えた方が丸く収まる場合がよくある。今回もそういう状況だった。 

「ボクはお菓子が好きなの」とダージリンは言った。「お菓子の匂いにつられて、また来るね」 

 私は息を吐き、目をつむった。自分の心を落ちつけるために。 

 目を閉じたのはほんの一瞬だったが、まぶたをあげたとき、そこにダージリンはいなかった。彼女がほうきと称するステッキもなくなっていた。シルクハットの少女はこつ然と姿を消していた。 

 私はしばらくその場に硬直していた。目の前で起きていることが信じられなかった。少女は突然姿を現し、そして消えた。それはあまりにも不可解なことだった。今まで起きていたことが私の幻覚であったと思う方が自然だった。 

 ところが3つあったマドレーヌは一つに減っていた。それは誰かがマドレーヌを食べたということを意味していた。私ではない。私は目撃したのだ。あのシルクハットの少女がマドレーヌを二つ口にする光景を。 

 私は部屋の中をくまなく探索した。寝室も、クローゼットの中も確認してみた。とにかく、少女一人が隠れられそうなところは一つ残らず捜索した。彼女はどこにもいなかった。窓やベランダに通じるドアにも鍵がかかっていた。 

 私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。さっきまで目にしていたシルクハットの少女は私の幻影で、私は存在しない人物と会話を繰り広げていたのだろうか。私は自覚しうる限りまともな思考を保っていた。会社の健康診断で正常と判断されたばかりだし、過去に大麻もハシシもやったことがない。今の所シラフだし、今朝は八時間睡眠の上起床した。幻覚を見る理由がない。 

 私の頭が正常であると仮定した場合、あのシルクハットの少女は、幻覚や白日夢でもなく、本当に実在していたということが導き出される。彼女は唐突に現れ、マドレーヌを食べて、唐突に消えたのだ。そうとしか思えない。 

 私はソファーに座り、思案に思案を重ねた。熟考の末、それでも答えにたどり着けなかった私は、勢いよくソファーから立ち上がり、風呂場に向かった。熱いシャワーを長い時間浴びた。まるで雑念を洗い流そうとするかのように。しかし脳裏に浮かび続けるのは、あのシルクハットの少女の顔だった。彼女は無邪気な笑みを浮かべてマドレーヌを平らげ、意味深な言葉を口にしてから、姿を消したのだ。それは疑いもない事実だった。 

 シャワーを浴び終わった後は、寝間着に着替え、ベッドに入った。枕元にはウィスキーのロックを置いた。それを飲みながら眠りが訪れるのを待った。ベッドの中も色々な思いが頭を駆け巡った。私は精神科の受診も検討した。どう考えてもさっきの出来事は普通ではない。それを簡単に受け入れることなんてできなかった。 

 心の緊張とは対照的に、眠気はたやすく訪れた。酒の力を借りたおかげだろう。酒はときに混沌から人間を救ってくれる。正体不明の少女が自宅に不法侵入してきた夜になんかは特に効果的だ。まぶたが自然と重くなっていき、ほとんど無意識のうちに目を閉じていた。それからほどなくして、眠りがやってきた。夢がない代わりに、深い睡眠だった。 

 翌朝、私はいつも通り目を覚ました。ベッドから起き上がり、漠然と寝室の壁を眺めた。昨夜ほどの動揺は残っていなかった。眠気と、ぼんやりとした思考と、ダージリンと名乗るあの少女だけが私の頭にあった。 

 朝の支度をしながら、私は昨日の出来事を「なかったこと」にすると決めた。どれだけ考えても説明がつかないし、納得の行く答えが見つからない以上、それについて考えるのは無駄だからだ。私は余計な考えを振り払うように、いつもより早い時間に家を出て会社に向かった。そして夢中で仕事をした。集中すると余計な考えが頭に浮かばなくなるからだ。 

 それからしばらくはシルクハットの少女と再会することはなかった。部屋には誰も侵入してこず、平穏な日々が流れた。少しの間、私は家に帰るたびに警戒して部屋のあちこちを覗いてみたりした。どこか物陰にあの子が隠れているのではないかと思って。実際はどこにも少女の人影は見当たらなかった。 

 あの日見たことは幻覚だったのだ。私は疲れていて、ありもしない現実を目にしてしまったのだ。密室に十三歳の女の子が忍び込めるはずがない。あれは夢か何かだったのに違いない。 

 だが、私は彼女が現れない理由に思い当たるものがあった。あの日以来、お菓子を作っていないのだ。なんとなく作る意欲を失ってしまい、時間に余裕があってもキッチンに立とうとはしなかった。それが原因かもしれない。「お菓子の匂いにつられて」と少女が言っていたからだ。例えば私が今すぐ、キッチンでクッキーでも焼いたとしたら、あの子は再び現れるだろうか。魔法使いを自称し、ダージリンと名乗るあの少女が。 

