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”人間は全責任を持つ”ーーJ-P・サルトル『実存主義とは何か』を読んで

 どうも小池です。今回は読書感想文です。フランスの哲学者、J-P・サルトルの著作『実存主義とは何か』を読んだ感想をつらつらと書いていこうと思います。




時代背景

 サルトルは第二次世界大戦の前後で活躍した20世紀を代表する哲学者です。彼の主著である『存在と無』や『弁証法的理性批判』に比して、今回の『実存主義とは何か』は平易な文体です。それもそのはず、論文ではなくあくまで講演録だからです。そのため学者(だけ)を相手としたものではなく、一般民衆にたいして「実存主義」なるものを説いたものとなっています。

講演当日の二十九日、会場のクラブ・マントナンには多数の聴衆が押しかけ、中に入りきれない人々が入口に座りこんでいたという。そして翌日のいくつかの新聞には、講演会の模様が大きな見出しで報じられている。あたかもこれが戦後フランスの大きな文化的事件であるかのように。

(海老坂 1996: 1)『実存主義とは何か』人文書院

 上記は、訳者・海老坂武の解説文です。1945年に行われたサルトルの講演「実存主義はヒューマニズムである」(仏題:L' Existentialisme est un humanisme)には多くの聴衆が駆けつけたようです。その背景として、海老坂は「戦争は終わったけれども、未来に希望のきざしはまだ見えず、世界と人間の上には暗雲がいぜんとしてたちこめているその意味で時代の気分は<不安>でもあったのだ」(海老坂 1996: 5)と述べています。つまり、彼の大戦が人類にもたらした大いなる苦痛は、1945年のフランスにおいて暗澹たる空気を蔓延させていたのでしょう。そうした中で、サルトルの講演に未来への希望を抱いた聴衆が駆け寄せたようです。(時代背景に興味のある方は当書解説文「1945年の実存主義」をせびご覧になってください)


「実存主義」に対する批判

 さて、それではサルトルが説いた「実存主義」とは何だったのでしょうか。サルトルの講演は「私は、実存主義にむかってなされたいくつかの非難にたいして、これからその擁護を試みたい」(サルトル 1946=[1955]1996: 35)という言葉から始まります。ここで挙げられる「批判」には2つのタイプがあります。

まず第一に、「実存主義においてはあらゆる解決の道がとざされているから、地上における行動は全面的に不可能と考えねばならず、それゆえに、実存主義は人々を絶望的静観主義へと誘うものであり、究極においては一種の静観哲学に帰着する。しかも静観は一つの贅沢行為であるから、それは一種のブルジョア哲学へとみちびく」という非難が実存主義にむかってなされた。これはとくにコミュニストたちからの非難である。

(サルトル 1946=[1955]1996: 35)『実存主義とは何か』人文書院

 何やらムツかしいことを言ってますね。ようするに、「実存主義」は金持ちのための哲学であり、現状を追認することしかできないじゃん、という批判がマルクス主義者の側から出されたのです。第二次世界大戦という最悪な出来事を経たのにもかかわらず世界をより良くしようとしないのはどうなんだということですね。もう1つの批判はキリスト教側からの批判です。

一方また、われわれは「人間の低劣さを強調し、いたるところに醜悪なもの、 曖昧なもの、粘液的なものを指摘し、明朗ないくつかの美しさ、人間の本性がもつ明るい面をおろそかにしている」という非難がなされた。

(サルトル 1946=[1955]1996: 35)

 ようするに、「実存主義」は下品で低劣だという批判ですね。こんな感じで、「実存主義」という思想は、1945年当時のフランスでボッコボコに批判されていたのです。そもそも当時のフランスにおいては、「実存主義者とは定住所を持たず、一日になにかわからぬ『仕事』を30分だけして、あとはカッフェとバーとキャバレを往き来しているだけの寄生虫のような存在」(海老坂 1996: 3)だったようです。つまり、イメージとしては「トー横キッズ」みたいな感じですね。マスコミにおける蔑称としての「実存主義」が先に流行していたのです。


「実存主義」とは何か

 このようにバッシングの対象として「実存主義」があったわけですが、サルトルはそれを擁護します。次のように言います。

……われわれが意味する実存主義とは、人間生活を万能にする教えであり、また一面、あらゆる真理、あらゆる行動は、環境と人間的主体性をうちにふくむと宣言する教えだということである。

(サルトル 1946=[1955]1996: 37)

 それは具体的にはどんなものなのか。サルトルはその特徴を「実存は本質に先立つ」「主体性から出発せねばならぬ」という言葉で説明します(サルトル 1946=[1955]1996: 39)。有名な言葉ですね。少し説明を入れます。そもそも西洋哲学における実存:本質という二項対立図式は、日本語における「がある」:「である」に置き換えることができます(と私は理解しています)。ここで具体例としてサルトルは「ペーパーナイフ」を挙げているのでそれに合わせて説明します。

