「つまらなかった映画にはちゃんと悪口を言え論」の話――書かないんじゃなくて書けないんじゃない?

はじめに

端緒はこのツイート。

 今回はこの傾向を作るひとつの要因についての話。

★1レビュー、僕は好き。

 このツイートの内容には賛成だ。若者の感想は知らないけど、やたら大げさにべた褒めする映画紹介インフルエンサーみたいな奴らに対しては日頃から薄ら寒いなあと思っている。

 僕はたとえ自分の好きな映画であっても、amazon等の★1レビューを読むのが好きだ。「ああこの人はこういうのが好きで、この映画のこういうところが気に入らなかったのか」ということが分かって面白い。自分とは異なる視点が体験できる。だから自分もつまらない映画についてはどこがどう気に入らなかったのか特に抵抗もなく普通に書いている。

 例えばこれは、amazonに書いた「ゲット・アウト」のレビューだ。

★☆☆☆☆全然面白くない

序中盤「この家族、なんだか怪しいぞ」というシーンが延々と続いて、最後に種明かしという構成です。
確かに初めは不気味な雰囲気が出ていてどうなるのか気にはなりました。
ただもうそれがずっと続くのでめちゃくちゃ退屈です。
最近観た「パラサイト」なんかは、衝撃の事実が明らかになった後も二転三転と話が展開していき、
最後まで目が離せませんでした。
対してこちらは長すぎる退屈な前振りの最後に一転だけです。
そのオチもホラー映画としては凡庸でした。
一応隠された伏線や比喩表現の解説なんかも読みましたが、「ふーん」という感じ。
後から映画の答え合わせをするような観方が好きな人には楽しめるのかな?
以上が「差別問題をテーマとしている」という点を抜きにしたレビューです。

次に差別問題に関してなのですが、この点がどうにも評論を独り歩きさせているように感じます。
「被差別者をあえて称揚したり特別扱いすることも差別になるのではないか」
なんてことは既に散々言われていることで、それが言いたいだけならブログでも書けばいい。
「この映画である必要性」を感じません。
もちろん人種差別問題には根深い歴史と様々な不幸な事件が関連しており、
語るに尽きぬ重要なテーマであることは間違いないでしょう。
実際この映画のレビューや評論をみても、その「差別問題自体」について言及しているものが散見されます。
ただ僕にとっては、重要なテーマを扱っているからと言ってこの映画が面白いとは思えません。
人種差別の問題に興味があるなら、アメリカの歴史に関する本でも読んだ方がよほど楽しめるでしょう。

アカデミー賞受賞についてはちょっとした邪推をしてしまいました。
現在Black Lives Matterの標語で黒人差別反対運動が盛り上がっています。
その勢いは「賛同を表明する者」が称賛される次元をはるかに超えて、
「賛同を表明しない者」がバッシングを受けるほどです。
今ほど盛り上がっていないときでも、アメリカの知識人の間では人種差別は常に重要なテーマでしょう。
それを扱った作品を「評価しない」ということに対し、
選者は社会的なプレッシャーを感じたのではないでしょうか。

こんなことを考えてしまうくらい、なぜ評価されているのか全然分からない映画でした。
まあ散々書きましたが、多くの人に評価されているのは事実なので興味があれば観てみたらいいと思います。
楽しめる可能性の方が、確率的には高いはずです。
つまらなかったら、この釈然としない気持ちを一緒に分かち合いましょう。

 冒頭のツイートは「こういうのもっとやろうぜ!」ってことだろう。わかる。楽しいよね。

ツイートに対する否定的なリプライ

 だが冒頭のツイートに対するリプライには否定的なものが多い。その主張を簡単にまとめると主に次の2点に集約されそうだ。

・つまらないものに時間も労力も使いたくない
・その映画を好きな人に攻撃されるかもしれない

 よって元のツイートをした映画にわかさんと否定的なリプライをしている人の間には、このあたりの意識に大きなギャップがあるということになる。それは要するに一体どういうことなのか。主に1つ目の「つまらないものに時間も労力も使いたくない」に注目して考えてみる。

書かないんじゃなくて書けないんじゃない?

