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推しごと 230327

あっという間にもう3月も終わってしまいます。
私生活が落ち着かずあわあわと過ごしているうちに時間が過ぎていきました。前回書いた内容すらも忘れてしまったので、見返してみたのですがその当時は今よりは元気そうでした。
これを書いている今現在は一通り乗り越えはしたものの、とりあえず吐き出しておきたい…という欲求解消のためだけに書いていきます。

先日、チケットも交通手段もすべて予約済かつ良席をゲットできていたのにも関わらず、イベントに行けなくなりました。これは不可抗力ではなく完全にすべて自分が悪くて、もうすこしきちんとできたことでした。最終的に決定を下したのは自分自身ですが、無念で悔しくて気持ちをうまく整理できないまま当日を過ごしていました。

当日の私は、自分が悪い上に行かないことを選択したのにも関わらず、現地にいる同担に対して尋常じゃない嫉妬心を抱いて、配信を見ている間いらいらし続けている。せっかく推しを見ているのに、画面の向こうにいるどこの誰かもわからない人間になぜこんな感情が湧いてくるんだろう。
今の推しくんに限って起きている現象なのですが、こういう嫉妬や何か怒りを感じると動悸が止まらなくなります。もちろんストレスからくるものではあるけれど、一体どういう感情からこういう症状まで発生するのか、いまだにわかっていません。その同担に対して負けたくないとか、悔しいとか、単純に理不尽にむかついているとか、自分の中で許せないとか。全部そうかもしれないし、全部違うかもしれない。しかも特定の同担に対してでもなく、勝手に仮想している部分も多々あって、私自身のこの暴走しがちな思考をどうにかできればと考えているのですが、いまだにうまくできません。

どうしてこんな思考になって破綻した行動をしてしまうんだろう。勝手に悔しがって怒って泣いてむしゃくちゃして散財をする。結果的に破産気味までいって、なんとかなるというよりはなんとかしているだけで、こんなに自制が出来ないなら本当は何もかも取り上げられなくてはならないのかもしれない。

こうやって気持ちがごちゃごちゃになっていつも苦しむけど、行きつく先に確実に冷静になる。この「冷静になる」ことが確実に見えているのが良くも悪くもあるのかもしれない。最後には落ち着くんだからと心のどこかでいい訳をして、感情の昂りのまま行動制御せずいるだけなのかもしれない。

こういう考えに至る前に「現実(今の生活)が楽しくない・つらいから、それを楽しくするために推し活を活力・エネルギーにしている」と考えて行動していると思っていたのですが、ある時から「現実を楽しくするために」という部分がなくなったなと感じました。単純に推し以外に心を揺さぶられること・心が惹かれること・楽しいことがない。見つけたいと思う気持ちもない。今の推しくん以上に心を奪われるような、そんな出会いや瞬間もあるのかもしれないけれど現状は求めていないし、推しくんがすべての頂点にいる。日に日に「本当に推し事以外何も楽しくないな」と思う気持ちが強くなって、すべての生きる糧が推しくんになっている。依存以外のなにものでもないのだけれど、推しくん以外の日々の生活に喜びや楽しみが湧いてこない。

推しくんに盲目になる前は、仕事や職場や恋愛などなにか没頭していた時期があった。その時はその目の前にあることに一生懸命になって、それはそれで楽しかったなと思いだしました。進学とか結婚適齢期とか、そういう通過儀礼的なことを考えられるかぎり考えてみたり、推しごとや推し活・趣味以外で楽しい何かを探しては模索していたこと。
後々になって無理してる時間が長すぎたなと感じてから、元々自分の中にあった思考にもう一度きちんと戻ってみると、考え方がシンプルというか極端になって、良くも悪くも迷いがなくなっていきました。無理をしていた時期に頑張ったからこそ得たものもあって、すべて否定はできないけれど、今は仕事と推しごとが楽しければもうそれだけで充分な人生を生きたいと考えるようになっていきました。少し前の自分なら「後から後悔するかもしれない」という気持ちが強くあって行動を制限することが多かったのですが、未来を考えても何もわからないし、今を考えて行動することのほうが今の自分には合っている。

と、こうしてひとつひとつを細かく分析してみたり、思考整理してみたけれど、ただ単純にどんな行動も症状も「好き」という感情からくるとしか言えないのかも…と思い始めました。「惚れ込んでいる」ともいえるし「恋をしている」ともいえるもうただとめどなく湧いてくる感情がすべてのリミッターを外していく。完全に「恋は盲目」というやつで、恋人なり友達なり家族なり、その相手に対して「好き」という強い感情があれば、その人以外にはしないであろう特別なことが何でもできてしまう。ミステリーやサスペンスなどで犯人の動機に愛情や恋愛感情が絡んでくることがありますが、そういう理性でどうにかなるものではないことや簡単に理解できないことが描かれる作品がとても好きです。母親の愛情とか、愛するあまり犯罪を…とか、思考と行動が歪になっていくけれど止められない、なんとなくわかる気がする…と想像しながら作品を楽しんだり、恐怖を感じたりするのが好きです。

自分で書いておきながら全然関係ない流れになってきましたが、最近「推しごと」「推し活」とメディアで度々使われているのを見かけては、もやもやすることが多いです。人それぞれの推し方があるので、優劣もなければどうこういうものではないけれど、推し活をSNSにアップする心理やマウントをとる心境など、自分の選択肢にない行動をとるひとの行動原理は気になります。SNSがあるから祭壇作ったり、良席をアップしたりするのでしょうか。見せることがなかった時代はどうしていたんでしょう。個人的に好みじゃないので見ることも調べることもしませんが、推しや公式が見てくれるという場合を除いてはなぜそういう行動をするのか不思議です。

私は推しくん以外に見たいものも知りたいものもなく、リアコ感情から誰かと何かを共有することもないし誰かに布教することないので、公式や推し側からみれば喜ばれない推しごとかもと思います。

色々思考を巡らせて、ああだこうだ考えてみるものの「恋してしまったからにはもうどうしようもない」という結論が今一番しっくりくるのかもしれない。なんだかこの言葉だけだと気恥ずかしいのだけれど、この言葉でまとめると病むのも荒れるのも、感情が不安定なのは仕方ない。とも思える。そしてこれは「恋」だけで「恋愛」になることはない。だからこそこんなに盲目で、暴走しているんだと思う。

推しくんを推し始めてあと少しで1000日になるというところで、一つまた結論が出てよかったと思っています。一度結論が出たら、またそこから始まるような気がしています。推しくんのことはまだまだ全然知らないことばかりだし、何よりこれからの活躍や活動がたくさんあるので、悩みと共存しながら楽しく推し活していきたい。

春がとても苦手な私らしい(?)吐き出しとなりました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。