 不思議なことに、心のどこかで、私はあの娘のことが気になっていた。その「気になる」とはつまり、好意を持った関心を意味する。なぜだろう。不審極まりないあの娘に、なにゆえ心惹かれるのだろう。それはダージリンが美しい女の子だからかもしれない。ある種の謎めいた魅力を持っているからかもしれない。あるいは彼女がどこか元妻に似ていたからかもしれない。 

2

 それは土曜日の午後2時の出来事だった。 

 私は会社の後輩の女の子と、カフェのテラス席に座っていた。私はアイスティーを、彼女はホットコーヒーを注文していた。サンドイッチの盛り合わせをつまみながら、 我々は他愛もない話をしていた。春の日差しはぽかぽかと暖かく、空には雲がほとんど浮かんでいない。時々、通りを横切る風が人々の髪を優しく揺らした。休日の昼としては申し分のない一日だった。 

 その後輩の子とは最近親しくしていた。彼女は快活で、歯に衣着せぬもの言いをする性格だが、その発言はいつも思慮にあふれているものだった。感情に任せてその場の思いつきを話すわけでは決してない。だから大抵の人間の意見は彼女にたやすく論破され、彼らは悔しさに歯を噛みしめることになる。そういった気性のせいか、美人にも関わらず、彼女は一部の人間に明確に敵視されることになった。当の本人はそれを気にも留めていないようではあるが。しかし私は今までの人生経験から、そういった人間が時に孤立し、辛酸をなめる傾向にあることを知っていた。正論と合理性だけでは社会の歯車は回らないからだ。 

 後輩の子に好意をもたれるようになったのは、私が自分の意見を声高に主張し、押し通すようなことをしないからだろう。私は常に自らの存在感を全面に出さず、静かに行動してきた。周囲の注目を集めることがある種のリスクを生むのを承知しているからだ。とはいえ、社会では要所要所で最低限の意義ある発言を求められることが多々ある。私はそのとき、一見筋が通ったまっとうな意見を口にする。そうすると普段口数が少ない分、私の発言が輝いているように見える。この人は時折、針の穴を通すような鋭い意見を主張できるんだ、と彼らは考える。おかげで私は一目置かれることになる。そんな私の正体を知っているのは古くからの同僚だけだ。 

 そういった私の姿勢に対して、後輩の子は少なからぬ尊敬の眼差しを向けていた。部署が違うにも関わらず、彼女は積極的に私にアドバイスを求めた。プレゼンの予行練習に付き合ってほしいとお願いしてきたこともあった。彼女が私を師匠として捉えていることは周知の事実だった。同僚から「あんたは羨ましいな。あいつに頼られて」と妬みとも取れる発言を受けたこともあった。私としては彼女をどうこうしたいという気持ちは最初まったくなく、むしろ向こうから積極的に交流を求めてきたのだった。私としても特に断る理由はなかった。 

 だから酒の席を誘ってきたのも後輩の子の方からだった。我々は居酒屋でビールを飲みながら議論を交わした。とは言え、会話のほとんどは彼女の愚痴ではあったが。私は相手の熱の籠もった発言に耳を傾け、適切に相槌を打ち、意見を求められたら中立性を意識した発言を述べた。ちょうど私が会社でいつもやっているように。 

 そういう機会を何度か重ねるうちに、我々は親しい関係へと発展していった。それは後輩と先輩という間柄を超えた関係性だった。プライベートでも会うようになったし、簡潔に述べると、彼女と寝たことも何度かあった。ベッドの中では、後輩の子は怯えた非力な少女に見えた。ウサギを探しているうちに森で迷い、途方に暮れている子供のようだった。 

 いずれにせよ、私とその女の子は、仕事での付き合いを別にして会うようになった。したがって今日も、深い理由なく二人で時間を過ごそうということになったのだ。いつものように一方的に彼女が話し、私はそれに耳を傾けていた。大事なのは飲み物を口に運ぶタイミングだ。これを誤ると心証が悪くなるからだ。 

 会話が一区切りしたところで、私は目線を外し、カフェの向かいにあるパン屋を見た。何かが気になったわけではない。ただなんとなく目を向けただけだ。その店はメロンパンとカレーパンが有名で、休日になると少々長い行列ができる。私は入ったことはないが、そこそこうまいらしい。やはり今日も十人弱の行列が出来ていた。 

 私はかすかに息を呑んだ。 

 あのシルクハットの少女がいたのだ。パン屋の隣にあるベンチに座り、パンを食べている。何かはわからないが、おそらくチョココロネを食べているように見える。彼女の右隣には老婆が二人座って談笑していた。二人はダージリンのことなど見えていないかのように、ただ会話を楽しんでいる。 

