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ただの日記、ひまわりの町で息をしているなど(7/18)

なんか書きたいけど、私のやってることのまとめはちょっと書くと時間がかかりそうなので、ただの生活日記をあげてみることにした。

冷房のよく効いたバスの車内で文字をうっている、首の汗と指先がしんみりと冷えてゆく。透明窓ガラスの向こうにはセミの音が渦を巻いている。耳をすます。

さて今日のことを書こうかな。
今日私も手入れさせてもらった街の公園の花壇。地域住民の中にわたしがいるみんなの花壇に、ひまわりが3輪ともついに咲いた。ひまわりの根っこも力つよくて抜くのも大変なの、と近所の山田さんの奥さんはいう。一緒にお花の活動してる人、お上品なのに重いものをひょいひょい持ち上げる人なのだ。
わたしはさいきん、地域のひとの暮らしをゆるりとしている。
ひまわりの夏をみんなでまだかまだかと眺めていることがうれしい。ラジオ体操ではひまわりの話題でもちきりなのだ。

そんな感じでここで冬を迎えることが少したのしみになっている。太宰は正月に夏の浴衣を自分に送ったりして、夏まで生きたいと思ったらしい。(ちょっとちがうかも)
冬の街をみるために、つぎの春をみるために、そのためだけに生きている。きのう春に咲く花の種をアマゾンでふとポチってしまった。
何に期待することもなくそうした生活ができるのが、指先からじわじわと飽和していくあたたかさのようで息がずっとしやすいのだ。バスの冷房の風に体温がなれてほんわりしている。

そんな今日はちょっと時間を巻き戻すと、マイプロ(kaigo_my_project)の話しを画面越しにおしゃべりしたりして、なんだかモヤモヤをやんわりすることの輪にいれそうなのだ。

換気窓の隙間から横を流れるなま温かな空気が、自分の温度と同じで透明になる。息を吸う。

すきなことをして透きとおる、からだのすべてがわたしのものだ、

最近の生活はそんな感覚がふつふつと湧いてる。ここで息をしていくのが心地よくって自分のからだや世界が自分のものになって、透きとおってゆく感じがする。

ニュースではコロナとか感染者数が2000人行くかもとか、オリンピックやるとかでディストピアでやばい社会だなと、病院へ向かうバスの車内で思う。その冷徹さのなかでしなないために自分の小さな世界のなかで少しでも呼吸が楽になるところを目指してゆるゆると漂っている。

その生活がかなりらぶなのだ。コロナの不安とか吹き飛ばして、自分ごとでやさしい世界のそばなら息ができる気がする。おゆの温かさを思い出してじんわりする。やさしい世界らぶ。

今日の耳から入った音声をゆっくりなぞって再生させる。あなたの「私が羨ましい」といった言葉がひかりで、あなたの背伸びしない言葉たちがしなやかで、ほんとうにあたたかなところで息をしているなと思う。

悲しみと痛みが、少しずつ、やさしさとしなやかに変わりつつある気がする。悲しみの場所がむず痒くなる。ちょっと腕をさする。
ゆっくり息をすったりして、透明になってゆく感じがしている、体温であたたまった背もたれがここちいい、おしりのイスがなごりおし。

あ、降りなきゃだ。あわわ。
心の準備体操おっけい、夜勤へ行ってくる。

おしまい。

いつかこれらの散文けすかもしれん。

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