クオリアについて

 こんにちは。ひかるです。今回は僕の小説でたびたび登場する『クオリア』という概念をご説明します。

 そんなの登場してたっけ? と思われる方もいるだろうし、「そもそもお前の小説を読んだことがない」という方もいらっしゃるだろうから(悲しい……)、具体例を挙げてみます。

・『クジラ姫と悪質電波』に登場するウバという少女
・『ロイヤルミルクティー』に登場するセイロンやダージリン
 ※ちなみに、『私生活』に出てくる歌い手の少女とセイロンは同一の存在です

などです。つまり『僕の作品の中で、重要な概念を表現するキャラクター』を意味します。
 ちなみに、クオリアとは哲学のおける用語のことで、簡単に言ってしまえば「感じ」を意味します。「なんか嬉しい感じ」とか「あのリンゴの赤い感じ」とか。言葉にはできないが、人々が感覚的に得られる印象のことです。

 上記に出てきた、ウバたちに共通する点は、

・非人間的な存在である(年齢の概念がない、時間の制約を受けない)
・それぞれが何かを表象する存在である

です。十代前半の外見をしている女の子である、というのは偶然に過ぎません……63歳のおっちゃんでもいいのですが、それだと絵的に映えないと思ったので……

 僕はなぜ、このクオリアという概念を小説上で利用しているのか? 答えは簡単です。「文章にしにくいことを、とりあえず十三歳くらいのかわいい女の子に代弁させれば楽なんじゃね?」と思ったからです。

 いやいや、案外馬鹿にできないですよ。だって、文章にしにくいことを文章にするのってめちゃくちゃ大変ですからね。前提条件を整理して、具体例を考えて、わかりやすい言葉にして……

 その点、ウバやダージリン、そしてセイロンみたいに、『とりあえず人間の形』を与えて、『彼女たちの言動によって』伝えたいことを表現するという手法は大変便利です。だって、長々と説明しなくて済みますからね。僕みたいなめんどくさがりには非常に有用な存在です。

 彼女たちクオリアは、『言葉にしにくいこと』を『表象』した存在です。つまりそれ自体が概念の様相を呈します。辞書にも載っていないし、哲学書にも書いていないことだけれど、ダージリンたちはある種の思想を体現しています。じゃあ具体的にどんなことを表象しているの? と思った方は、僕の小説を読んでください……ここに書くのは面倒なので……

 さて、話は変わりまして、みなさんに質問です。概念は歳を取るでしょうか? 取りませんよね。なぜならそれは普遍的な存在だからです。例えば、マルクスが『階級闘争』を提唱したとき、その考えはこの世に生れ落ちました。おぎゃー、と(階級闘争を知らない方は、『人類の歴史って、立場が上の人と下の人との争いによるものだ、程度に考えておいてください。僕もよく知りません……)。そして、その思想がこの世に生を受けた途端、それは過去にまで触手を伸ばします。千年前の人間が『階級闘争』なんて考えを知らなくても関係ありません。あるいは、千年後の人が「階級闘争って何? 興味もないわー」と思っていようがかまいません。概念とはそれが存在した瞬間に時空を超えて世界を記述することができるのです。

 もっと簡単な話にしましょう。みなさん、『愛』って知ってますか? 知ってますよね。中身はよくわからんけど。そして、その『愛』が最近生まれたものだとします。そんなわけないけど。つまり、百年前の人が『愛』という言葉を聞いても、「は? 何それ? どういう意味?」と返すような状況を想定してください。
 仮に百年前に『愛』という言葉がなかったとしても、『じゃあ百年前の人たちは愛を持っていなかったのだ』とはなりませんよね? 江戸時代の人々だって、あるいは平安時代の人間だって、きっと愛情は持っていたはずです。お互い愛し合って生きていたはずです。また、1000年後の人だって、きっと愛はあるはずです。「いやいや、1000年後にはそれに代わる考えが生まれるかもよ?」確かに、そうかもしれません。でも、そうしたって『愛とは異なる概念がある』という風に、必ず既に存在する考えを比較して考えられるはずです。愛は死なない。

 クオリアだってそうです。彼女たちは時間の制約を受けない。生まれたのが最近だって関係ない。生まれた瞬間、クオリアは時空を超えて(=時間と空間の縛りなく)世界を記述する。ウバも言っていたはずです。

「キミが理解できないのはわかるよ。でもね、お願いだから、そのまま聞いて欲しいの」と彼女は言った。「私は、遥か昔に生まれて、その時から、空クジラと共に存在してきたの。この世界ができたころから、今に至るまで。そして、たぶん、これからもずっと存在し続ける。私は言葉を話す曖昧な概念なの。形を保っている一つの象徴なの」
      『クジラ姫と悪質電波』より

  僕は小説の中で、『表現を彼女たちに託す』ことをしています。要するに、丸投げです。僕自身も伝えるのが難しいことを、クオリアたちに任せているのです。僕はあくまで彼女たちの言動を模写するだけでいい。特に何かを考えているわけではありません。クオリアは自分たちが現れるべきときに出現し、伝えるべきことを伝えて去っていく。気まぐれな猫のように。それはときに不可解でありながらも、主人公にとって大きなヒントにもなりうる。そして僕はめちゃくちゃ楽できる。

 ただ、この表現を託すという手法は昔からあったと思います。絵画や映画、小説の中でもね。だって楽だから。僕と同じくらいめんどくさがりのアーティストがいたのなら、すでに開発しているアイデアだと思います。

 読者の皆様が、このクオリアをどう読み取るかは完全に自由なのです。ここで僕が『こう読み取れこの野郎!』と指図してしまっては意味がありませんから。一人ひとり違ってもいい。僕は皆様から感想を聞くたびに、いろんな意見があるものだなぁ、といつも感心します。なぜなら、僕自身も一人の読者なのだから。

 最後に一言だけ。僕の作品では、このクオリアは『14人』出てきます。すでに表れているのはごく一部です。14人という数字は固定です。これ以上増えもしませんし、減りもしません。前述したダージリンやウバ、セイロンの他には、ルフナ、カモミール、兎君とか……いっぱいいます。ちゃんと頭の引き出しに入っていますよ。楽しみにしていてくださいね。

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