見出し画像

【小説】 トランジット 第2話

ハルはめずらしく待ち合わせに遅刻してきた。
3月になったといっても外はまだ少し肌寒くて、僕は近くのコンビニで買ったコーヒーを飲みながら駅の中でハルが来るのを待った。
今日はハルが台湾に行く前に3人で会おうということになっていたのだが、言い出しっぺの大津から前日に「やっぱ無理になった」というメッセージとともに30個くらいの土下座の絵文字が送られてきて、仕方なく二人で会うことにしたのだった。


原宿駅の改札は休日の昼間にしては空いていて、エスカレーターで昇ってくる小さな影を、すぐに見つけることができた。
シンプルなネイビーのワンピースに白いカーディガンを羽織ったハルはいつもよりも柔らかい雰囲気に見える。
僕を見つけたハルは、手を振るかわりに遠くから、ごめん、と手を合わせた。

「本当にごめん。5分前に着く予定だったんだけど、電車乗り過ごしちゃって」
10分の遅刻を何度も謝るハルが新鮮で、なんだか笑ってしまう。3人で会う時は必ず大津が遅刻してきて、ハルはもっぱらそれを叱る側だったから、ハルのこんな姿を見るのは初めてだ。
「なんで笑うの?」
「いや、ハルが謝ってるところってあんまり見たことないから」
僕が言うと、ハルは少し驚いたような顔をして
「いや、遅刻したら謝るでしょ」と言ったあと、私は謝らないといけないようなことをあんまりしないだけだ、と付け足した。

ハルが昼食の前に少し歩きたいと言うので、代々木公園を散歩することにした。
3月上旬の代々木公園は、中央広場の早咲きの桜のほかはまだ蕾で、人影もそれほど多くない。犬を連れて散歩をする人やジョギングをする人とすれ違いながら、僕とハルは並んで歩いた。
詳しいことは会ったときに話す、と言われていたから、ハルがいつ台湾に行くのかとか、あっちで何をするのかとか、そういったことを僕はほとんど知らなかった。
これからのことを話すハルは、とても楽しそうだった。
来月には台湾に行くということ、台湾にゲストハウスを経営している友人がいて、当面はそれを手伝うつもりだということ、そして学生時代に少し長い旅行をしたとき、いつかここで暮らしてみたいと思った、ということ。
一通り話し終えた後、ハルは
「まあ、要はあんまり何も決まってないけど行こうってわけ」と笑った。

「仕事は、いつまでだっけ?」
「明日会社に行って持ち物を片づけたら終わり!」
ハルが明るい声で答え、大きく伸びをする。

僕がこんなふうに晴れやかな顔で「終わり」と言えるのはいつなのだろう。
定年まで勤めるとしたら40年後だ。そう思うと少しぞっとした。
学生の頃は数年おきに訪れる「終わり」が、僕をそれまでの日常から強制的に解放してくれた。でも、大人になってからの「終わり」はずっとずっと遠くにある。僕はそこまで、息切れせずにたどり着けるだろうか。たどり着いたとして、それでよかったと言えるのだろうか。

「どうしたの?」
ぐるぐると考えている僕の顔をハルがのぞき込む。
「いや、なんかさ」
不用意に愚痴がこぼれそうになってとっさに飲み込む。
こんな悩みはわざわざ人に話すべきじゃないな、と思い直す。僕の悩みはきっと、言葉にしたらとてもありきたりで、陳腐だ。自分にとっては切実なものでも、言葉にした瞬間その苦しさはひとつのカテゴリーに押し込められてしまって、僕の感じている苦しさとは別物になる気がする。

「なんかその、すごい…良いなって。台湾」
言葉がもたつく。なんだ、すごい良いって。
僕の間の抜けた言葉が可笑しかったのか、ハルは少し笑いながら
「うん、すごい良いでしょ」と僕の言い回しを真似た。

また歩き出したハルは、子供みたいに、縁石の上を歩いたり、良さげな石を拾ったりした。
僕はその少し後ろをついて歩いた。

さっき飲み込んだ愚痴が血液に溶けて身体中を巡っている気がする。
こんな不健康なイメージをするくらいなら、別に言えばいいじゃないか。僕の悩みなんてじっさい陳腐なものな気もするし。そもそもこんな風に「僕だけの苦しさ」なんてことを考えて、それを大事にしていることの方が幼稚で、恥ずかしいことなのかもしれないし。