 独特の服装をしているにもかかわらず、周囲の人々は彼女に一切の注意を払っていなかった。まるで存在していないのように。あるいは当たり前のことであるから、目を向ける価値などないかのように。 

「ねぇ」と私は後輩の女の子に声をかけた。 

「はい?」と彼女は返事をした。 

「あのシルクハットの女の子が見える?」 

 彼女は顔を上げた。それから言った。「はい、見えますよ」 

 この子にも見えるのだ。ダージリンが。つまりシルクハットの少女は私の幻覚ではなく、実在する人物なのだ。そのことがわかってホッとした。私の精神は異常をきたしているわけはない。 

 同時に違和感もあった。後輩の子の反応が予想より薄かったのだ。誰であれ、あの少女を最初に目にすれば、必ず好奇の視線を向けるだろう。人目を引く服装、整った顔立ち、純真無垢な瞳。私があの日、呆然と立ち尽くしたみたいに。一方で後輩の女の子にその様子はまったく見受けられなかった。私の言葉でパン屋のベンチに目を向けてはいるが、表情は特に変わっていなかった。 

「あの子がどうかしたんですか?」 

 女の子は不思議そうに尋ねた。どうしてこの人はそんなこと聞くんだろう、という感じだった。 

「おもしろい格好してるよね、あの子」と私は言った。「シルクハットを被ってるし、見たこともない服を着てるし」 

「本当だ……めずらしいですねぇ」 

 彼女はそう言って、アイスコーヒーのストローを口に咥えた。 

 私はゆっくりと呼吸した。なんだこの違和感は? 何かがかみあっていない。私は居心地が悪くなった。まるで私が場違いな話題を提供してしまったかのような空気感だった。 

「こないだ、あの子が僕の家にいたんだ」と私は言った。思えば脈絡のない話だった。 

「へぇ、そうなんですか」、彼女は興味なさそうに言った。 

「もちろん僕が招き入れたわけじゃない。気がついたら中にいたんだ。玄関の鍵が閉まっていたのに。もちろん窓も」 

 彼女は私の話を聞いていなかった。視線を外し、別のことを考えているようだ。それが表情からわかった。聞いていないふりをしているというより、私の声が彼女の耳に届く前に、空中で立ち消えてしまっているようだった。 

 私はそれ以上説明するのをやめ、パン屋の方へ目を向けた。 

 そこにダージリンはいなかった。彼女と老婆が二人座っていたベンチには、今では一人分の空きができていた。老婆たちは変わらず会話を続けていた。 

 私が目を離したのは一瞬だったはずだ。その隙にダージリンはいなくなったのだ。ありえない。道のどこにもあの子の姿を認めることはできなかった。つまりあの少女は突如として姿を消したのだ。あの夜のように。 

「どうしたんですか?」 

 後輩の女の子が心配そうに聞いてきた。本当に心配しているようだった。彼女の目には、私の様子が突然おかしくなったように見えているのかもしれない。 

 私は後輩の子に、シルクハットの少女が消えたことを言おうと思った。しかし少し考えてから、私は言った。 

「いや、なんでもないよ」 

 私はそう言って目を伏せた。自分が現実と空想の境界にいるような感覚を覚えた。 

3

 ある日の夜、プリンを作った。冷やしたカップを冷蔵庫から取り出し、テーブルの上に置いた。私は椅子に座り、テーブルに肘をついて、それを眺め続けた。誰もいない部屋で、無言でプリンを眺め続ける日がやってくるとは、過去の私は想像すらしなかっただろう。私はダージリンが現れるのを待っていた。そしてやはり、彼女は現れた。 

 気がつくと、彼女はテーブルの横に立ち、プリンのカップを見下ろしていた。唇をぺろりと舐め、顔の横で両手を重ね合わせた。 

「おいしそう」 

 ダージリンは恍惚とした顔をしていた。あたかも尊いものにまみえたかのように。 

 彼女はまさに唐突に現れたわけだが、私は以前ほど動揺しなかった。唾を飲み込んでから、私は言った。 

「よかったら、どうぞ」 

「その言葉を待ってたよ!」 

 彼女はそう言って、椅子に座った。それからテーブルに置いてあったスプーンを左手に持ち、プリンのカップを右手に持った。彼女は左利きのようだった。ダージリンはスプーンでプリンをすくい、ほんのしばらくそれを眺めた。首を傾げて、別の角度からも観察していた。それはほんの数秒のことだったが、彼女のまなざしは真剣だった。 

