『青天を衝け』第39回「栄一と戦争」(2021年12月12日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)
日清戦争に勝利し、一等国への確かな道のりが見えてきたことで栄一(吉沢亮)の志はついにはたされようとしていた。平九郎に日清戦争勝利の報告をする栄一と喜作(高良健吾)。栄一は、喜作と惇忠(田辺誠一)に慶喜様に(草彅剛)に会ってみないかと誘う。慶喜は喜作に「白金台に立派な屋敷を構えたと聞いたぞ」と言うが、これは番組最後の「栄一紀行」で紹介されていた現在の八芳園あたりにあった喜作の屋敷のこと。喜作は栄一に商売から身を引くことを言い渡されて隠居することになったと慶喜に告げる。また慶喜と惇忠は初対面。平九郎のことも製糸場のこともよく知っていると惇忠を労う慶喜。惇忠はこの後、1901(明治43)年1月2日にこの世を去った。享年70歳。喜作の台詞に「この前古稀の祝いをやったばかりではないか」というのがあったので、この慶喜との会見シーンは、1900年?
オープニング明け。家康(北大路欣也)が、慶喜(けいき)と言えば、列強による中国というケーキを瓜分する風刺画って……ま、それはともかく、教科書にも載っているフランスの風刺画家アンリ・マイヤーによる下の「中国のケーキ」という絵が登場(下)。左からヴィクトリア女王(英)、ヴィルヘルム2世(独)、ニコライ2世(露)、フランスの象徴・女性像マリアンヌ、日本の象徴・サムライ。背後で清国人がなすすべもなく手を上げているという絵になっている。
栄一は1902(明治35)年、米欧の実地視察に出向いた。アメリカは初訪問。ここでセオドア・ルーズベルト大統領(ガイタノ・トタロ)とも会談。バロン(男爵)渋沢と言われていたが、栄一は1900年に叙爵。のち1920年に子爵に陞爵している(1)。会談シーンでは日本の市松人形がしっかりと映されていた(次回への伏線)。
篤二(泉澤祐希)も放蕩がやみ、ひとかどの実業家になっていた。その子どもの敬三少年(塚尾桜雅)登場。「公爵様(2)にご挨拶なさい」と母の敦子(藤松祥子)に言われ、慶喜に挨拶する敬三少年は、のちに日銀総裁、大蔵大臣となる。この渋沢邸のシーンでは兼子(大島優子)の台詞「夫は今韓国での銀行の仕事に追われています。……目白に作る女子の大学校のことまで……」に注目。第一銀行頭取として韓国での紙幣発行、成瀬仁蔵に力を貸しての日本女子大学設立と、それぞれ栄一の仕事としては重要なものだが、サラッと台詞のみ。
篤二は、父が今一番執着しているのは慶喜の伝記を作ることで、自分もあなた様の生き方に憧れます、と言うと慶喜は「まぁ、そんな単純なものではない」と軽くいなす。その後の慶喜の沈黙が素晴らしい。
帰国した栄一を迎える穂積陳重(田村健太郎)、阪谷芳郎(内野謙太)ら。日本周辺の地図を開きながら、ロシアの脅威などについて語っている。そこへ兼子が割ってきて「国というものはそれほどどんどんと大きくならなければいけないものなのですか」と問う。栄一は「それはそうだ。そういうもんだ」と言い、兼子は「ふ〜ん」とだけ。
児玉源太郎(萩野谷幸三)が井上馨(福士誠治)とともにやって来て、財界の協力を要請。「富国強兵」の強兵にばかり力を入れている政府には不満があるとの栄一だったが、結局、「危急存亡の時」という児玉や井上に説得されて、栄一は財界として戦争に協力することを約束する。そして、1904(明治37)年、日露戦争が勃発。栄一は、戦時公債に応じることを要請する「戦争と経済」と題する講演をおこなうが、講演後、栄一は病に倒れてしまう。「父上は戦争の時に限って病になる。よほど体質に合っていないのかもしれない」(3)と言う篤二は、いよいよ自分が跡を継ぐことになると考えるとプレッシャーに押しつぶされそうになる。
病状が悪化する栄一。佐々木勇之助(長村航希)と篤二が栄一の枕頭に呼ばれる。銀行の後任の頭取を佐々木に、渋沢家を篤二に託する栄一。逃げる篤二(4)……。
栄一を見舞う慶喜。慶喜は栄一に「まだ死なぬ方が良いだろう」「生きてくれ。生きてくれれば何でも話そう」と。それをきっかけに栄一はみるみると回復。日露戦争も奉天会戦、日本海海戦(5)で勝利し、講和へと向かう。ポーツマスへ旅立つ小村寿太郎(半海一晃)。それを見送る伊藤博文(山崎育三郎)、井上馨、そして栄一。
2ヶ月後、日露講和条約調印。国内では講和条約反対の暴動が勃発。小村や渋沢も売国奴呼ばわりされる。……世情収まらぬ中、慶喜の伝記編纂がいよいよ始まった。
ラスト。「私の道とは何だ」と自らに問いかける栄一。栄一は、篤二に「私は近く実業界を引退する」と告げるのであった。
次回、15分拡大版。
注)
(1) 実業家は三井も三菱も男爵止まりであったが、栄一は子爵に。異例のことであった。
(2) 慶喜は公爵。五爵の最高位。慶喜は自分を赦しただけではなく、公爵に叙した明治天皇にはえらく感激し、自分の葬儀を神式でおこなった(Wikipedia参照)。
(3) 言われてみれば、1931年9月18日の「満洲事変」勃発直後、11月11日に栄一はこの世を去るので、篤二の指摘は当たっているのかもしれない。
(4) 渋沢史料館青淵文庫でのロケだが、本の保管場所も映っていた。一度見せてもらったことがある。
(5) 今日のトップ画像は日本海海戦時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎の銅像。