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『戦争が終わっても』


「昨日ここに天使が送られてきたらしい」
 友人は何気なくそう言った。
 僕はグラスを右手に持ったまま、まじまじと彼の顔を見つめた。友人はカウンターの上に両腕を置き、物静かな目線を自分のグラスに注いでいた。
「天使?」と僕はその言葉を確認した。
 彼はうなずいた。「ああ」
「何人?」
「一人だ」
「その話は本当?」
 彼はもう一度うなずいた。「確かだ。所長が俺にこっそりと教えてくれたんだ。しばらく特別房を利用するが、決して入らないように、ってね。俺と所長は割と仲がいいものだから、そういうことを逐一教えてくれるのさ。それで俺がその理由をしつこく聞いてみたんだ。そしたら所長は、天国の、正真正銘の天使が、うちへ収監されたって言ってたよ」
 僕は首を振った。「よく分からないな。どうして天使がうちの刑務所にやってくるんだ? 他の連中ならまだしも、どうして清らかさの象徴であるべき天使が、うちへやってくるんだ」
「知らんよ。だがこれだけは言えるぜ。お前の考え方は古すぎる。天使が清らかさの象徴だなんてことは大戦以前の話だ。今じゃ天国にいる連中なんか俺たち人間と大差ない存在だよ」
 僕はグラスの酒を口に含んだ。バーの中は混んでいたために多少やかましく、僕たちの声は騒音に阻まれて互いに聞き取りづらかった。しかしそのおかげで、僕たちの話を他人に聞かれる心配はなかった。
「所長がこっそり君に教えたということは、もちろんその話は極秘なんだろうね?」と僕は聞いた。
「だろうな。たぶんごく一部の人間しか知らないんだろう。そもそも特別房なんて、俺は一度も行ったことがないし、少なくとも俺が知っている範囲では、誰も入れられたことなんてないはずだがね」
「国が関わっていることなのかな?」と僕は聞いてみた。
「さあね、そこまではわからない。この国も大戦後からずいぶん潤ってきたし、他国との微妙なバランスも何とか保っている。しかしかつての戦争相手の、しかも天使をうちに収監するなんざ、どうも俺には納得がいかない。下手すれば国際問題にもなりかねないからな」
「そうだね」と僕は言ってから、ふと聞いた。「なあ、君は天使を見たことがあるか?」
「ない」と彼は言った。「というか、見たことがあるやつなんているのか?」
 友人はそれきり黙り込んだ。彼はあまり多くを語る性格ではない。
 僕は彼が口を閉じきってから、その天使のことをずっと考えていた。僕は天使を絵でしか見たことがない。エルグレコの『受胎告知』やラファエロの絵とか。写真や映像で彼らを残すことは禁じられているため、正確な姿かたちを目にするためには、直接会うしかない。僕は一度も会ったことがない。したがって僕にとっても、天使とはまさに未知の存在だった。

 翌日、僕は朝六時に起床する。髪を整え、歯を磨き、朝食を食べながらテレビを見た。ニュース番組が放送されていたが、大戦の話は一度も出てこなかった。だがそれも仕方のないことなのだ。大戦が終わったのはもう半世紀ほど前になる。僕の生まれる二十五年前に、それは人間の勝利という形で幕を閉じていた。
 準備を終えた僕は、家を出て刑務所に向かった。到着すると、更衣室で看守の制服に着替え、仕事を始めた。
 収監されている囚人のほとんどが神だった。彼らは一人一人がユニークな容姿をしていた。背丈が二メートルもあり、足が三本ある神から、見た目はほとんど人間と同じような神もいる。頭が二つ生えている者も、魚に近い顔をしている者もいる。現在この刑務所には六十四人の神がいる。彼らはもう何十年とこの刑務所に入っているが、外見上歳は全く取っていないらしい。神々は人間の数十倍も長生きなのだ。
 朝食を終えた彼らはぞろぞろと房を出て、これから労働に向かう。僕には神々の先頭を歩いて、労働所まで誘導する役目があるのだ。僕はしゅっぱああつ、と大声で言ってから進み、とまれ! と労働所の前で歩みを止める。それから彼らを中に入れ、昼まで彼らを監視する。神々は黙ってミシンを扱い、着々と作業を続ける。彼らは非の打ちどころのない模範囚だった。誰も暴動を起こしたり、労働拒否をしたりしない。とても安らかな日常を送っていた。その一連の作業だけを眺めていると、ここが刑務所ではなく、静かで平和な全く別の空間であるように感じられた。