 やがて、ダージリンはゆっくりとスプーンを口に運んだ。 

「んー、おいしっ!」と彼女は言った。「甘味がなんともいえないなぁ。ボクね、こういう絶妙な甘さって大好きだなぁ。なんていうかね、すごく優しい味がするよ。とげとげしい感じもしないし、しつこさもない。これおいしいよ」 

「それは良かった」と私は言った。 

 彼女はおいしそうにプリンを食べていた。誰かがプリンを食べているところを見ているというのは、なぜか不思議な心持ちのするものだった。自分がひどく歳を取ってしまったような感覚を得た。 

 ふと思ったことがある。彼女はお菓子の匂いにつられて来る、と言っていた。しかし……プリンは焼き上がったマドレーヌのような香ばしい匂いを発さない。遠くから感じ取れるものではない。この子は何を頼りにここへやってきたのだろう?  

「よくこの匂いがわかったね」 

 私の言葉に、ダージリンは顔を上げ、よくわからないといった表情をした。 

「なんで? こんなに良い匂いなのに」 

 私は考えた。考えてもよくわからなかった。だから言った。 

「そうだね」と。「そのとおりだ」 

 お菓子を味わう彼女の顔を見て、本当に美しい娘だな、と思った。奇妙な格好をしていて、私の自宅に土足で侵入していて、なおかつ素性がわからないにも関わらず、私はこのシルクハットの少女に好意を抱いていた。少なくとも彼女が敵意や悪意を持っていないことはわかっていたし、不法侵入とは言え、やっていることはお菓子を食べていることくらいだからかもしれない。だがそれ以上に、ある種の本音として、ダージリンの顔立ちがあまりにも綺麗で、私がその美しさに見とれていたから、というのが主たる理由だろう。その短めの髪型のせいで、男の子にも女の子にも見て取れるのだが、声や仕草、そして雰囲気からダージリンが少女であることがわかる。手品師みたいなかっこうも、何かの扮装なのだろうが、彼女によく似合っていた。かと言ってどう前向きにとらえても魔法使いには見えない。かぶっているシルクハットから鳩を出してきてもおかしくはない。 

 この子はどうして魔法使いを自称しているのだろう。そういう設定なのかもしれない。魔法使いであるということは、彼女の中で揺るぎないアイデンティティなのかもしれない。あるいは、本当に魔法を利用できるのかもしれない。なぜなら魔法を使わない限り、警備が厳重なこのマンションに侵入して、施錠済みの私の部屋に侵入することなどできないからだ。 

「君はいったい何者なんだい?」 

 私はあらためて彼女に聞いてみた。 

 すると、ダージリンは怪訝そうな顔をした。 

「前にも言ったじゃない。ボクは魔法使いだって」 

「そうだった。君はお菓子好きの魔法使いだった」と私は言った。「以前、君は私に魔法を見せてくれると言ってたよね? 今日、見せてくれるかな」 

 ダージリンはスプーンをテーブルに置いた。容器の中身は空になっていた。 

「いいよ。約束だものね。ボクはできる限り約束を守るよ」 

 彼女はシルクハットを取った。帽子を外した彼女の頭を初めて見た。なんてことのない、形の良い普通の頭だったが、妙に新鮮だった。いつも帽子をかぶった姿しか見ていなかったからだろう。こうやってシルクハットのない彼女を見ていると、やはり女の子だという実感が湧いた。 

「そんなにジロジロ見ないで」、ダージリンは顔を赤くして言った。 

「ごめんね。つい目がいってしまった」と私は謝った。恥ずかしがる様子も女の子のようだった。 

「言っとくけど、ボクはめったに人に魔法を見せないんだからね。おじさんはボクにお菓子を食べさせてくれたから、そのお礼だよ」 

 ダージリンはシルクハットの内側を私に見せた。 

「種も仕掛けもございません」 

 確かにそのとおりだった。中には何も入っていない。ただの空洞だ。 

 彼女はシルクハットをテーブルの上に置いた。それから念じるように目を閉じる。 

「んー、は!」 

 一気に見開く。シルクハットをテーブルから取った。すると、そこに何かが置いてあった。 

 それは猫の置物だった。陶製で、表面がつるりとしている。座り込むような格好をしていて、顔を上げてこちらを見ている。まるで飼い主に名前を呼ばれ、振り向いているかのような猫の置物だ。それが突如としてテーブル上に現れたことになる。 

 ダージリンはにっこりと笑った。 

「どう? ボクの魔法?」 

 私の喉が乾き始めていた。 

「すごい魔法だ」と私はかろうじて言った。大声で「ただの手品じゃないか」と叫びたかったが、我慢した。 

「そうでしょ?」、彼女は嬉しそうに言って、シルクハットをかぶった。「それ、おじさんにあげる」 

 私は猫の置物を持った。それは手のひらに軽く収まるくらいの大きさだった。見た目以上に軽く、造形も細かい。猫の目にはグリーンの石がはめ込まれていた。それは照明の光を受けてかすかに輝いていた。 

