ティルドラス公は本日も多忙④ 都ケーシの宮廷で(8)
第二章 サッケハウにて(その3)
チノーだけでなくユニやフォンニタイまでもが怪訝な表情を見せる中、ティルドラスはその後も、ペネラとタスカ、さらにミストバル領の領民に対しても鷹揚(おうよう)で親しげな態度を取り続ける。
予定通り、その晩彼らは近くの村に宿を取ることになった。兵士や下級の随員は村内のあちこちに分宿し、ティルドラスとナガン、そして最上層の随員たち(ドゥーカンはこの中には加われなかった)は村の有力者の屋敷へと案内される。
案内された屋敷で、ティルドラスはペネラとタスカ、さらに屋敷の主も夕食の席に呼んで、食事を共にしながら気さくな様子で談笑し、さらにこの地の農耕や生活に関する話を根掘り葉掘り尋ねる。耕耘(こううん)はいつ行っているのか。肥料はどのようなものを何度与えているのか。作物の病気は出るか。害虫の被害と対策は? 農具は? 苗作りは?
「申し訳ありません。私(わたくし)は自分で畑に出ることがほとんどございませぬので、そこまで詳しく存じませぬ。」あまりに細かな話まで尋ねられ、屋敷の主はついに音を上げる。「よろしければ、仕事を任せております作男をお呼びいたしますが……。」
「そうしてもらえると嬉しい。」頷くティルドラス。
こうして、この家に雇われている、特に農事に詳しいという作男がティルドラスの前に呼ばれて彼の問いに答えることになった。風采の上がらぬ貧弱な体つきの初老の男で、話しぶりも雄弁とは程遠い訥々(とつとつ)としたものだったが、ティルドラスの複雑な質問にも事細かに、しかも分かりやすく答え、時には当時信じられていた迷信の誤りを正してもみせる。
「なるほど、大いに得心が行った。残念ながらハッシバル領ではここまでの話を聞いたことがない。おかげで積年の疑問が氷解した気持ちだ。」話を聞き終わり、満足げに頷くティルドラス。「私は酒を飲まぬので、出されたこの酒が手つかずで残っている。礼の代わりと言っては何だが受け取ってもらいたい。」
周囲に広がる驚きの声。他国とはいえ一国の主が一介の作男と直接言葉を交わすなど当時としては珍事だった上に、聞かされた話に対して丁重に礼を言い、自分の食事を分け与えることまでしたのである。
さらにティルドラスは家の主に向かって言う。「この者の農事に関する知識は並々ならぬものがある。おそらくこの家にとっても、さらに、世の人々にとっても得がたい人物だろう。どうか大切にしてやっていただきたい。」
この話は瞬く間に周囲に広がり、評判を耳にして、わざわざこの作男に会うために遠方からやって来る者まで現れたという。のち、当時十代だったこの家の長男がティルドラスとの問答も含めた農事に関する話を彼から聞き取ってまとめた『イグラシオ爺(じい)の農事暦』は一般向けの農業手引き書として広く世に知られるようになり、当時を伝える貴重な資料として『ミスカムシル史大鑑』技術志にも名を残すことになる。
食事が終わり、今後の打ち合わせのため、ティルドラスはペネラたちと別室に下がる。「正直申しまして、少々驚いております。」ティルドラスと向かい合うや否や、ペネラはそう口を開く。「伯爵が謙虚で好奇心の強い方とは聞き及んでおりましたが、まさかこれほどまでとは――。」
「家臣のアンティルという者に教えられて心がけるようにしていることがあります。自分に道を示してくれる人物、自分の知らぬことを教えてくれる人物がいれば、身分や体面に囚われず謙虚に教えを請わねばならない。それを怠れば、本来得られるはずであった知識すら得られず、無知で愚かなまま生を終えることになる、と。」彼女の言葉に答えるティルドラス。
「アンティル……、ペジュン=アンティルどのでしょうか。」ペネラは言う。「なるほど、あの方でございましたか。おそらく伯爵を輔(たす)ける人物がどなたかお側におられるのであろうと感じておりましたが、それで納得いたしました。」
「彼をご存じと?」意外そうな顔をするティルドラス。
「伯爵の即位の式典にバグハート家からの使者として列席された折に顔を合わせ、いろいろと話もさせていただきました。」とペネラ。「並々ならぬ人物にも拘わらず世に知られず埋もれていたようでございますが、伯爵と出会って、ついにその才を奮う場を得たわけでございますか。お喜び申し上げます。」
「なるほど、見る者が見れば、やはり分かるものなのですな。当人にも伝えておきましょう。」ティルドラスは頷く。