 労働所の隅に立ちながら、僕はずっと天使のことを考えていた。僕は天使というものについてほとんど知らなかった。ただ漠然と、神の傍にいて、時たま下界に降り、人間に福音を授ける、というおとぎ話に近い程度の知識しかない。現在この刑務所に天使がいるという事実が、うまく呑み込めなかった。
 午前の労働が終わり、神々が昼食を取っている間に、僕は他の看守と交代をした。僕も昼食を取るのだ。
 しかし僕は休憩所には行かず、上着を置いてから刑務所を出て公園に向かった。そこには歩いて三分くらいで到着する。
 公園に子供の姿はなかった。そこにいるのは新聞を読んでいる車椅子の老人しかいなかった。
 彼はベンチの隣にいた。老眼鏡をかけ、穏やかな目で活字を追っている。その新聞の背面には、『政権維持は不可能?』という文字が書かれてあった。老人はとくに新聞を真剣に読んでいるわけでもなさそうだった。
「こんにちは」と僕は彼に挨拶した。老人は顔を上げて、わずかに顔を緩ませた。彼とは知り合いだった。
「昼休みかね」
 老人はそう言いながら新聞を畳み、膝の上に置いた。膝には厚めの毛布がかけられていた。
「そうです」僕はそう言ってベンチに座った。
「彼らは元気かな?」彼はメガネをしまいながら、他人の両親の具合でも訊ねるようにさりげなく聞いた。
「ええ。体調不良を起こした者は誰一人としていませんし、みんな至って元気です」と僕は答えた。「それに僕がこの仕事をして以来、誰一人として医務室を利用したものはいません。せいぜい定期検診に使われる程度です」
 老人はそれを聞いてうんうんとうなずき、両手を毛布の上に載せた。彼の手には年季を思わせる血管が伝い、皺が深く刻まれていた。しかしそれを別にすれば比較的きれいな手だった。
「奴らは人より頑丈で、人より賢く、そして人より寡黙だ。奴らが何を思考し、何を意図しているか、それは我々人間にはわからない。実際何も考えていないのかもしれない。不気味な連中だ。しかし奴らは一種独特の、どこか不思議な雰囲気をまとっている。懐かしさを思わせるような何かが……」
 僕は神々からそういった雰囲気を感じ取ったことは一度もなかった。僕にしてみれば、彼らは無機質で無感覚で、およそ人間とは程遠い存在にしか見えなかった。
 しかし僕はこの話がしたいがためにここに来たのではない。自分から話を切り出してみた。
「一つお伺いしたいことがあります」
 老人は右のまぶたを大きく持ち上げて、興味深そうな目でこちらを見た。
「何だ?」
「大戦のことです」と僕は言った。
 一瞬だが、彼の目の奧に、何か光るものが見えた。老人は少し首を傾げた。
「どうしてまた、急に?」
「個人的な関心です。最近ちょっと気になったんです」
「では具体的に、戦争の何を知りたいんだ? 大戦の経過についてか? それとも終戦後の経緯についてか? ひとくちに大戦と言っても、いろいろある」
「天使のことです」と僕は老人をまっすぐ見つめたまま言った。
 老人は目を見開いた。そこには彼の素直な驚きがあった。それからふっとほどけるように笑った。ポケットからたばこを取り出して火をつけた。一度大きく吸い込み、ため息を出すように煙を空中に吐いた。
「連中は、大戦にはまったくの無干渉だった」と彼は話し始めた。「神々が地上に降り立ち、人間の首都に総攻撃をかけている中、天使どもはまるでタンスの裏に隠れる子ネズミのように息を潜めておった。多くの資料にも、奴らが何か行動を起こしたという事実は見つけられない。それはある意味でかなり不自然なことだった。天使は読んで字のごとく、天の使いだ。戦争以前は頻繁に地上へ降りていたらしいが、争いが始まってからは一切姿を見せなかった。それを不自然に思った人間もたくさんおったらしく、戦後裁判で天国にそのことをきつく問いただしたが、天使についての情報は一切得られなかった。天使どもは裁判所の令状に応じず、現れることはなかった。そもそもどこにいるのかもわからないのだ。結局人間は彼らを呼び出すことをあきらめた。それから数十年、天使は一度も地上に降りていない。少なくとも公式上ではそうなっている」