「ねえ、これ――」 

 顔を上げると、すでに彼女はいなかった。代わりに、私の手の中には猫の置物があった。私は顔を上げたまま、置物を指先でなでた。その感触に偽りはなかった。これは夢でもまぼろしでもなかった。実際にプリンのカップは空になっているのだ。ダージリンはさっきまでそこにいて、私と話していた。そして私にこの猫の置物をゆずったのだ。 

 猫の置物を眺めながら、私はふと妻のことを思い出した。妻は猫が好きだった。二人で道を歩いていて、猫が視界に入ると、必ず私にそのことを報告した。「あそこに猫がいるよ」と。私はいつも「確かに」と返事をした。それ以上の言葉を思いつくことができなかった。猫はこの世界のどこにでもいた。妻が指摘してくれたおかげで、彼らの数の多さに気がつくことができた。それでも、猫が塀の上を歩いていたり、ベンチの上で昼寝をしていたり、太陽を浴びてあくびをしている姿が、私達にどんな影響を与えるというのだろう。世界の裏側でも猫はあくびしているはずだ。それがどうして重要なのだろう。私にはよくわからなかった。 

 結論から言うと、私は妻をうまく愛することができなかった。この世界には上手な人の愛し方が存在するはずだ。そしてその方法は複数あるはずだ。しかし私のやり方はおそらくその中に該当していなかった。だから妻はこの家から出ていった。彼女が出ていくと、最初からこの家には私1人しか住んでいないかのような感覚を覚えた。私は初めから一人ぼっちだった気がした。たぶん、それは事実なのだろう。 

 私の愛し方が不適当だったにせよ、少なくとも私は、自分の中にある温かい感情を彼女に向けていたはずだった。その不慣れな感情を私なりに解釈し、形を整えて、妻に与えたはずだった。妻は不器用な私の思いを彼女なりに受け止めてくれていた。しかしある日何かが崩れたのだ。その直接の原因が何であったかはわからないし、私も興味はない。そもそもそれは、危うくもろい関係だったのだ。 

4

 会社で重要な会議があった。十人強の社員が一室に集められた。私も出席したが、内容が頭に入ってこなかった。輸出部門の担当者がスクリーンに映し出された表を熱心に解説していた。出席者はメモを取るか、手元のパソコンで資料を確認するかしていた。私もいくつか自動的にメモを取った。 

 会議はたっぷり一時間かかった。一旦終了した後も、一部の人間は会議室に残って話し合いの続きをした。私は部屋を出て、同僚の男と一緒に、会社から歩いてすぐのところにあるカフェへ向かった。先ほどの会議を経て、いくつかの確認事項が発生したため、彼と話す必要があったのだ。社内のコーヒールームでも良かったが、私はその場所が気に入らなかった。タバコ臭かったし、スツールの座り心地は最悪だった。尻の皮が厚い猿であればあの場所を気に入るかもしれない。あんなところにいるくらいなら、禁煙の広々としたカフェに行って、比較的上手いコーヒーを片手に議論した方が良い。 

 コーヒーのカップを持って椅子に座った後、私は辺りを注意深く見回して、シルクハットの女の子がいないか確認してみた。彼女はどこにもいなかった。 

「どうした? 誰か探しているのか?」 

 同僚の男が目を細めて聞いてきた。私の様子を見て気になったのだろう。 

「いや。なんでもない」、私は答えた。「知り合いがいないか、たまたま気になっただけさ」 

 私の言い訳を聞いて、彼は腕を組んだ。まだ納得していないらしい。「あんた最近おかしいぞ」 

「そうかな」 

「ああ。何かに怯えているようだ」 

 怯えている? 

 この私が? 

 私は彼に勘付かれないように、深く息を吸い込んだ。 

「最後に有給を取ったのはいつだ?」と彼は聞いてきた。 

 私は苦笑した。「よせよ。疲れて気が変になったわけじゃない」 

「人は気がつかないうちに変になっていくんだよ」、彼はまじめな顔で言った。「前兆は本当にささいなものさ。俺たちはいつも見落としているのに、そいつのタガが外れたあとに、あれがきっかけだったんだ、と思うんだ。後の祭りだろう。俺が前にいた会社にもそういうやつがいた。ある日頭がおかしくなって、会社に来なくなり、行方もわからなくなった」 