 身も蓋もない話だが、多くの人間はまともな文章を書けない。仕事柄よく大学生の書いた文章を読むんだけど、偏差値低めの大学では、「言葉遣いや文法に間違いがなく、スラスラ普通に読める文章」程度ですら書けない学生が多い。「日本人なんだから日本語の文章くらいみんな普通に書けるだろう」というのは、普通に書けちゃう人間が抱きやすい勘違いなのだ。

 これは割と文章特有の問題だと思う。例えば絵を描ける人が「俺が普通に描けるんだから誰でも描けるだろ」なんて思うことはない。それは絵が、自覚的に積んだ専門的訓練によって上達するものだからだ。しかし文章は違う。特に専門的な訓練をしなくても、様々な日常的要因によって無自覚にいつの間にか訓練され、自然と書けるようになる場合がかなりある。よって当人にさえ何故かよくわからんけど普通に書けるという状態が生まれやすい。

 ツイートした映画にわかさんは、ブログに長い映画レビューを投稿していることからも分かる通り、確実に普通に書けちゃう側の人間である。文章を書く能力がある程度あれば、書くことへの抵抗も少なく、むしろ遊びの一環として書くことができる。そのような感覚を持っていれば、レビューを書くことは「作品に対する自分の感想や考えをまとめる」というひとつの楽しい遊びであり、その対象が面白いかどうかは関係ないのだ。よって「つまらないものに時間も労力も使いたくない」なんて意識は特に起こらないのである。僕もゲット・アウトの★1レビューは楽しく書いたし、このノートもいま遊びで書いている。

 反対に文章を書く能力の高くない人にとっては、ある程度内容のある文章をまとめるということ自体が恐らくひとつの苦行なのだと思われる。ただでさえ大変な作業なのに、つまらない映画の事を考えてどうつまらなかったか必死にまとめるなんてやってらんねーよ、となるのも無理はない。

 要するに、一見「考え方の対立」に見えるこの議論の裏には、「能力的なギャップ」が隠れているのではないかということだ。こういった問題は中々発見が難しい。最初の提唱も反対意見もそれぞれの能力に無自覚に依拠しながら為されるため、表に全く出てこないのである。特に「知的能力の高さ」に社会的価値が付与されている現代社会では、「だって俺文章書けないもん」なんてわざわざ言うやつはほとんどいない。逆に日頃の劣等感の反動で、攻撃的なリプライをしたくなってしまう場合もあるだろう。

こういう相手の成長のために善意で敢えて悪口を言ってあげてるんだみたいなの、自己満足のためにそこの部分が気に入ってる人の好きの気持ちを否定して、作者の努力も踏みにじって、界隈に負のエネルギーをまき散らして通ぶってる人間が本当に有害。そういうのを厄介オタクって言うんだよ

あー、もしかして自分に合わなかっただけでもボロクソに悪口言って「忌憚のない意見で改善点を挙げてやった」って思っちゃう人だったりします?

 こういうの。元の発言を曲解してその曲解部分を攻撃するというアクロバティックな技は文章が書ける人間には真似できない。

 またそもそもの文章力のギャップの上に、さらに批判というもの自体の難しさものしかかってくる。好意的な意見を表現することはかなり簡単だ。的外れでも特に角が立たない上に、便利な定型表現がたくさん開発されているためである。たとえば「良かった・・・」の後に「(語彙力)」と書いておけば、「語彙力を失うほど良かった」ということになる。最近は使用頻度が減っていそうだけど、「エモい」なんていうのも表現しづらい気持ちを全部含ませることができる便利な言葉だ。他にも「控えめに言って最高」とかね。対して批判を同じくらいの労力で行おうとすると、恐らくクソとかゴミみたいなえげつない罵倒しかできなくなってしまう。ある程度相手を納得させられる説得力が要求される(と感じられる)分、難易度はかなり高くなってしまうだろう。そりゃ無理だよ。

おわりに

 ここまであーだこーだ書いたけど、文章の書けない人間を馬鹿にしたいわけではない。教育機会は平等ではないし、文章力という基本的な技能が社会全体に行き渡らないのは教育制度自体の問題だ。

 そしてこういった基本的な能力の差はいつの間にか人々の間に重大な対立をもたらす。エマニュエル・トッドはアメリカ社会について、「リベラルであるはずなのに低学歴・低所得者層を馬鹿にするエリート」と「そんなエリートに反感を持つ低学歴・低所得者層」の対立が深刻化していると論じた。同様の現象は、程度の差こそあれ日本でも随所に見ることができる。様々な意見の対立の裏に、こういった知的能力のギャップという要因が隠れているのではないだろうか。


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