「どうして天使は戦争中、地上に降り立たなかったのでしょうか」
 老人はそこで一呼吸置いた。
「さあね、そればかりは見当もつかんよ」と彼は言った。「そもそもこの戦争は最初、天国側が有利だった。地獄は大戦中、一切の関与をしてこず、人間と天国のどちら側の味方にもならなかった。いわば中立的な立場だったわけだ。地獄にしてみれば、どちらが勝ったところで敗北した方に群がれば、あらゆる利権を確実に得ることができた。だから積極的に参戦する必要などなかったのだ。しかし人間側も簡単には負けなかった。最新鋭の特殊兵器を用い、科学力を総動員して、天国側に着実にダメージを与え続けた。人類側は天国を陥落させようと一致団結していた。その協力ぶりはいまだかつてないほどだった。そしておよそ五十年前、人類は奥の手である超さつりく殺戮兵器を使い、天国に壊滅的打撃を与えた。もう回復が不可能なまでに。戦争の継続が不可能であると判断した相手は、無条件降伏を受け入れた。そうやって戦争は終結した。人類は天国との戦争に勝利したのだ」
 老人はトーンの変わらない声音で話を進めた。
「だが犠牲はあまりにも多かった。こちらの人口の三割が減少し、都市のインフラは破壊され、食糧不足が頻発した。戦前に覇権を握っていた国家は凋落(ちょうらく)し、経済の縮小を強いられた。他国への影響力も低下した。大半の先進国が衰えてしまった。しかしこの国だけは、他に比べて受けた傷は少なく、むしろ大戦後の十数年間は国際社会で一番の座に君臨した。今も我々が豊かに暮らせているのは、そのおかげと言っていいだろう」
 彼は皮肉るように笑みを浮かべた。
「だが、戦争が終わって久しい現在でも、疑問は多く残っている。例えば天国側の戦争目的。当初戦争を仕掛けたのは相手方だった。宣戦布告もなく、要求もなかった。あいつらはただただ攻撃してきた。降伏にも応じず、捕虜もとらなかった。多くの人が死んだ。人々は残酷に、苦しみながら息絶えていった。その虐殺行為に意味があるとは思えない。裁判で語られた内容にも釈然としない部分が多々ある。一見理屈は通っていても、奴らの思惑や感情が見えてこない。奴らはまだ何かを隠しているのだ。他には、人間が超殺戮兵器を開発できたほどの技術力をどうやって完成させたか。そんなものを持っていたならもっと早くに使えばいい。つまり作り上げたのは戦争中だ。偶然できたとは考えにくい。地獄が技術援助を施したという話もあるみたいだがね。じゃあなぜ観戦していたはずの連中が、終盤になって人間側に味方したのか? 優勢だったのは天国のはずだ。その理由は誰にもわからん。あるいは人間側と地獄との間で秘密協定が結ばれたのかもしれない。しかしそれも推測の域を出ない」
 彼は話し疲れたようだった。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「そして……天使のことだ。戦時中奴らがどこにいて、何をしていたか。そして現在どこにいるか、全く明らかでない。私も個人的に調べてはみたが、公式の資料には一切記載されていない。彼らは全員死んでしまったのだろうか。戦争が始まってから、天使を見かけた者はいないのだ……」
 老人は携帯灰皿を取り出して、たばこをそこに押し込んだ。
「さて」と彼は言った。「戦争の概略はあらかた話した。軽くまとめるとこんなものだ」
「ありがとうございました」と僕は言った。
 老人は僕の目を探るように覗いた。
「ところで、君はなぜ、天使のことを急に知りたくなったのだろう。何かきっかけがあったのではないかね」
 彼の言葉の裏には強い確信があるように思えた。隠し事は通用しないだろう。僕は素直に言うことにした。
「二日前、うちの刑務所に天使が入ったみたいです」
 老人は軽く口を開け、呆然としたように僕を見つめた。
「僕も実際に見たわけでないんですが、どうやら極秘に特別房に入れられているようです」