「つまり私もいつか失踪してしまうと?」 

「例えばの話だ。自分という存在を維持するのは、意外と大変なことなんだよ」 

「肝に命じておこう」と私は言った。 

「あんた……」、彼は続けて何かを言おうとしていたが、次の言葉が出てこなかった。言うことを躊躇しているようだった。私は彼が言わんとしていることをなんとなく察した。 

「大丈夫だよ」と私は先回りして言った。 

 同僚の男はまだ何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。気まずい空気にならなかったのは、カフェの賑やかさのおかげだろう。 

 その後は同僚と仕事の話を三十分ほどして、会社に戻った。自分のデスクに座り、パソコンを眺めながら、先程彼が言っていた言葉を思い返していた。私は頭がおかしくなっているのだろうか? いや、そんなはずはない。毎日規則正しい生活をしているし、仕事でも大きなミスをしていない。自分は正常のはずだ。 

 変わったことと言えば、あの少女が私の前に現れるようになったことだけだ。それは確かに、常識的な観点から考えると普通ではない事態だ。しかしあの娘が私の精神状態に大きく影響を及ぼすとは考えにくい。彼女は無害だからだ。家に来てお菓子を食べているだけだ。 

 私はあの男の言葉を思い出していた。 

『自分という存在を維持するのは、意外と大変なことなんだよ』 

 私は自らの存在が揺らいでいるという事実に気がついていないのだろうか? 馬鹿な。私の自我は確固たるものだ。何によっても揺らぐことはない。それはまぎれもない事実だ。大丈夫。私は私のままだ。何も案ずることはないのだ。 

 言い聞かせるように自分に投げた言葉も、私はうまく受け止めることができなかった。頭がぼんやりとしている。まいったな、と私は思った。どうやらどこかでケリをつけないといけないようだった。 

5

 週末、後輩の女の子を家に招待した。ワインでも飲みながら話をしよう、と誘った。女の子は快諾してくれた。 

 家に入ると彼女は言った。 

「広いおうちですね」 

「そうだね、一人には広すぎる」と私は言った。 

 後輩の子はそれ以上、その話題を広げようとはしなかった。私がかつてこの家で妻と暮らしていたことを察したのだろう。あるいはもともと知っていたのかもしれない。 

 私はスパゲティとシーザーサラダを彼女に振る舞った。スパゲティのトマトソースは午前中に作り置きしておいたものだ。私はシーザーサラダにこだわっていて、レタスには新鮮なロメインレタスを使用しているし、ドレッシングも手作りしたものだ。彼女もおいしいと言ってくれた。 

 食事を終えて、皿を片付けた後、私は彼女に言った。 

「これからお菓子を作ろうと思うんだけど、良かったら食べない?」 

「何を作ってくれるんですか?」と彼女は尋ねた。 

「フィナンシェは好き?」と私は聞いた。 

「フィナンシェ」と彼女は繰り返した。「好きです。すごく好き。まさか作れるの?」 

「と言っても下ごしらえはしてあるんだけど」 

「すごい。食べたいです」と彼女は言った。 

 我々はキッチンに向かった。あらかじめ生地を作っておいたので、後は型に流し込むだけだ。私はキッチン棚の奥からフィナンシェ用の型を引っ張り出して、くぼみに薄力粉をまぶした。それから生地を、6つあるくぼみのうちの5箇所に流し込む。およそ均等に入れ終えたら、予熱しておいたオーブンに型を入れ、ボタンを押した。その一連の作業を、彼女は黙って眺めていた。感心しているようだった。 

 生地が焼き上がるのを待つ間、ワインを飲みながら話をした。彼女は自分の境遇を話してくれた。母親が早くに亡くなり、父親が男手一つで育ててくれたこと。陸上部出身で、県の大会で好成績を残した経験があること。マーケティングがやりたくてこの会社に入ったが、違う部署に配属されたため不満を覚えていること。それでも毎日の仕事に新鮮な気持ちで挑んでいること。話を聞く限り、彼女はバイタリティーに溢れ、潜在能力も多分にあるようだった。ますます私とは対照的な人物であるように思えた。 

「先輩のことも教えてください」 

 会話のわずかな隙間に、彼女は尋ねた。 

 私はつまみのチーズを手に取り、かじった。 

「大した話はないよ」と私は言った。「取るに足らないことばかりだ。そんなことよりも、もっと君の話が聞きたいな」 

 会話をしているうちに、生地が焼き上がった。香ばしい匂いがリビングにまで届いてきた。女の子が「わあ、いい匂い」とつぶやいた。 

「皿に盛り付けてくるよ。ここで待ってて」 

 私は椅子から立ち上がり、キッチンに行ってオーブンを開けた。見た目は悪くなった。私は試しに5つあるうちの一つを取り、包丁で切ってみた。中も十分に火が通っている。まずまずの仕上がりだ。オーブンの温度と時間を間違えないことが重要だ。でないと生焼けになってしまう。今回もうまくいったようだ。私は完成したフィナンシェを皿に載せていった。 

