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ティルドラス公は本日も多忙⑤ 嵐の年、国滅ぶ時(6)

第二章 帰途の出来事(その1)

 オーネドゥマルの港から船に乗ったティルドラス一行は、風にも恵まれ、四日でピウ湖を縦断して無事トーサラーの港に到着する。陸路をたどれば半月以上かかる距離であるから、大幅に日程が短縮できたことになる。
 この地で一度船を下りたあと、今度は喫水の浅い川船に乗り換え、モイ河を下ってミストバル家の国都・サッケハウまで旅することになる。こちらも陸路で十日ほどの行程が三分の一の日数で到着できる見込みで、国元でサフィア一派の専権が強まっている今、なるべく帰国を早めたいティルドラスとしては好都合だった。
 トーサラーは港を起点として倉庫や市場が雑然と並ぶ小さな街だった。今回は船の乗り換えのため立ち寄るだけということで大公家としての歓迎の行事はなく、往路で訪れたムロームのように見たくもない罪人の処刑や剣闘士の殺し合いを見せられることもないと聞かされて安心したが、到着後に思いもかけぬ話が舞い込んでくる。
 「主・イスハークが伯爵にお会いしたいと申しております。ご同道願えますでしょうか。」港でティルドラスの到着を出迎えた案内役のコムーノが、挨拶もそこそこにそう切り出したのである。トーサラーから二日行程にあるキナイの城に滞在していたイスハークが、ティルドラスがこの地を訪れると聞いて面会を望んだという。
 「大公が?」少し驚くティルドラス。「それはよろしいが――、誰を付き添いに選んだものか。」彼に従う家臣の筆頭であるチノーと、チノーに次ぐ地位にあるフォンニタイは船旅の間に船酔いにやられて足元もおぼつかない状態の上、特にサフィアにおもねるフォンニタイに他国の君主との話を聞かれたくないというのがティルドラスの本音でもあった。一方、彼が信頼する部下たちのうち、ドゥーカンは芸人たちを使った情報収集網を構築するためケーシに残っており、レック兄弟は国主同士の面会の場に同席するには官位が低すぎる。
 「よろしければ私がお供させていただきます。」傍らからホーシギンが進み出る。いちおうアシュガル家の案内役に役目を引き継ぐまでは彼がティルドラスの身の回りの世話をする立場にあり、官位こそ低いものの朝廷の直臣じきしんということで国主同士の面会にも立ち会うことが許されている。
 「あなたが来てくれるのであれば心強い。よろしく頼む。」彼の言葉に頷くティルドラス。
 イスハークは港から少し離れた場所にある大公家の行在所あんざいしょでティルドラスを迎えた。かつてハッシバル家の居城だったキナイの城までティルドラスを呼びつけるのはいろいろと問題があると判断したのだろう。彼はこの年四十六歳、黒髪に八の字髭を気取った形に跳ね上げた太った男だった。キナイの城で暮らしていた幼い頃に一、二度会ったことがあるはずだが、ティルドラスにはその時の記憶がない。
 ともあれ礼儀正しく目上に対する礼を行うティルドラスに向かい、尊大な態度で答えるイスハーク。「よくぞ参られた。このたびの参朝、まことご苦労に存ずる。立派に成人なされたな。亡き父上も地下で安心されておることであろう。」
 彼の言葉を聞きながら、ティルドラスはアンティルの『各国要覧』に書かれた内容を思い出す。
 ――イスハーク大公の人となりは狭量にして傲慢、考えが浅い一方で策謀を好み、特に、自身は傷つかぬまま他国同士を争わせることで自国が利を得られるように仕向けたがる。あるいは甘言をもってハッシバル家をトッツガー家と戦わせるよう誘いをかけてくるかもしれないが、丁重に断るようにし、決して応じてはならない。――
 「ナガン公子ともども王へのお目通りも済ませ、朝廷の官位も得られたとのこと。お祝い申し上げる。」ティルドラスの内心に気づく様子もなくイスハークは続ける。「それにしても、伯爵の縁談がまとまらなんだのは残念なことでござった。」
 「それは……。」早くもこの地まで、自分の縁談が不首尾に終わったという情報が流れてきていたのか。脳裏に一瞬浮かぶミレニアの姿に、ティルドラスは鋭い胸の痛みを感じて黙り込んだ。
 彼の表情を何やら満足げに見やりながら、猫なで声でイスハークは言う。「いや、申されずとも良い。伯爵の無念は天下の知るところ。お気持ちは十分にお察しいたす。」
 「お恥ずかしい。」顔を伏せながら、低い声で答えるティルドラス。「どうしようもない事と知りながら、いまだに思いが断ち切れずにおります。」
 「いやいや、恥じ入られることはありませぬぞ。そもそもけしからぬのはトッツガー家。伯爵としても、礼を尽くして婚約の履行を申し入れたにも拘わらず無礼にもそれを拒まれ、マッシムー家の次男ごときを選ばれた恥辱はなんとしても晴らさねばなりますまい。」
 「と言われましても……」イスハークの言葉にティルドラスは少し戸惑う。確かにミレニアとの婚約を反故ほごにされたことは恨めしいが、だからといってトッツガー家への報復を考えるような気持ちになっているわけではない。
 「恥をそそぐに力が及ばぬことを気にされておられるのであれば、心配はご無用。」大仰な身振り手振りを交えながらイスハークはなおも喋り続ける。「元来トッツガー家は信用のおけぬ国。失礼ながらあのような国とよしみを結ぼうとされたことが誤りでござった。それより、わがアシュガル家を大いに頼られるがよろしかろう。伯爵の英明・勇武に我が国の後ろ盾があれば、必ずやトッツガー家を打ち破り、このたびの背信、さらにかつて父上・フィドル伯爵を裏切り国の半分を盗み取った積年の恨みも晴らすことができるはず。決して叶わぬ願いではござらぬぞ。」
 確かにイエーツがシュムナップの戦いでハッシバル家を裏切り国の半分を奪ったことは事実だが、アシュガル家自体もそれに乗じてハッシバル家の国都だったキナイを含む多くの領土を奪い取っている。その部分に触れぬままトッツガー家への恨みだけを煽られても、こちらとしては釈然としない気持ちになるだけである。
 「伯爵の縁談についても、我が国にお任せいただければ、トッツガー家の公女などより遙かに良縁を見つけてご覧に入れる。伯爵に相応しい王女なり王族の姫なりがおられれば、こちらとしても労を厭わず縁談の仲立ちをする所存。期待してお待ちくだされ。今回の参朝中に話のあったルシルヴィーネ王女との縁談にしても、あらかじめ我が国にご相談いただいておれば、あるいは首尾良くまとめることができたかも知れぬものを。」
 「………。」何かイスハークの言うことがどんどん本筋から外れていくような気がして、ティルドラスは口をつぐむ。

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