 彼はまだ大きな衝撃の中にいた。そして視線をゆっくりと下に下ろし、自らを納得させるようにうなずいた。そして考えるような顔で、公園の木に目をやった。ちょうど鳥がどこかから飛んできて、その木に留まろうとしていた。
 車椅子の老人は何も言わなかった。未だに自己の中での考察は続いていた。僕はじっと、彼が何か言うのを待っていたが、どうやら彼の中では僕との会話は終わっているみたいだった。僕はベンチから立ち上がり、貴重なお話をありがとうございました、と言った。彼に背を向けて公園を去る際に、老人は独り言のようにつぶやいた。
「あるいはまだ、戦争は終わっていないのかもしれん」

 僕はその日の夜、こっそりと刑務所に忍び込み、特別房に行ってみた。友人には黙っていたが、僕はかつて一度だけ、興味本位で特別房に入ったことがあった。入るのはそれほど難しくはない。夜勤を装って、鍵をこっそりと借りるだけだ。特別房と銘打っておきながら、監視カメラは一つもない。ただやたら頑丈なだけなのだ。
 僕は看守室で鍵を拝借し、刑務所の奧にある長い階段を降りて、特別房に向かった。階段を降り切るのに数分はかかる。下に到着すると、細長い廊下が続き、その突当りの扉がある。その奥が特別房だ。鍵は拍子抜けするほど簡単に開いた。慎重に、音を立てずに中に入る。確かにここ最近のうちに、誰かが入った形跡があった。
 僕は通路の電気をつけた。薄暗い通路は一気に明るくなった。埃とかびのにおいが、階段からずっと続いていた。通路に人はいなかった。仮に誰かいたとしても、何とでも言い訳できるので問題ない。
 特別房は二部屋あり、それぞれ一人が入る。二部屋とも一面がガラス張りになっていて、通路から中をすっかり見渡すことができる。室内のスペースは広く、便器とシンクが隅に設置されている。誰も入ってなければおもしろくも何ともないし、仮に誰か収容されていたとして、特にそこから得られるものは何もない。ただ一人の人間が――人間とは限らないが――幽閉されているのを、漠然と感じるほかない。
 片方の部屋が使われていた。僕はその部屋の前に立ち、ガラスの向こうを見た。そこには天使がいた。
 天使は椅子に座っていた。拘束服を着て、目隠しをし、自殺防止用の猿ぐつわを噛まされている。拘束ベルトがいくえ幾重にも体に巻き付いていて、彼女をがっちりと椅子に縛り付けていた。背中の翼は一つの黒い革の袋に収まり、椅子の後ろ側に固定されていた。これでは全く動くことができない。
 僕は天使の外見をくまなく観察した。僕の想像していた天使像と大して違いはない。栗色の髪は短く、顔立ちは少年のようにも、少女のようにも見える。しかしおそらく後者だろう。髪の隙間からやや尖り気味の小さな耳が見えた。肌は白く、まるで子供のように艶がある。
 天使はぴくりとも動かなかった。もちろん呼吸はしているらしく、ゆっくりと肩が上下している。だが首を振ったり、大儀そうに体を揺らしたりするなどの動きは見受けられなかった。眠っているのかもしれない。
これだけ拘束しているのだから、誰かが二十四時間体勢で面倒を見なくてはならない。しかしこの房にはそれを担当するはずの人間はいなかった。
 僕は何をするでもなく、ただ立って天使を眺めていた。そこにいるのは翼を抜きにすれば人と大差ない少女だ。しかし彼女は人の目を奪う何かがあった。それは非現実的でありながら、人の内側に直接届く力を持っていた。
彼女は僕がガラスの向こうにいるということを知らない。目隠しの革は厚く、ガラスは防音製。天使の存在を認知しているのはこの僕だ。そしてその事実が、何となく僕の思考を鈍らせ、僕に安心感を与えていた。この天使を見ているのは僕だけなのだ。僕はこの世で最も尊いものを独占しているのだ、と。
 彼女を見続けてどれくらい経ったのだろうか。僕はふと我に返り、腕時計で時刻を確認した。もうだいぶ遅くなっていた。あまり長くいると、さすがに誰かがやってくるかもしれない。僕は房を去ることにした。
 最後にちらりと天使に目をやった。彼女はしっかりと、規則正しく呼吸していた。
 僕は電気を消して、特別房をあとにした。