 5つのフィナンシェの盛り付けが終わり、皿を持ってリビングのテーブルに向き直った時、そこには後輩の女の子と、ダージリンが並んで座っていた。二人とも私の方を見ていた。どちらも無表情だった。私はその場に立ち止まった。 

 隣同士に座る二人を見ていると、彼女たちは年の離れた姉妹のように見えた。外見はあまり似ていないが、二人の間にある距離感と雰囲気が私にそう思わせた。一方、私は自分が場違いな存在に思えた。ここは私の家であるはずなのに、ダージリンと後輩の子を前にするとよそ者になってしまったような気がした。 

 予想通り、ダージリンはやってきた。彼女はこのフィナンシェの匂いにつられてこの家を訪れたのだ。今までと違うのは、後輩の女の子が同席していることだ。その変化が私に何らかの回答を示してくれるはずだ。 

 リビングには沈黙が流れていた。それは私にとって非常に長く感じられた。彼女たちの視線はまっすぐに私に向けられている。まるで私に何かの選択を迫っているようだった。その緊張感から、私はごくりと唾を飲んだ。フィナンシェの乗った皿が急に重くなったような気がしたので、耐えられず、それをキッチンテーブルの上に置いた。ごとん、と大きな音がした。海底に重いいかりを落としたようだ。 

 発言すべきは私のようだった。何かを言わなくてはならない。少なくとも出来たばかりのこのフィナンシェは論点ではないはずだ。もうこれは関係ない。このお菓子は呼び水に過ぎない。私は考えた。短い間だったが、そのわずかな時間で熟考した。やがて口を開いた。 

「知りたいんだ」と私は言った。絞り出した言葉は乾燥しきった流木のようだった。「ダージリン。どうして私はお菓子を作るようになったんだろう」 

 私はダージリンに問いかけたはずだったが、返事をしたのは後輩の女の子だった。 

「生焼けのフィナンシェもおいしかったわよ」 

 その声は後輩の女の子の声ではなかった。私の心臓は早鐘のように素早く鳴り響いた。そんなはずがない。ありえない。しかし間違いようのない声だ。 

「遥?」と私は聞いた。「遥なのか?」 

 後輩の子は返事をせず、じっと私を見ていた。その瞳には深い落ち着きが含まれていた。相手の心を見通すような目だ。その雰囲気は間違いなく、かつての私の妻が持っていたものだった。 

 私はゆっくりと息をした。自分の中に大きな動揺が生まれていることに思い当たった。私の心はこの上なく揺れていた。水面には波紋が生じ、その模様が湖面全体にまで広がろうとしていた。できることなら座りたかった。立っていることさえ体にこたえた。だがテーブルに行くまでの道のりが遠すぎる。あまりに遠すぎる。だから私はキッチンテーブルに両手をつき、自分の体をようやく支えた。 

「君はずいぶん遠くに行ったと思っていたよ」と私は言った。 

 彼女は何も言わなかった。口を閉じ、静かな目線を私に向けていた。私の発言が適当なのか不適当だったのか、わからない。どうすればいいのだろう。 

 私はダージリンをちらりと見た。彼女はつんとすました様子で、背筋を伸ばし、目をつむっていた。まるで夫婦喧嘩を傍聴するつつましい娘のようだった。彼女も私の返答を待っていた。二人して私に答えを要求しているのだ。どうやら逃げ道はないようだった。 

 私は口を開いた。開いてから実際に言葉が出るまでに時間がかかった。気が遠くなるほどの時間が。 

「君のことを愛していたよ」 

 私の言葉を受けて、後輩の女の子は、あるいは遥は、ゆっくりと瞬きをした。 

「じゃあ、どうして私から心を遠ざけたの?」 

 私は閉じた口の奥で、ぎゅっと歯をかみしめた。記憶が流砂のように脳裏を流れていった。 

「怖かったんだ」と私は言った。「君にはわからないだろう。大切なものを失うときの怖さが。僕はそのことをよくわかっているんだ。誰よりも深く」 

「子供を作ろうとしなかったのもそれが理由?」と彼女は質問を重ねた。 

 私は答えなかった。わからなかったからだ。だから視線を落とした。視線の到達点にはフィナンシェがあった。フィナンシェはすでに死んでいるように見えた。無機質な死体がそこに横たわっていた。 

