ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(55)
第十一章 饗宴(その3)
翌日ティルドラスは、ホーシギンとドゥーカン、メルクオ、そして数人の護衛――サクトルバスはイスラハンへの依頼のため、イックと共にオーモール家の藩邸に向かった――を伴ってケーシの街の南の外れにある河原を訪れる。
そこは取り澄ました王宮とは対極にある汚くごちゃごちゃとした界隈だった。石の川原に竹の骨組みを筵や麻布で覆っただけの見世物小屋や何やら悪臭の漂う怪しげな酒肴の屋台が並び、笛太鼓の音や客引きの大声があたりに響く。夜ともなれば、塒さえ持たない最下級の街娼とそれを買う客が、川岸に泊めた小舟の中やあちこちの茂みの陰で無遠慮に事に及ぶという。「掏摸や物盗りも多いのでお気を付け下さい。」他の者たちに向かってホーシギンが注意を促した。
「サクトルバスどのにも同行していただいた方が良かったかもしれませぬな。」周囲を見回しながらメルクオが言う。
「少しものを訊ねたい。このあたりにマリオン=ホッホバルという俳優がいるはずだが、ご存じないか。」近くの見世物小屋で客引きをしていた男に向かって、ティルドラスは声をかける。
「さあねえ。」つっけんどんな口調で答える客引き。「見たところどこかの貴族さまみてえだが、ここはそんな高貴のお方が来るような場所じゃありませんぜ。身ぐるみ剥がれる前にさっさとお帰りになった方がいいんじゃねえですかい。」
そのあとも何人かに声をかけては同じように無愛想な扱いをされながらも、とある芝居小屋でようやくティルドラスはホッホバルを探し当てる。「こりゃティルドラスさま。こんなむさ苦しいところへようこそ。ご覧の通りの安芝居だが楽しんでいって下せえ。」顔に墨で髭を描いた盗賊の扮装のままティルドラスを迎えながら、ホッホバルはそう笑った。
「いや、今日は芝居を見に来たのではない。頼みたいことがあるのだ。」とティルドラス。
「へえ? まあ、ちょうど中休みだ。お話をうかがいましょう。」そう言いながら、芝居小屋の舞台裏にティルドラスたちを案内するホッホバル。
「実は王宮の小宴の宰領を仰せつかった。」地面に筵を敷いただけの汚い床の上に腰を下ろしながら、ティルドラスは手短に事情を説明する。「その宴席での余興に、あなたたちの力を借りたいのだ。引き受けてはもらえぬだろうか。」
「王宮の宴会!」さすがに驚いた表情になるホッホバル。「そうなると、よそ者の俺の一存で決められる話じゃありませんね。この辺り一帯の芸人を仕切ってる親分を紹介しますんで、そちらと話を付けてくだせえ。」
席が温まる間もなく、ティルドラスたちは芝居小屋から近くの粗末な板葺きの小屋に案内され、この河原に集まる芸人たちの元締めという人物に紹介される。名をゼビー=ガルマといい、浅黒い肌色で頬に大きな傷跡のある、眼光鋭い男だった。
「ネビルクトンの殿様ですかい。貴族の方が面白半分にお忍びでやって来ることは時々あるが、そうやって正面から頼みに来られたのは初めてだ。で、その国持ちの伯爵さまが俺たちみたいな河原者に何のご用ですかい?」ティルドラスを紹介されてガルマは言う。その口調は、決してこちらに好意的な様子ではなかった。
彼に向かって、これまでの経緯をもう一度繰り返すティルドラス。「ちょうどホッホバルがこちらで世話になっていると聞き、伝手を頼ってお願いに上がった。演目の選択や事前の稽古はこの者に一任するので指示に従ってほしい。」ティルドラスは傍らのドゥーカンを振り返る。
「この方が?」じろじろと無遠慮にドゥーカンの風体を眺めながらガルマは言った。「どう見ても楽士には見えませんぜ。どっちかというと軍人さんに見えまさあ。」
「軍人だ。ティルムレチスの城で参軍を務めている。」頷くドゥーカン。
「時々いるんだ、身分をかさに俺たちを見下して、芸がどうのこうのと好き勝手なことを言ってくる素人連中が。」うんざりした表情でガルマはかぶりを振る。「言っときますが、芸のことで訳知り顔の素人にあれこれ口出しされても困るんだ。勝手な指図をされた挙げ句に王様の前でしくじって打ち首なんざごめんですぜ。」