ハルの後ろ姿を見ながら、また考えてもしょうがないぐるぐるに飲み込まれそうになっていると、鼻先にポツリと冷たいものが当たった。
「おー、天気雨だ」
前を歩いていたハルがなぜか嬉しそうに言う。
はじめは小降りだったが、少しすると一気に地面の黒い斑点が増え出した。
あそこ、とハルが指さした東屋に早足で駆け込み、ひんやりとした木製のベンチに座る。
思ったより強く降りだした雨が東屋のトタン屋根を叩いている。
僕とハルはその音を聞きながら、しばらくの間、人の少ない公園を眺めた。
街路樹の葉も地面も雨粒を浴びて濃く深い色になって、遠くの中央広場の桜だけがその中に明るく浮かんで見える。

「あっちはさ」
ハルが口を開く。あっち、というのは台湾のことだろう。
「街も人も、こっちより少しごちゃごちゃしていて、それが落ち着くの。わたしは、ごちゃごちゃしている方が、落ち着く」
ハルが言いたいことは、なんとなくわかった。僕たちの日常は夏も冬も適切な温度に保たれたオフィスビルの中で書類やPCと向き合うことで、それはあまりにも整然としていて、清潔で、そして息苦しい。それはきっと僕よりずっと自由に振る舞っているように見えるハルや大津にとっても、同じことなのだろう。その「息苦しさ」こそが、僕たち3人をつなげているもののような気もした。

「まあ、ハルと大津は最初から浮いてたしね。もっと合う場所があると思う」と僕が言うとハルは、大津と一緒にしないでほしい、と少し嫌そうな顔をした。

「そういえば、最近大津と会った?」
僕が、いや、と首を振るとハルはそっか、と言って少し黙った。
「なんで?」
「いや、同じ支店の先輩から聞いたんだけど、大津が居る支店、課長が結構パワハラ系らしくて。あいつ、ああいう性格だから目を付けられてるって」
ハルがその先輩から聞いた話によれば、大津は最近、当日連絡で会社を休むというようなことも増えているらしい。
「それ聞いてから、何度かメッセージ送ったんだけど、大丈夫、としか返ってこなくて。あいつ見栄っ張りだからあんまりそういうところ私たちにも見せられなかったのかも」

そういえば、今日のことだって、大津の「来れなくなった」というメッセージにハルが理由も聞かず「わかった、また今度」とだけ返していたのには違和感があった。
ハルの性格上、怒ったり、少なくとも理由くらいは聞いたりするものだろうと思ったのに、今回はずいぶんとあっさりと受け入れていた。思えば、ハルは大津の事情を知っていたから、それ以上何も言わなかったのかもしれない。

「高木は、大丈夫?」
尋ねるハルの目が、まっすぐにこちらを見ている。
僕は、大丈夫なのだろうか。別にひどいパワハラを受けているわけではない。給料もそこそこだし、残業もバカみたいに多いわけじゃない。でも、何故だか、何に対してかもわからないけど「無理だ」と思う瞬間がある。この、言葉にうまくまとめられないモヤモヤを、ハルなら、まとまらないままに聞いてくれるだろうか。でも。

「大丈夫、だと思う」

僕が絞り出すように言った言葉に、ハルは一瞬、少し困ったような、悲しそうな顔をしたけれど、すぐに笑顔にもどって「そっか、なら良かった」と言った。

「お腹空いたね」
ハルに言われて時計を見ると、もう14時を回っていた。
「お、もうこんな時間か。まだちょっと雨降ってるけど行こうか」
「うん…あのさ、高木」
「ん?」
「あのさ、しんどくなったら台湾に来なよ。いいところに連れて行ってあげる」

                *

ハルが台湾に行ってから3か月が経った。ハルからはたまに台湾の風景の写真やゲストハウスで知り合った人たちとの写真が送られてきて、忙しいながらもあちらでの生活を楽しんでいるようだった。

気がかりなのは大津だった。ハルからの写真にもスタンプで反応を返すくらいで、ここ最近、あまり3人のメッセージグループに浮上していなかった。
一度無理やりにでも連れ出して様子を確認しようか、そんなことを考えている時、大津の方から突然電話がかかってきた。
久しぶりに二人で飲もう、という誘いの電話だった。

大津の方から連絡があったことに安心した半面、僕の胸はなぜか少しざわついていた。
電話ごしの大津の声が異様に明るくて、ハルから聞いた話や最近のメッセージの様子とはあまりにも不釣り合いに思えたのだ。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?