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組織屋の死生観

組織屋として1つの節目を迎えました。
公的な会社設立手続きがようやく終わり、合同会社テキスタイルとして、晴れて世に自分の会社が誕生しました。

さて突然ですが先日、大学時代の後輩が51歳という若さで亡くなりました。2023年7月にガンを発症して、亡くなる直前まで仕事をしていたそうなので、ほんとにアッという間の出来事でした。(2023年4月に会った時は元気だったのに…)
大学の仲間とお通夜に出席しましたが、もう10年以上亡くなった人の顔を見てなかったので、久しぶりに死について考えさせられました。

私は生まれた時から親族との距離感が近く、多くの人を見送ってきました。曾祖母、祖父母、友人、先輩…。
特に小学生の時に、自分の母親の死別は幼心に深く傷を持つことになりました。友人に母のことを説明できない、告別式で死んだ人の顔を見るのが怖い等、ずっとこの状態でした。(ただ25年前の結婚を機に、憑き物が落ちたようにスッキリしているのが不思議です)

今までは高齢や突然死での別れでしたが、50歳を超えてついに死というものが身近になった、そんな感覚を今回持ちました。
「自分も近々そうなるんだろうな」「みんな悲しんで駆けつけてくれるのかな?」「どんな終わり方をすれば幸せなんだろうか?」
前述の後輩の棺の周りを囲むご家族の悲しんでいる様子を見ながら、自分事として捉えていました。

私は母の死をきっかけに、子供の頃から死=終わりのことばかり考えていました。元々、私は母親から「あんなたは弟と違って体が弱いねんから」と言われ続け、中学校に入学してすぐ腎炎でドクターストップがかかり、中高6年間は医者に定期的に診てもらう日々でした。(普通に暮らしていたものの、体を冷やさない・強い運動をしない等の制約がありました)

死のことは常に考え続けながら月日が過ぎ、2004年~2005年にコーチングを学んていた時、「自分が死ぬ時にどう思って死にたいか?」という問いを得て、一気に覚醒しました。
その時、「関わる人たちに惜しまれながら見送られたい。若い人たちにバトンを渡したい」という気持ちがリアルに自分のものとなりました。それが33歳。そこで自分のミッション『自分の子供や孫の世代に、誇れる日本を創る』がクリアに言語化されたわけです。今はここ目掛けて意志を持って生きています。

『死にカタログ』は最近新たに文庫本が出たので買い直しました

その後、『死にカタログ』(寄藤文平)という本に2006年頃に出会います。いろいろな角度から死を捉えている中で、私が最も関心を持ったのが最後の筆者からのメッセージでした。
「死はそれまでの人生が津波のように襲ってくる。押しつぶされて死んでしまわないようにしなくてはならない。でもどこにも何も書いていないので、どうしたらいいか分からない」
「(そうならないために)毎日ちょっとずつ折りたたんでおく」

その後、色々試しながら自分自身に毎日折り合いをつけるようにしてきたのですが、2019年からは毎日日記をつけるようにしています。
毎日、何をしていたのか。特にその時の感情を言葉にして封じ込め、後から見返してもすぐにその時の気持ちを取り戻せるように仕掛けをしました。
結果として、(元々無駄な時間の使い方をしていなかったですが)さらに時間を大事に、一瞬一瞬を味わって過ごすようになりました。その結果、なぜか時間の流れ方がゆっくりになった気がしますね。

時間の流れ方はよく、『1年間の時間の流れる感覚=分母に年齢・分子に1』と置いたりしますが(つまり歳をとるほど1年の流れるスピードが速い)、幸い自分にとってはあまり速くなっている感じはしません。私が他人より時間の流れ方が遅いわけではないですが、一瞬一瞬は充実して楽しめているように感じます。
経済的にも時間的にも、一定の余裕があるこの10年~20年が人生を実り豊かに過ごせる時期なのかなと思っています。四季で言うと『秋』の感覚があり、春から夏までに仕込んだ種が育ち、実っていて、今自分のやったこと以上のリターンが得られている感触があります。不思議な感覚ですね。
若い人が歳をとることに対して、悲観的になることのないよう、歳をとることで豊かになっていく様も発信できたらと思うようになりました。年配の自分がイキイキとしていることで、「自分もああなりたい」って憧れられるようになりたいですね。

人はそれぞれの命の砂時計を持っています

最後に、私が普段から研修で語っていることを書き記します。
『今この瞬間も砂時計の砂は下に落ちている』
砂時計は命の長さですね。砂が下に落ちるということは歳を取っていっているということです。
若いうちは上に残っている砂の量が多いので、永遠に砂が無くならない錯覚を持ってしまうかもしれませんが、確実に砂は落ちています。落ちるスピードが変わらないならば、如何に味わえるかだと思います。時間は長くすることはできませんが、濃くすることはできます。
時間を無駄にせず、みんなが自分の時間を濃く使えるようになることを心の底から願います。

今回自分の会社が生まれた喜びと、後輩が亡くなるという悲しみが同じタイミングで起こりましたが、社会の営みという意味では生と死は表裏一体だと感じています。自分もその営みの一部として、限られた時間を意味のあるものにしていきたいと改めて覚悟をし直しました。

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