たまに自分を見失いそうになる

日本から離れて暮らしていると、度々自分が何者なのか考えさせられる。
日本語を話すこと自体、この街ではマイノリティ。
休職中の身ということもあって、社会に属している感じがしない。

言葉の壁は度々訪れる。一応、日常会話には困らないけれど、
大したものでは決してない。特に話すのが苦手で、時制が混ざっている感じが自分で話していてすごく不快になるときがある。
家族とは日本語で話すので、日本語に引っ張られる感じが未だに拭えない。
(女性、男性、単数、複数の感覚がとてもぼんやりしている…)

子育てに専念しているという状態も、
精神的に安定するまでずいぶん時間がかかった。
今まで自分が結構頑張って社会の中で働いてきたことに気が付かなかった。
そしてそれが自分の(表面上の)価値であり、存在意義であったことも。
幸い、子供は日に日に愛らしさが増し、子育てに自分を見出すこともできるようになってきたので、今は落ち着いている気がする。
日本から離れてリラックスして子育てできている事も関係していると思う。
それでも、家族以外の人間にどうやって今の自分を証明すれいいのか
わからなくなる時は度々ある。今の私は娘の母、それ以外は…?

もともと、自分を表現することを抑えられた環境で育ってきたと思う。
多くの日本人はそういった価値観の中で生きてきたのではないだろうか。
周りの規律に合わせ、自分の意見よりも他人の意見を優先させる習慣の中で生きていると、ふと「果たして私は一体何者だろうか」と思う時がある。
30代も半ばになると、それが一種の恥であることに気づく。
自分の好きなものがわからない、何が自分を満たしてくれるかわからない、
他人が好みそうなものはわかる(気が)するのに?

最近は正にそんな気分が続いている。
時間はあっても、それを満たす術と力が無い。

こんな時はどうしようか。
娘が同じようなことで悩んだら、なんて言葉をかけようか。
もしかして、世の中には私のように感じている人がいるかも。

難しいことはきっといらない。
哲学的になる必要もない。
時間を味方につける。自分を味方につける。
そして、今まで私の人生を導いてくれた全ての存在・出来事が
今も私の中にいることを思い出す。

だんだん、自分を大切にしたい気持ちがふつふつと湧き出てきた。
この気持ちを感じてたくて、ただそれだけでここまで頑張ってきた感じもする。

昨日お友達となかよくなれなくて、泣いてしまった娘に
「お母さんは何があっても味方だよ。ずっと一緒だよ。」
と言ったことを思い出した。

そうそう、そんな気持ちがあれば、きっと大丈夫だよね。
私の一番のパートナーは私だ。

今日もこの街で、ひっそりそんなことに気付けた。
優しく、柔らかく、今日も生きましょう。

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