 翌日、天使のことが頭に残って仕事に集中できなかった。ふとした拍子に、あのガラスの先の、がんじがらめに拘束されている天使の姿が脳裏に浮かぶのだ。あまりにその光景が浮かぶので、仕事で危うくミスをしかけた。昼食を食べている時も、家にいる時も、つい天使のことを考えてしまうのだ。僕はついに諦めて、夜中にもう一度特別房に行くことにした。
 天使は昨日とまったく同じ体勢でそこにいた。特別房にいるのは、僕を抜きにして天使一人だけだ。食事は誰が運んでいるだろう。用はどうやって足しているのだろう。僕はそんなことをぼんやり考えながら、天使を見ていた。立っているのに疲れると、房の隅にあったパイプ椅子を持ってきてそれに座った。
 特別房はとても静かだった。自分の呼吸音がいやに大きく聞こえた。房の中で動くものといえば、呼吸するたびに動く天使の胸と肩ぐらいだ。彼女はまるで彫像のように、静寂を漂わせながら椅子に座っていた。
僕は天使に目を奪われていた。
世界は僕らだけしかいなかった。
自分の思考が徐々に停止していくのを感じた。
それ(・・)は僕自身の深いところにまでもぐりこもうとしていた。それ(・・)は静かな雨を抜け、暗い海に沈み、その底にあるものに手を伸ばしかけていた。
 無意識のうちに、僕は身震いした。その瞬間、周囲の景色が明瞭に、思考は明晰となった。自分の荒い息遣いを聞くことができた。現実が僕を瞬時のうちにとらえたのだ。
 腕時計を見た。もう帰らなくてはならない時間だった。ここにいると通常の時の流れから離脱してしまう。僕は慌てて椅子を片付け、特別房から出た。

 しばらくそんな毎日を過ごした。仕事を終え、時間が遅くなってから、誰にも見られないように特別房に入り込む。そして天使と会う。しかし向こうは僕の存在を知らないので、会うという表現はいささかおかしいが。相手はただ呼吸をしているだけだ。僕はパイプ椅子に座りながら、体と思考を時間の流れるままにした。
 どうして天使が特別房に入れられているのだろう。それは最大の謎だった。それを解く手がかりは僕には何もなかった。ガラスの向こうに行くには、所長の指紋認証とパスワードが必要だから、中に入って、「ねえ君、なんでここにいるの」と聞き出すことはさすがにできないのだ。
友人は何か新しい事実を手に入れただろうか。会っていろいろ聞いてみたかった。しかし彼と会える時間はなかなかない。刑務所内では業務が違うので、昼休憩のときでさえ会うことができない。だから前回一緒に飲んだのも、その時間を作るのにずいぶん苦労したのだ。
 やがて僕は解決しようのない論題について思案することをやめた。代わりに解決しそうな論題について思案することを始めた。
 天使の前にいる間は、物事を考えるのが実にスムーズに進んだ。何も重大な命題に対して崇高な思考を働かせていたわけではない。僕が考えていたことは愚にもつかないことだ。ここに明記する価値もないことなのだ。
 僕の頭は実に軽やかに動き、決定的ではないにせよ、問題の結論を一応出すことができた。僕が普段答えを導き出せないような問題でも、まあこうなるんじゃないか、とか、こんなものでいいだろう、といった風に妥協し、一人でうなずくことができた。それは普段の僕からしてみればかなりの進歩だった。そうすることで、僕は部屋の片付けをテンポよく進めるような感じで、脳内のごたごたをいくらかすっきりさせることができた。
 考えるのに飽きると、僕は天使に話しかけた。と言っても、それは意味のない問いかけであり、無駄な話題提起だった。相手は猿轡を噛まされ言葉を発することができないし、だいいち防音性のガラスが僕の声を妨げていた。だからそれは会話というより、僕の独り言だった。しかしたとえ無駄であっても、僕はガラスの先にいる天使に独り言をしゃべり続けた。それは天使との対話であり、僕自身との対話でもあった。僕に対する感想も、意見も、反論も返ってこない。しかし僕は構わなかった。
 僕は色んな話をした。出身地のこと、家族のこと、かつて通っていた学校のこと、自分の得意なこととそうでないこと。僕という存在を形成する要素を一つずつ言葉にして並べていった。僕はその要素についての感想は特に述べなかった。それはもう僕の一部であるから、今さら文句のつけようもないのだ。