 そこまで沈黙を保っていたダージリンが、ようやく口を開いた。 

「おじさんは、かわいそうな人なんだねぇ」 

 私は顔を上げて、ダージリンの顔を見た。彼女は私を哀れんでいるように見えた。妻がここから去ったときも、あんな表情をしていた気がした。 

 私は遥に言った。 

「君が家から出ていったとき、私はひどく打ちひしがれた。絶望したと言ってもいい。世界が歪んで見えたし、何もかもが色あせているように見えた。そこで気づいたんだ。私の世界に色彩を与えてくれていたのは君だったんだ」 

 それから少し間を開けて、私は続けた。 

「ありがとう。君と過ごした時間はとても大切な時間だった。そのことは忘れない」と私は言った。それから付け加えた。「どうか君も幸せに」 

 最後の言葉を受けてもなお、遥の顔は変わらなかった。私の言葉がどれくらい彼女に届いているのかわからなかった。私は遥でも後輩の女の子でもない女性と話をしているのかもしれない。私は人々のいなくなった城の中で、椅子に座り、一人で空中に語りかけているのかもしれない。ふとそんな気分になった。 

 やがて遥は言った。 

「さようなら」 

 彼女はバッグを肩に掛け、立ち上がった。椅子を戻し、振り返りもせず、まっすぐな足取りで部屋から出ていった。玄関のドアが開き、閉じる音がした。追いかけようとも思ったが、止めた。あれは遥じゃない。おそらくもう遥ではなくなっているだろう。彼女は後輩の女の子なんだ。明日会えば今日のことはすっかり忘れているに違いない。 

 ダージリンも姿を消していた。テーブルにはもう誰も座っていない。さっきまで私と後輩の女の子が飲んでいたワイングラスが置いてあるだけだ。 

 誰もいなくなった部屋で、私はさっきと同じように、キッチンテーブルに手を起きながら、立ち続けた。部屋の静寂に耳を傾き続けた。無音は私が一人になったことを示していた。呼吸の音も、心臓の鼓動音も、私から発せられるものだった。 

 ダージリンは私に何を見せたかったのだろう。私は遥の幻影と会話した。彼女との別れ際に言えなかった本心を吐露した。遥は――後輩の姿を借りた元妻は――私の言葉を聞き、おそらく理解してここから去った。それがダージリンの目的だったのだろうか。彼女はこれをしたかったから、私の前に現れたのだろうか。 

 私はその日、眠りにつくとき、後輩の子とダージリンがまっすぐに私を見つめるあの瞳を思い浮かべていた。私に発言と決断を迫るあの顔が頭から離れなかった。あのとき、私は正しい発言をし、正しい決断を下せたのだろうか。そんなことを延々と考えた。眠りはなかなか訪れなかったが、思い悩む夜が概してそうであるように、本人が気づかないうちに深い眠りが体の周りを包んでいった。 

 その後も後輩の子との関係は変わりなく続いている。彼女はあの夜のことを一切口にしない。まるで私の家を訪れたことさえなかったかのようだ。私もそのことについて聞いてみたいとは思わなかった。あの夜は一種の幻覚のようなものだったのかもしれない。あのとき、彼女には確かに遥が乗り移ったし、私はその光景を確実に目にした。しかしそれは現実的にありえないことだ。魔法使いを自称する、シルクハットの女の子が私の部屋を出入りするのと同じように。 

 後輩との関係がいつまで続くかわからない。社内には既に我々のことを感づいている者も何人かいるだろう。それが表沙汰になったら私はこの会社に居づらくなる。今まで築いてきた私の立場も、いくらか具合の悪いものになってしまう。だからいずれ私は選択しなくてはならないだろう。それがいつになるかはわからないが。 

 あの日以来、私はお菓子を作らなくなった。その意欲はすっかり消え失せていた。もう作る必要などないのだ。そもそも甘いものなんて好きじゃなかったんだ。私は菓子を作る以外に用途のない調理器具をすべて捨てた。マドレーヌの型ももう必要ないだろう。必要のないものをすべて捨ててしまうと、キッチンには寂しげな空気がただよっていた。まるで風船を奪われ、しょげている子供のようだった。でも私にはどうすることもできない。 

 菓子作りをしなくなったせいで、その後一度もダージリンとは会っていない。私はそのことを寂しく思った。あのシルクハットの少女を懐かしく思った。お菓子好きの、魔法使いを自称する女の子だ。結局あの子の正体はわからないままだったが、それはどうでもいいことなのかもしれない。 

 今でも自宅のテーブルには、ダージリンがくれた猫の置物が置いてある。時々、私は意味もなくそれを眺めた。猫の瞳はかすかに緑色に輝いている。私はその輝きをじっと見つめる。この家からは妻がいなくなった。ほどなくしてダージリンという不思議な娘が来るようになったが、彼女ももう来なくなった。すべては一時の幻だったのかもしれない。確実なことは、この猫が私の元に訪れたことだけだった。 

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