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握力測る時さ、「夏色」流すといいよ。

「握力測定しませんか~」
上野公園を散歩していた僕は、その懐かしい響きのする言葉に一瞬足を止めた。休日のファミリー客が行き交う道の真ん中で、60代くらいのおばさんが声掛けを行っている。何のキャンペーンだろう、としばらく見ているとおばさんも僕に気付いたようで、小走りでこちらに近づいてきた。

「向こうのテントのところで握力測定出来ますよ~良かったらどうですか~」
そう言っておばさんが指し示す先には運動会などで使われる横長の白いテントが立てられていて、そのすぐ側では「健活プロジェクト」と大きくプリントされたのぼり旗が風に煽られていた。既に何人か人が集まっていて、測定機を握りながらはしゃいでいる様子が遠くからでも確認できた。

区か都か国か、公務員的サムバディが発案した福祉的なサムシングかな。ざっくりそんな予想を立てながら、お金もかからないようだし、と思って参加の意思を伝えると、おばさんはテントのところまで案内してくれた。テントの下のテーブルにはホワイトボードが置かれていて、今日の参加者の好記録がランキング形式で書かれている。側に置いてある看板に某有名保険会社の名前があるのを見て、少しだけ嫌な予感がした。そしておばさんが次に放った質問は、予感を確信に変えた。
「良い記録が出た人に後日賞金を差し上げてるんですね、お兄さん、お名前お伺いしても?」
ちっ、ハメられた。

おばさんが首にかけたクリップボードにはヒアリングシートが挟まっていて、名前と生年月日、電話番号を記入する欄があった。そう、ぜんぶ保険会社が仕組んだ罠だったのだ。握力測定という名目で人々を呼び込み、個人情報を大量に収集する。「健活プロジェクト」は、最初からそういう目的だったのだ。おばさんはさしずめ、保険会社の命を受けて派遣されたエージェントか。優しそうな高齢者の顔をして近づけば、人々の警戒心をほどくことが出来る。

僕はこういう時に断れない性格で、結局、聞かれた個人情報をすべて伝えてしまった。きっとこの後、何らかの目的で作成された何らかのリストに追加されるのだろう。リストはどう運用されるのだろうか。複数の組織に共有されて、各所から営業の電話でもかかってくるのだろうか。おそらく直接被害がもたらされることはないだろうが、迷惑なことに変わりはない。

保険会社にも腹が立つが、こんなシンプルなトラップを見抜けなかった自分にも納得がいかない。僕はこの後、どんな気持ちで握力を測れば良いんだろう。

いや、待てよ。こうなったらいっそ、一発デカい記録を出してやるのはどうだろうか。利用されて終わるのは嫌だ、せめて賞金はいただいて帰ることにしよう。僕はそう強く決意すると、自覚している長所一覧に「切り替えが早い」を追加した。

中学の記憶が蘇る。
午後の光が差し込む体育館。
一つ後ろに並んでいた矢口の言葉は、今も忘れない。

「握力測る時さ、頭の中で『夏色』流すといいよ、ゆずの」

測定器をおばさんから受け取り、深呼吸をした。右手をグッパー、グッパー、と動かしていると、のどかなアコギとタンバリンの音が聞こえてくる。僕は脳内のメロディに耳を澄ませて、タイミングを伺った。

海も空も雲も僕らでさえも 染めてゆくから♪
……まだだ、ここじゃない。

この長い長い下り坂を♪
……もう少し。

君を自転車の後ろに乗せて♪
……今だ!

僕はブレーキをいっぱいに握りしめた。
手の平が痛くなっていくのを感じながら、限界の限界まで自分を追い込む。一秒がとても長く感じる。
ありったけの力を込めて、ゆっくり、ゆっくり、握ってく。

測定器を回収したおばさんが、「あ、ごめん電源ついてなかった」と呟く。あの時、手が出なかった自分を褒めたいと思う。


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