だが、こうしたティルドラスの振る舞いは、彼に従う供の者たちの眼には、必ずしも好ましいものとは写らなかったらしい。
数日が経ったある日、一人でいるティルドラスのもとにチノーがやって来る。他の者たちを代表して、彼を諫めに来たという。
「失礼ながら、伯爵の近ごろのご行状は、貴賤・尊卑の序を軽んじておられるように見受けられます。」戸惑うティルドラスに向かって、チノーは改まった口調で言う。「特に、今回の旅はティンガル王家への参朝という厳かなもの。その中で、身分低き者にも分け隔てなく振る舞われ、あまつさえ、卑しき小作人にまで教えを請うなど我が国の体面にも関わりかねませぬ。お控え下さるようお願い致します。」
「自分が知らぬことを知っている者に尋ねるのは当然のことだろう。」合点の行かない表情でティルドラスは言う。「特に、今回の旅は他国を訪れてこれまで知らなかったことを自身の目で確かめるまたとない機会。つまらぬ体面など捨てて謙虚に教えを請うべきではないか?」
「ミストバル家は敵国でございますぞ。その敵国の、しかも一介の校尉に過ぎぬペネラ=ノイに対して、あのように丁重な姿勢を取られるのもいかがなものかと存じます。」
「私としてはむしろミストバル家とは敵対せずに誼(よしみ)を深める道を探りたいと思っている。ペネラ=ノイは卓越した才の持ち主と見た。将来、両国の間に誼を結ぶに当たって手を借りることもあるだろう。これを機に、互いに率直に語れる相手をミストバル家の内部に作っておくのは悪いことではあるまい。」
「タスカ=コルダールに至っては、我が国を裏切って敵に降った人間ではございませぬか。左様な者に親しげな振る舞いをされては他の者への示しがつきませぬ。」
「あれは彼が悪いわけではない。あの戦を止められず、彼を庇いきることもできなかった私の力が足りなかったのだ。」
「ミストバル領の民に対しても、あのように遜(へりくだ)った態度を取られては、我が国の威を軽んじさせることになりかねませぬ。」
「誼を結ぶには、まず両国の間にわだかまる不信感を除く必要がある。ミストバル領の民は、かつて我が軍による蛮行を受け、我が国に恐れや敵愾心を持つ者も多い。それを和らげるためにも、むしろ努めて穏やかで礼儀正しい態度を取るようにしているのだ。」
「国の主たる伯爵が、我が軍に過ちがあったかのような言葉を口にされて、ご自身の国を貶めるべきではございませぬ!」
「かつてハッシバル家の軍がミストバル領の民に対して殺戮と暴行を恣(ほしいまま)にし、深い恨みを抱かれているのは紛れもない事実だ。」ティルドラスは少し語気を強める。「いかに取り繕おうとも事実そのものを消すことはできぬし、ならばそれを踏まえた上で最善の対応を考えるべきではないか。思うに任せぬ事があるからといって、そこから目をそらして、あたかもそのような事が無いかのように振る舞うのは愚かで卑しい行いでしかない!」
「しかし――!」
「チノー、どうしたというのだ。」たまりかねたように声をあげるティルドラス。「もともとお前は、身分や地位によって人を侮ったり蔑んだりする人間でも、体面にかまけて過ちや不正から目を背けようとする人間でもなかったはずだ。そのお前がなぜ、今のような言葉を口にする。」
「………!」チノーは言葉に詰まる。
「一体どうしたというのだ。」繰り返すティルドラス。その声と表情は、いつもの大らかで穏やかな彼の様子とは全く違う、暗く冷たい、鋭く尖ったものだった。
チノーは慄然とする。『疑われている?』
確かに、アンティルの扱いを巡って、ここしばらくティルドラスとの関係は幾分よそよそしいものになっていた。その一方で、最近は上司のネイカーを通じて摂政のサフィアの命を受けることも多く、今回の旅でも、ティルドラスには知らせぬまま彼の動静を逐一サフィアに報告するよう命じられている。
チノー自身にはティルドラスを蔑(ないがし)ろにしているつもりはない。自分が忠誠を尽くす相手はあくまでティルドラスであり、ネイカーやサフィアとは、単に尚書から尚書丞に昇進したことで職制上関係が深まったに過ぎないと考えていた。だが、ティルドラス自身はそうは思っていないのかも知れない。確かに自分の最近の行動は疑われても仕方のないものだった。しかし、ではどうすれば良いのだ――。
「下がって良い。」ティルドラスに促され、チノーは悄然(しょうぜん)と席を立つ。
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