 僕は誰かに――相手には聞こえていなくても――自分の話をここまで詳細に語るのは生まれて初めてだった。僕は自分の個人的なことを語る相手とは心から信頼している相手のみに限ると思っていたのだが、実際に天使を前にすると、信頼とか心のつながりとかは大して重要でないように思えた。僕は両親を信頼せず、友人も信頼しなかった。彼らは僕を理解しようと努めなかったから、僕も彼らを理解しようと努めなかった。だから僕は自分の中身を誰にもしゃべらなかった。しかし僕が語りかけている相手は、言ってみれば赤の他人であり、住む世界も体の構造も違うまさに別世界の住人だった。そんな相手がおよそ声も届いていないのに、僕の話を聞いてくれる。僕の声が届いているのは、防音性のガラスだけで、したがって僕はガラスに話しかけていたのかもしれない。でもそんなことは大して問題ではない。つまり誰かに向かって話すという行為が重要なのだ。僕が自らを分解し、それを声に載せて、架空の話し相手に届けているということが肝心なのだ。
 僕はあらかたを語り尽くすと、しばらく後悔したように口を閉じ、首を振ってから房を出た。房はまた前のような静寂に満たされた。天使は静かに息をしている。
 
 
 久しぶりに友人と酒を飲む機会を得た。僕らはいつも通り、バーで待ち合わせをして酒を飲んだ。時間は七時を過ぎていて店内は混んでいた。
 友人との会話はあまり弾まなかった。いつもはどちらかが言葉を発すれば、芋づる方式に話が展開するのだが、今夜はどうもうまくいかなかった。どちらもしゃべっている途中に、何かを思い出したように口を閉じてしまうのだ。
 その理由は分かっていた。二人とも天使のことを考えているのだ。天使が頭の中に浮かんで仕方がないのだ。僕が仕事中に天使のことばかりを思い描いていたのと同じように、彼もまた天使のことをずっと考えていたのだ。
 やがて友人はため息をつき、ここを出ないか、と言った。僕はうなずき、料金を払ってからバーを出た。そしてしばらく夜の街中を歩いた。半時間ほど前まで雨が降っていたので、道路は黒く濡れ、空気中には湿ったにおいが漂っていた。友人は自動販売機で缶ビールを二本買い、一本を僕に手渡した。そして我々は川の柵の前で、しばらく黙って水の流れを眺めた
 先に口を開いたのは友人の方だった。
「天使のことなんだが」
 僕は川を凝視しながら応じた。「ああ」
 彼は背中で柵に寄りかかり、首を僕の方に向けた。
「お前はどう思う?」
 僕はビールを一口飲み、瞬きをゆっくり二回した。
「実は僕は、毎日特別房に行っている」
 友人は言葉を失い、僕の横顔を見つめた。
「あそこに行くのはそれほど難しくないんだ。簡単に入れる」と僕は何でもないことをしゃべっているかのように言った。
「毎日そこへ行って何をしている?」と彼は聞いた。
「特に何もしてないさ。ガラスの前に立って、ただ眺めている」
 友人はしばらく考え込んでいた。そしてあきれたように言った。
「お前それが上のやつらに知られたら、大変なことになるぜ」
「今のところばれていない」
 彼は首を振った。「まあいいさ。で、天使はどんな感じだった?」
「綺麗だったよ」
「具体的に言ってくれ」
「今のが具体的だよ。それ以外に語ることはとくにない」
 僕の言葉にはいささかとげ棘があったが、友人は気にしていないようだった。僕自身もどうして相手を攻撃するようなことを言ってしまったのかわからなかった。
 友人は口を閉じて、言うべき言葉を模索していた。彼は色んな言葉をため込んでいるはずだった。しかし探していたものは見つからなかったみたいだった。
「あまり、無理するなよ」と彼は言った。
「ああ」
 それから僕は友人と別れ、家に戻った。胸の中にしこりのようなものが残っているのを感じた。それは硬く大きく、僕の中にいつまでも収まっていた。僕は電気を消した部屋の中で、足を組んであお向けになり、窓の外を眺めた。夜空には手先の器用な人が紙から切り取ったみたいな月がぽつんと浮かんでいた。月は黄色く、僕の部屋をその色で照らしてくれていた。

