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高城合戦とその城、高城について

1.高城について
2.高城合戦とは
3.その後の影響
4.この合戦の何が凄いのか?

1.高城について


宮崎県木城町にある高城とは、中世の戦国時代に薩摩国(現在の鹿児島県)と豊後国(現在の大分県)の大友氏が2度に渡って壮絶な戦いを繰り広げた舞台として歴史ファンや専門家の間で広く知られた城であります。
木城町は宮崎県のほぼ中心部に位置し、東西24km、南北わずか6kmという帯状の地形をしており、町の中心部には東西に流れる全長80kmの小丸川(おまるがわ)が流れている。
高城は町中央の北西部にあり、小丸川とその支流である切原川(きりばるがわ)に挟まれた舌状に細長く伸びた標高約60mの見晴らしのよい台地に築かれている。現在は城山公園として町民の憩いの場として長年定着しています。


2.高城合戦とは

高城は交通の要地にあることから、古来から戦略的に重要な城郭として知られています。
主な築造時期は不明ですが、日向国(現在の宮崎県)を支配していた伊東氏の領有であった『日向四十八城』の一つとして数えられていました。
その後、元亀三年(1572年)の木崎原の戦い(宮崎県えびの市)にて、島津義弘率いる軍勢に伊東義祐が敗北を喫し、その後の天正六年(1578年)に豊後の大友氏と薩摩の島津氏が戦いを繰り広げたのが第一次高城合戦です。
この戦いで勝利を得た島津氏は九州地方全域に勢力を拡大していきますが、敗北を喫した大友氏が助けを求めた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が派遣した弟の秀長率いる約10万の軍勢と戦うのが天正15年(1587年)の第二次高城合戦です。

この戦いで高城は豊臣秀長の軍勢に取り囲まれ、島津を代表して島津義久が秀吉に降伏を申し入れ、戦いが終結しました。


3.その後の影響


この戦いの結果を受けて、秀吉は九州征伐を果たすことになり、天下統一に繋がることになります。

4.この合戦の何が凄いのか?

① 2回とも同じ場所で合戦があり、2回とも城が攻め落とされなかった事。

② 毛利氏、長宗我部氏、宇喜田氏等、秀吉にゆかりのある有名な大名が一斉に攻めに来ていたこと。

③ 災害等の影響を受けながらも高城は中世山城の痕跡がり、また近隣にはその戦いに関する陣跡がまだ明確に残っていること。

こういった事からこの高城及び高城合戦の価値は非常に高いものがあり、これから少しずつ調査を行い、さらにその価値を見つけていくことが大きな課題となっています。


以上、最後まで読んで頂きどうもありがとうございました。


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