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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(12)

第三章 シンネタイの変事(その2)

 ドゥーガルが跡目をミギルに譲って伯爵の位を退くことを承知したという情報は、ただちに別室で待機していたミギルのもとにもたらされる。
 「拍子抜けするほどうまく参りましたな、兄者あにじゃ。」報せを聞き、兄のトゥーンと共にミギルの傍らに控えていたエミザルが言う。大柄な兄よりさらに二寸ほども上背があり肩幅も広く、兵を指揮する能力では兄に一歩譲るものの個人的武勇では兄を凌ぐと言われているトッツガー軍有数の猛将である。
 「カフトどのの知謀あってのことよ。」とトゥーン。
 カフトの事前準備は見事なものだった。任を受けるや否や、自身が出向く前から手の者をマッシムー領に送り込んで事細かな工作を開始する。伯爵家の家臣のうち、欲の深い者は地位や報酬で釣り、臆病な者はトッツガー家の力を背景に脅し、長男のオドゥールと次男のミギルのどちらに付くか迷っている者、当主のドゥーガルに不満を持つ者たちには言葉巧みに誘いをかけて、次々にミギルの一派に引き込んでいった。こうしてあらかじめ足元を固めた上で婚約に当たっての進物の護衛という名目で兵を率いてマッシムー家に乗り込み、外部には一切気取られないままミギルが伯爵家当主の地位を奪う手筈を整え、見事に成功させたのである。
 「やはり知謀の力は大きい。俺も、かのフィリオの戦いで軍師の誰かを帯同していれば、オーエンの策に落ちてこの目を失うこともなかったかもしれぬ。」失った左目に手をやりながら、トゥーンは少し悔しげな口調で、独り言のように呟いた。
 「とはいえ、これで終わりというわけではないぞ。」二人に向かってミギルが言う。既に伯爵家の当主になったような尊大な口調だった。「兄に――オドゥールに加担する不逞の者どもは多い。宮廷の掌握が終われば、直ちに兵を発して、国に仇なすそうした者どもを一掃せねばなるまいて。」
 「御意ぎょいのままに。」彼に向かってうやうやしく頭を下げるトゥーン。だが、その隻眼せきがんの奥には、何やら見下すような色が浮かんでいた。
 同じ頃、オドゥールの私邸、さらにその敷地の一角に建てられたディディアックの自宅では、ディディアックが宮廷に派遣していた者から変事の報せがもたらされ、上を下への大騒ぎとなっていた。
 「オドゥールさまでございますが、儀式を名目に宮廷の奥に誘い込まれ、供の者たちもろとも騙し討ちに遭って命を落とされたとのことでございます。」宮廷で起きたことの詳細を聞きつけて馳せ戻ってきた者が、息せき切って報告する。「ご遺体は棺に納められることもなく、罪人のようにその場に晒されておるとか……。」
 「何たる非道! 許せぬ!」家臣の一人がそう息巻く。「この上は、ただちに同志を糾合きゅうごうして宮廷に乗り込み、ご遺体を取り戻すとともにオドゥールさまの仇討ちを――」
 「ならぬ!」鋭い口調でディディアックはそれを制する。今回の変事は明らかに緻密な計画のもとに行われている。おそらく以前からトッツガー家が裏で糸を引いて周到に準備を進めていたのだろう。当然、変事を起こした後にオドゥール派の者たちが叛旗をひるがえすことも計算に入れ、それに対処する手筈も固めているに違いない。まともに戦いの準備もできていない自分たちがオドゥールの弔い合戦を挑んだところでミギル一派とトッツガー家の兵たちによってたちまち鎮圧されてしまうはず。むしろ、そうやってオドゥール一派を集めて一掃することこそが彼らの望むところで、そのための策もすでに準備されていることだろう。
 「では、どうせよと仰せられるのですか?」数人の若い家臣たちが血相を変えてディディアックに詰め寄る。
 「逃れるのだ、隠れるのだ。ここは勝ち目のない戦いを挑むのではなく、生き延びて将来の再起を期せ。」ディディアックは言う。「港に我が家の船がある。念のため人をやって、いつでも出航できるよう準備はさせておいた。それに乗って国外に逃れよ。ハッシバル領を目指せ。おそらくティルドラス伯爵であれば我らを受け入れ、場合によっては再起への手助けもしてくれるだろう。今の我らにとって、それ以外の道はない。」
 「しかし――!」
 不満げな者たちには構わず、ディディアックは周囲を見回しながら指示を飛ばす。「あるだけの食料、さらに金や宝物を出して家中の者たちに配れ。下働きの者たちに至るまで全員にだ。それを持ってそれぞれ逃れよ。あと、オドゥールさまに忠誠を誓う方々の屋敷に使いを送って港に船が待機していることを知らせ、共に国から逃れられるようはからえ。使いの者は屋敷には戻らずそのまま港に向かい、同行される方がおられれば道案内をして共に船に乗り込むのだ。」
 「ディディアックさまは?」
 「儂はこれから単身ケンプクトンへと向かう。せめてケロスさまだけはお救いせねば。」
 オドゥールの息子・ケロスは現在、マッシムー領を離れてトッツガー領の北方に位置する小さな街・ケンプクトンに滞在している。表向きはその地の師について教育を受けるための遊学という名目だが、実態はトッツガー家への人質として差し出されていたのだった。
 シンネタイの宮廷を掌握したミギル一派がケロスを放っておくはずがない。ただちに手を回して彼を害しようとするだろう。そのための人数も、おそらく既にケンプクトンに送られているのではあるまいか。彼らに決行の命令を伝える手段は、早馬か、あるいは伝書鳥か。いずれにせよ、その命令に先んじてケンプクトンに到着し、急を知らせねばケロスの身が危ない。
 屋敷のうまやに一頭だけいる火急の連絡のための駿鷹ヒポグリフを引き出させ、ディディアックは身支度を調えてその背にまたがる。「皆の者、無事でおれ。互いに生き延びてハッシバル領で会おうぞ。」集まった者たちに一声かけ、北国の身を切るような冷たい風が吹く空へと彼は飛び立っていった。
 程なく、オドゥール邸の門が開かれ、そこから三台の馬車と七、八騎の馬に分乗した者たちが姿を現すと、港へと通じる道を走り去っていく。粛正の標的にはされないような下働きの者たちも、分け与えられた食料と逃走資金を入れた荷物を担いで、彼らに続き思い思いの方向に散っていった。
 こうして、その日の夕刻、オドゥール邸にミギルの手兵と彼らを支援するトッツガー家の兵が押し寄せたとき、既に屋敷はもぬけの殻となっていた。「なるほど、それなりに知恵が回る者もおるようですな。」人の姿が消えた邸内を兵を引き連れて見回りながら、傍らのトゥーンにカフトが言う。「仇討ちをしようにも勝ち目のないことを悟って逃げ出したと見えます。こちらとしては屋敷に籠もって弔い合戦でも試みてくれた方が好都合でしたが、少々残念でございます。」

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