 翌日の昼、僕は老人に会いに公園へ行った。彼はいつもの場所にいた。でも今日の彼は新聞を読まずに、焦点の定まらない目でどこか遠くを眺めていた。僕が近づくと、彼はぼんやりとした顔で僕を見上げた。でも彼は僕が目の前に立っているという事実をうまく呑み込めていないように見えた。僕はベンチに座り、老人が話し出すのを待った。
 少ししてから彼は口を開いた。
「私は一度、戦場で天使を見かけたことがある」
 老人はかすかに震える声で言った。
「あれはまさに戦局の分岐点とも言うべき戦いだった。人間側は全力の反抗を試み、手持ちの兵器で重要地点を守り切ろうとしていた。私は一人の兵隊として、わずかばかりの弾薬と一つ時代遅れのライフル銃を持って戦っていた。私のまわりで次々と仲間が死んでいった。やつらの攻撃は過激だった。赤い光が見えたかと思うと、大地は真っ二つに裂け、その直後に爆発が起こった。私は攻撃される前に素早く位置を変えたり、相手を狙撃したりして、何とか命を繋いでいた。絶望が世界を覆っていた。どこにも希望などなかった。私はわけもわからずに銃を撃ち続けた。そしてあの一撃を受けた」
 彼は虚ろな視線を空中に送った。
「気が付けば私は、時空の裂けた空を見上げていた。空はカッターで切り裂いたみたいに、ぱっくりと見事に割れていた。そこから次々と、羽の生えた神々が降りてきて、地上を血の海にしていった。私の両足は膝の先がすでになくなっていた。傷口から血が流れ出ているのを見ると、私の中の力がすうっと抜けていった。私は故郷のことを思い、家族のことを思った。意識が徐々に薄くなっていった。どこからか形ある、具体的な死が近づいてくるのを感じた。そして私は確かに天使の姿を見た」
 老人は目をつむり、何かの間違いを正そうとするように深く息を吐いた。
「天使は他の神々と違い、濁りなき純白の翼を持っていた。それをはばたかせ、地上から数メートル離れたところで、私を見下ろしていた。私は……私はあのときの光景を、仔細に思い出すことができる。私の命が尽きかけようとしている。何かが終わりを告げようとしている。その時、天使は物静かに、空中から私を見ていた。その目には、何か尊いものが映り込んでいるように見えた。私は自分の人生の後れを取り戻そうとするかのように、震える右手を、天に向かって突き伸ばした。目の端から涙がこぼれ出た。私は――」
 言いかけた言葉は喉のすぐそこまで上ってきていたが、老人はそれをむりやり胃の中に押しこんだ。
「私は死ななかった。こうして生きている。あれだけの出血量にもかかわらず、一命をとりとめた。目を覚ますと病院のベッドで寝ていた。そして私が天使に会ったあの日から、もう半年も過ぎていることを知った。人類は奥の手を使って神々を焼き払った。そして人々は感激の涙を流していた。しかし私は何も喜べなかった。私の心は空の容器のように、今もなおこの体の中に収まっている。空虚で、冷たく、重みのない器だ。あの時、私は死ぬべきだったのだ。天使は戦場で死に瀕する者たちすべてを救済していたのだ。そしてその救済は肉体の死によって完結するものなのだ。しかし私は死ねなかった。死によってもたらされるはずだった福音を、私は逃してしまったのだ」
 それから沈黙が舞い降りた。全てを話し終えた老人は、すっかり疲れ切っているように見えた。今にも眠り込んでしまいそうだった。しかし彼は何とか目を開け、生涯を通して追い続けてきたであろう疑問と戦い続けていた。
「戦争は終わったのだ」
 老人は力なくそう言った。それが彼の答えであるようだった。
「そして私の人生も終わった。私は死んでいる。もう戦うことはできない」

 
 その日、特別房に行くと、天使はいなかった。そこには空の椅子があるだけだった。僕はガラスの前で、誰も座っていない椅子をにらみ続けた。もうそこには語るべき相手はいなかった。部屋の中には明かりが灯っていたが、それが照らすのはただの空白だった。