「………。」ドゥーカンは無言のまま、手にした荷物の中から一丁の提琴(バイオリンの類)を取り出すとそれを奏で始めた。最初はゆっくりと叙情豊かに、それが次第に速くなり、最後はめまぐるしく激しい調べとなって曲は終わる。
「驚いたな。」聞き終わってガルマは目を見張る。「とんでもない腕前だ。それなら舞台に出ても金を取れますぜ。」
「提琴だけではない。打ち物(打楽器)、笛なども本職の楽士以上の腕前を持っている。ただの素人ではないことは分かってくれたと思う。」とティルドラス。「演じてもらいたいのは、宴席の合間に短い音楽を三、四曲、さらに曲芸、踊り、寸劇などだ。むろん相応の礼はする。まずは手付け金としてこれだけ持参したが、引き受けてはもらえまいか。」
「まあ、悪い話じゃないが――」難しい顔でガルマが何か言おうとしたときだった。
「親分、大変だ!」子分の一人らしい男が慌ただしく小屋に駆け込みながら大声を上げた。「ジード寺院の奴らが殴り込みかけてきやがった!」
「何だと?」腰を浮かせながら怒鳴るガルマ。
「何があったのだ。」とティルドラス。
「こないだジード寺院の僧兵が女を買って金を払わずに逃げようとしやがったんで、みんなで袋叩きにして追い返したんでさ。」鎧代わりなのか、手近にあった革の上着を着込み、鉄の鉢巻を頭にかぶりながらガルマは言う。「それを根に持って殴り込みかけてきやがったな。野郎ども、出入りだ! 角笛を鳴らせ!」
「我らも外へ! 場合によっては助太刀する!」供の者たちに向かって叫ぶティルドラス。
外に出ると、むこうの方から二十人余りの僧兵の一団が、逃げ惑う役者や露天商たちを追い立てながらこちらに向かって歩いてくる。「ガルマだな? ここにいたか!」先頭に立った僧兵が、ガルマの姿を認めてそう怒鳴った。「先日、仲間の者が無礼な仕打ちを受けた礼に来てやったぞ!」
「何言ってやがる! てめえらの仲間が女を買って金も払わずに逃げようとしたからじゃねえか。それを逆恨みしやがって!」彼の言葉に怒鳴り返すガルマ。
「あれは汚らわしい商売女の罪を清めてやったまでよ。それを金を取ろうなどもってのほか。さっさと詫びを入れて二度とあのようなことはせぬと誓え! つべこべ抜かすとこの界隈、片端から叩き壊すぞ!」
「おお、これは。」なおも何か言おうとするガルマを制して、僧兵たちの方に二、三歩進み出ながらティルドラスは声を張り上げる。「何やら見覚えがある。先日お目にかかった御仁ではないかな?」
「ハッシバル伯爵!」息を呑む僧兵。ティルドラスの言葉通り、先日ヘルツェンコの茶の席でアンコックに暴力を振るおうとしてサクトルバスに叩きのめされた中の一人だった。「なぜここに――?」
「ちょうど頼み事があって来たところ、この騒ぎに出会った。詳しい事情は知らぬがこのような乱暴狼藉は感心せぬな。得心のいかぬ事があるなら王家の法廷への訴えを仲介しても良いが、いかがか。」あくまでも穏やかな、しかし決然とした口調でティルドラスは続ける。「何としても力に訴えるというのであれば、行きがかり上、我々もこの方々に加勢せざるを得ない。それでも良いか。」
「伯爵に無礼を働いてサクトルバスに痛めつけられたというのはお前たちか。」彼の傍らからメルクオが、普段のへらへらとした調子とは打って変わった鋭い口調で叫ぶ。「今日はサクトルバスはおらぬが、戦うとあれば、代わってハッシバル家遊撃将軍、このメルクオ=リーが直々に相手してやろう。さあ、参れ!」そして彼は腰の剣を抜き放ちながら悠然と前に進み出た。
「くそ!」背後の者たちを振り返りながら怒鳴る僧兵。「相手が悪い、退け!」
「しかし兄弟子――」彼の傍らで別の一人が驚いたように声を上げる。
「いいから退け! 奴隷であの腕前だったのが、今日はよりによって将軍だ。忌々しいが仕方がない。――覚えていろ、いずれ天罰が下るぞ!」どこかで聞いたような捨て台詞と共に、僧兵たちはわらわらと来た道を駆け戻っていき、やがて見えなくなった。