見出し画像

カップラーメンじゃなくてトイレットペーパーだろ

昨日、「何かコトがあったら、カップラーメンからなくなる」
と書いたら、
「それはトイレットペーパーやないか〜」
とツッコミが入った。
何かコトがあったら、街のスーパーやドラックストアでは、
カップラーメンじゃなく、トイレットペーパーからなくなる、と。

それもそうだな、と思っていたら、
「アシタノカレッジ」(TBSラジオ)で、
『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか 人糞地理学ことはじめ』
の湯澤規子さん
をゲストにトークしていた。

たしかに。
食べたら出すのに、「食べる」研究は日の目を見て、
「出す」研究は月の目もない。
わざわざ「神様がいるから」、って歌にしたり、
笑いの対象になったり、ひねった話題の対象にはなるけど……。

ウンコは宝物だったらしい。
特に、江戸では海は遠く、山はない。
海辺の町では海藻や魚の死骸が堆肥になり、
山間の町では枯れ木や落ち葉が堆肥になる。
人口が増え続ける江戸では、
食料を大量に生産しなければいけない。
いきおい、農業技術が上がっていくなかで、
江戸で大量に手に入る有機物といえば、
……があるじゃないか! となる。

そこで、ウンコは売り物になった。
しかも、人によって価格が違っていた。
江戸では士農工商、身分制度があったように、
ウンコにも貧富の差、上中下があり、
武家屋敷からでるものは上物だった。
食べるものが違えば、出るものも違うからだ。
……深い。

長屋の大家は、店子が出すものも収入源にしていた。
そこそこ量をさばけるから。
店子から家賃を取り、出したものも金に換える。
落語では長屋の大家は嫌われ者に描かれることが多いのは、
こんな事情もあったのかもしれない。

人口爆発の明治時代になってさらに研究が進み、
昭和になってもウンコは農業に利用され、
戦争に負けてGHQで働く外国人が生野菜を食べたいんだけど、
ってことで日本の農業を観察して、
「え!!!!!!!」
となって、化学肥料が導入された。
それまで生野菜を食べなかった日本人も、生で野菜を食べるようになり、
出すものの質が変わってきた。

ほか、オリンピックとウンコの関係など、
この本では水洗トイレ、公衆トイレの歴史地理も展開されている。

ヒトの表の歴史があれば、
ヒトの裏の歴史もある。
それが人糞地理学だ。

食べることは生きることだ、と昨日は書いた。
出すことも生きることだ、と今日は書く。