 僕はガラスに額をくっつけ、目をつむった。そして天使のことを思った。ついこの間までガラスの向こうにいた天使のことを、頭に思い描いた。僕は知っていたのだ。あの天使が、僕の姿を認め、僕の言葉を聞き、僕を理解してくれていたことを。天使には目隠しも、猿轡も、拘束服も、防音ガラスも意味はなかったのだ。あの天使は僕のためだけに、そこで囚われの身として、僕に耳を傾けてくれていたのだ。

 
 それ以来僕は何も感じることなく、あの老人のように、空っぽの日々を送った。友人とも会わなかった。ただ機械的に仕事をこなし、腹が減ったら食事をとって、ビールを飲み、布団にもぐった。誰も僕に話しかけてこなかったし、僕は誰にも話しかけなかった。
 神々は僕の後ろを黙ってついてきた。彼らの顔には表情がなく、僕の顔にも表情はなかった。彼らは戦争で犯した罪をこの刑務所で償っている。しかし――彼らは何に対して償っているのだろうか? 戦争は終わったのだ、と老人は言った。そしてその言葉を刑務所の中で、大声で叫んでみたくなった。戦争は終わった、と。しかしそんなことは、神々や同僚にとってはどうでもいいことなのだ。大切なのは、何かが終わったことではなく、何かが始まることなのだ。世界は何かの始まりを求めているのだ。
 でも――と僕は思う。あの老人のように、自らが終わってしまい、もう新たに何かを始めることができない者は、いったいどうやって救済されるのだろう?
 僕は時々夜中に目を覚まし、窓から夜空を見上げながら、そんなことを考えてみた。しかしその問いの答えはわかっていた。戦争は終わったのだ。
戦争は終わってしまったのだ。
 僕はかつてたくさんのものを取り逃がしてきた。多くのものを失ってきた。それを一つ一つ数えていくと、両手の指では足りなくなった。僕は当時、命を賭けてでもそれを手に取り、守り切るべきだったのだ。手放してはいけなかったのだ。しかし僕はそれらを捨ててきた。そうしないことには生き残れなかったのだ。そして戦争は終わった。もう取り返しはつかない。そう思うと僕の心は張り裂けそうになった。

 その夜も、僕はドアをゆっくり開くように目を開け、布団から起き上がった。そして窓を開けて夜の空を眺めた。その日の月は見事な円のかたちをしていた。それは文字を書けば世界中の人々に見てもらえそうなほど大きかった。そして僕はいつものように、例の問いを思い返した。
 その時――僕は天使を見た。彼女は静かに降りてきて、月を背に、窓の向こうに浮いた。僕は目を見開いて、口を開けた。
 拘束の解かれた天使の美しさを、僕は言い表すことができない。それはあまりに危うく、か細いものであるはずなのに、何よりも深く透明なものだった。
僕は目から涙を流し、思いをどうにか言葉にしようと努力してみた。言いたいことがたくさんあった。あの房で語り切れなかったこと。心の奥底で凍らせた言葉たち。
 でも声は出なかった。すでにそれらは巨大な扉の奥にしまわれていて、誰にも開けることはできなかった。
天使は優しげな瞳で僕を見下ろしていた。純白の羽は音もなく羽ばたき、彼女の着ている白のワンピースは、夜風に触れてわずかに揺れていた。巨大な月は天使の背後から、その姿を神秘的に照らしていた。
 僕はあの老人がかつて戦場でしたように、天使に向かって手を伸ばしてみた。暗い部屋の中から、その尊い何かに触れようとした。自分の指先に、今までの人生で取り逃がしてきたものを感じようとした。触れない程度まで、しかしその存在をかすかに感じ取れる程度まで。
 天使はそんな僕に微笑んでくれた。そして翼を大きく動かし、雲一つない夜空の奥深くへ飛び立った。彼女はすぐに点となり、やがて見えなくなった。僕は手を下ろし、部屋の中に舞い込んできた一つの羽をつまんだ。それは白い輝きを放ち、温もりに満ちていた。
 僕はそれを手の平にのせ、空を見上げた。もう胸の中のしこりはなくなっていた。そこにはもっと救いのあるものでいっぱいになっていた。僕は目を閉じ、手の中にある温もりを感じながら、安らかな眠りへ入っていった。 
 


                終

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