ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(10)
第二章 帰途の出来事(その5)
サフィアからの国権の奪還はあくまでティルドラス自身が自力でなさねばならぬこと――。同じことを前に言われた相手がいる。そう、彼にも会っておかねばならない。
そのあとミストバル領を出てペネラたちとも別れ、ハッシバル領の北の国境であるティルムレチスの城まであと少しの場所まで来たところで、ティルドラスは供の者たちに向かって言った。「しばらく別行動を取る。お前たちは先にティルムレチスに向かい、到着後、城内で休息するようにせよ。」そして彼はサクトルバスとジョー=レックの二人だけを従え、馬を飛ばして東に向かう。
彼が向かったのは、ティルムレチスから少し離れた、何もない野原だった。しばらく馬を走らせるうち、一本の竹竿が人気のない草原の一角に立てられ、その先にくくりつけられた赤い吹き流しが風にたなびくのが目に入る。あらかじめ打ち合わせてあった目印である。「今着いた。待たせたか。」目印の竹竿に駆け寄り、その周囲に集まっていた十人ほどの人間たちに向かって声をかけるティルドラス。
「ティルドラスさま。お待ちしておりました。」進み出て会釈したのはユッヒム=ザナーディンだった。ケーシを出立する際に、ティルドラスはザナーディン家に連絡を入れ、帰途にこの場所で会えるよう手配していたのである。「ミレニア公女との縁談の件は聞き及んでおります。さぞやお辛いことでございましょうが、気を落とされませぬように。」少年時代にティルドラスの側に仕えていた彼は、当然ミレニアとも面識があり、互いに想い合う二人の気持ちも、おそらく誰よりもよく知っていた。
「自分でも何とか気を奮い立たせようと努めてはいるが、それでも時々心が折れそうになる。」彼の言葉にティルドラスはため息をつく。「それにつけても思うのだが、自分がこれだけ辛い思いをしている一方で、やはり季節は巡り、世の中は何事もなかったかのように動いていく。人というのは小さなものなのだな。」
「それを嘆いたところで始まりませぬ。」優しく諭すような口調でユッヒムは言う。「この世は誰か一人のために存在するわけではございません。何百年のち、我らがこの地上から跡形もなく消えたあとも、やはり天地は巡り、人々はそれぞれの営みを続けていくことでしょう。そういうものなのです。」
「あの頃と同じような物言いをする。」彼の言葉に弱々しく微笑んでみせるティルドラス。「ともあれ本題に入りたい。まず、行きにあなたから借りた銀千両のことだが、金策ができたのでお返しに来た。」往路でユッヒムに借りた、忍群「暗黒風」から二人の忍び――「蝉」と「蜘蛛」を身請けするため支払った銀一千両のことである。「併せて依頼がある。あなたの麾下の忍び、できる限り腕利きの者を何人か貸して欲しい。報酬は、返済分と合わせてこれでお願いしたい。」そしてティルドラスはユッヒムに一つの紙包みを手渡す。中身は、天下にその名を知られるムロームの両替商に宛てた、額面銀千両の手形が四枚だった。往路にムロームで闘技場での賭に勝った金のうちまだ受け取っていなかった分を、端数にあたるいくばくかの現金とともにコムーノから渡されたものである。
賭けで手に入れた金のうち往路で受け取った分はケーシの宮廷への働きかけその他であらかた使い果たし、残った分も姉一家の生活費や後からティルドラスたちを追う者たちの旅費として全てケーシに残してきている。したがって、今のティルドラスにとって、事実上これが自由に使える金のほぼ全額だった。
「これはまた――」中身を改め、ユッヒムは驚いたように言う。「思い切ったことをなさいますな。今のあなたにとって銀四千両は決して小さな金額ではないはずです。それを惜しまずお出しになりますか。」
「所詮、国を出る時には手元になかった金、たまたまアシュガル領滞在中に賭に勝って手に入れたものだ。ならば国に帰る前に使い果たしたところで最初の姿に戻るだけのこと、惜しむほどのことでもないと思う。」
「そこまでして依頼されるからには何か事情がおありでしょう。お話しいただけますか?」
「このことは供の者たちにも話していない。だが、あなたになら明かしても良いと思う。そもそも全ての事情を隠さずに話すのがザナーディン家に依頼を行うに当たっての決まりと聞いている。」そしてティルドラスは話し始める。先日のアブハザーン侯爵との面会の中で、サフィアがティルドラスを廃することを画策していると警告を受けたこと。サフィア自身は新たにダンを自身の傀儡として伯爵の位に就けることを考えているらしいこと。それに呼応してフォージャー家が軍を動かす可能性も高いこと――。「私一人が地位を捨てて済むことであれば爵位にも国主の地位にも未練はない。だが、叔母上の治世のもとでハッシバル領の民が幸せになれるとは思えぬし、これまで私のために尽くしてくれた者たちが処刑されたり国外に追放されたりするのを座視するわけにも行かぬ。さらにフォージャー家が跡目争いに介入してくれば、当然戦となって多くの者たちが傷つき命を失うことにもなる。それは国を危うくすることにもつながる。何としても抗わねばならぬ。その中で私の耳目となって状況を探り、時には私を守ってくれる忍びの者が必要になるが、おそらく『蝉』と『蜘蛛』だけでは手が足りぬ。そのためにあなたの力を借りたいのだ。」
ユッヒムはティルドラスの顔をじっと見つめる。「よくぞそこまで――。成長されましたな。昔のあなたからは想像もつきませぬ。」その口調には何やら感慨深げな響きがあった。
「私ももう二十だ。子供扱いされる歳でもないだろう。」少し渋い表情になりながらティルドラスはかぶりを振った。
「これは失礼。つい、今もあなたを昔の子供の頃の感覚で見てしまいます。」ユッヒムは苦笑する。「ともあれ承知いたしました。依頼はさて置いても、サフィア摂政やダン公子よりあなたが伯爵家の当主として国権を握られる方が我がザナーディン家にとっても得るところが多かろうと存じます。微力ながら手助けさせていただきましょう。差し当たってはフォージャー家の動きを探り、何かあればあなたにお報せいたします。」
「それは有り難い。礼を言う。」
「あなたとやりとりする手紙でございますが――、子供の頃の、あの木彫り細工は今もお持ちでございますか?」
「持っている。使い方も覚えている。」何やら少年のように目を輝かせながら、ティルドラスは頷いた。
「ならばあれを使うことといたしましょう。そうすれば何かの間違いで手紙が摂政の手に落ちることがあったとしても秘密は漏れぬはず。摂政もまさか、十年以上も前の遊び道具がここで使われようとは思いますまい。」とユッヒム。そのあとしばらく細かな打ち合わせと積もる話が続き、最後に彼は言う。「ではティルドラスさま、どうかご無事で。」
「さらば。今日は会えて良かった。よろしく頼む。」馬に跨がりながら答えるティルドラス。そして彼は、供の二人と共に馬を駆り、もと来た方角へと走り去っていく。
程なく彼はティルムレチスの城へと到着し、待っていたグスカの出迎えを受ける。久々の帰国。だが、この先には他国を旅する以上の危険が数多く待ち受けているはずである。国に戻った安心感に浮かれる供の者たちの中で、ティルドラスは独り、人知れず気を引き締めるのだった。
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