"何事も遊びが大切"を実感した話
前回の約1年振りに音楽が聴けるようになった話の続き。1つに纏めると、ややこしくなりそうなので分けました。
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8月は小林賢太郎さんの作品を追うことに集中していて、ニュースを深追いする時間がなかった。
今までの私は、ニュースを断続的に1時間位は見ていたし、それとは別にコロナ禍になってからはネットでもコロナの状況を確認していた。
当然、事実以外に煽るような話も目にするようになる。真偽を確かめたくて、更にネットで探す。今思えば、時間も浪費する上に、必要以上に不安になる…完全な悪循環だった。
そんな時に、賢太郎さんの作品を見始めた。
彼の作品を観るためには、時間を作らなければならない。
必然的に、ニュースや不安解消のためのネット検索の時間がなくなっていく。ニュースは、日に数回見るYahooニュースのトップにあるタイトルだけを確認という日も増えていった。
しかし、不思議とコレで困る事は殆ど無かったし、不安も感じなかった。
そんなことより、まだ見ていない作品が気になって仕方ない。ある程度観たら、今度は「あの伏線は…」「あの意味って…」とか、作品の細かいところが気になって深読みする始末。結局、同じコントを何度も観てしまい、なかなか見終わらなかった。
余談だが、賢太郎さんの作品を観始めた頃に、ラーメンズ好きの方のブログやnoteを観ていて「セリフを覚えるくらい観た」と書いている方が複数いて、そんなに観るものなのか?と疑問に思っていたけれど、今の自分は、それに近い事をしている。だって、観れば観るほど発見があるんだもの! 「小説家らしき存在」なんて10回以上観てるけど、何度見ても面白いし…。
さて、こんな生活をしばらくしていて気づいた事がある。以前は、漠然とした不安からか常に疲労感を感じ、物事を楽しむ気力が殆どなかった。
しかし、日々に"楽しみ"ができた事で、落ち込む時間も不安になってる時間も強制的に無くなり、色々な物事を楽しめるようになっていた。
こういう"物事を楽しめる下地"があったから、前回のnoteのように、音楽の美しさを再び実感できるようになったのだと思う。
"何事も遊びが大切"とは、よく言った物だ。
渦中では、良くない状況なのか気付けないかもしれないけれど、塞ぎがちになっていると感じたら一休みすべきなのだろう。
それが私にとっては賢太郎さんの作品を観ることだったんだ。
書いていて思い出したけど、以前は朝コーヒー豆を挽いて、コーヒーをドリップしてから出社してたな。最近、忙しいを言い訳にインスタントで誤魔化していたけど、コーヒーをゆっくり飲む時間を作るだけでも良いのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
文中の「小説家らしき存在」が気になりましたら↓をご覧ください。「話が具体的な割に、掴み所がない」ふんわりとした前半からの後半への流れが好きです。
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