 あるペーパーナイフには製造方法と用途があります。当たり前ですが、それがないとペーパーナイフは生まれませんね。逆に言えば、製造方法と用途があればこそ「これはペーパーナイフである」と言うことができるのです。そして、ペーパーナイフの本質(製造方法や用途)があるからこそ、ペーパーナイフは実存(「ここにペーパーナイフがある」)できるのです。これが「本質が実存に先立つ」ということです。

 それに対して「人間」はどう考えられるか。人間を定義するような「本質」はあるのか。否、サルトルは人間の場合は「実存が本質に先立つ」と考えます。

実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのものであるのみならず、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからがつくるところのもの以外の何ものでもない。以上が実存主義の第一原理なのである。これがまたいわゆる主体性であり、まさしくそのような名で世人がわれわれに非難しているものなのである。

(サルトル 1946=[1955]1996: 42)

 この引用文が示すものこそが、サルトルの「無神論的実存主義」です。「人間が定義不可能である」「人間はあとになってはじめて人間になる」「人間の本性は存在しない」という言葉からわかるように、「人間」は先に誰かによって規定されたものではなく、あくまで「なる」ものなのです。つまり、「人間は苔や腐蝕物やカリフラワーではなく、まず第ーに、主体的にみずからを生きる投企なのである」(サルトル 1946=[1955]1996: 42-3)とサルトルは述べます。これは極めて重要な哲学的問題ですが、これ以上深掘りするのはのちの機会に譲るとします。

 


”人間は全責任をもつ”

人間はみずからについて責任をもつという場合、それは、人間は厳密な意味の彼個人について責任をもつということではなく、全人類にたいして責任をもつということである。

(サルトル 1946=[1955]1996: 43)

 サルトルによれば、私たちの一つ一つの選択が「全人類」にたいして責任をもつことになります。なんと物騒な、と思いますが、もう少し話を聞いてみましょう。

もっと個人的なことであるが、もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりにもとづくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向へアンガジェするのである。こうして私は、私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。

(サルトル 1946=[1955]1996: 45)

 かなり盛大な話になっていますが、サルトルによれば、「私」が結婚して子供を望むことは「人類全体を一夫一婦制の方向へアンガジェする」のです(※アンガジェ:積極的に参加する)。なかなか疑わしい話です。それは違うんじゃないかとツッコミたい私の気持ち、それを見越してサルトルは次のように言います。

たしかに多くの人々は、行動することによって自分自身をしかアンガジェしないと信じ、「もしみんながそうしたら?」といわれたら、肩をすくめて「みんながそうするわけじゃない」と答える。しかし実をいえば、人はつねに「もしみんながそうしたらどうなるか」と自問すべきであり、一種の欺瞞によってしか、人はこの不安な思考をのがれることはできない。嘘をいい、「みんながそうするのではない」と広言することによって言逃れをする人は良心にやましい人間である。なぜなら噓をいうという事実は虚言にたいして普遍的価値をあたえることをうちにふくんでいるからである。

(サルトル 1946=[1955]1996: 46)

 ようするにサルトルは、自分の行動は「もしみんながそうしたらどうなるか」という問いに照らし合わすべきであると主張しています。これってだいぶ不安になりますよね。そんなの自分の行動が間違っているかもしれないですし。しかし、サルトルは”自分の行動が間違っているかもしれない”という不安を持つべきだと主張しているのです。なぜなら、「彼らが可能性の一つを選ぶ場合、その可能性は選択されたからこそはじめて価値をもつのだということを、彼らは理解しているから」(サルトル 1946=[1955]1996: 48)です。つまり、不安を伴う行動こそが価値をもつのだということです(そうであると私は理解しました)。

 この講演にはもう少し面白い主張があるのですが、キリがないので、そろそろ感想に移りたいと思います。


感想

 私が気になったのは「実存主義」の2つの側面です。1つは、フランスで退廃的な生活を送る人々を指した蔑称としての「実存主義」です。もう1つは、サルトルの掲げる「実存主義」です。そもそも、海老坂の解説によれば、当初サルトルは自身を「実存主義」者としてみられることを拒んでいたそうです。

しかし、サルトルの側からすれば、自分の哲学と、実存主義者と呼ばれる若者たち一般の行動とを結びつけられるのは迷惑なことだった。なぜなら、自由、不安、不条理、実存といった彼の哲学の中心概念は、戦後フランスの時代の気分からすくいとってきたものではなく、若い頃からの世界と人間に対する彼独自のヴィジョンに発して、厳密に練りあげてきたものだったからである。

(海老坂 1996: 6)『実存主義とは何か』人文書院

 しかしサルトルは方針転換をして「実存主義」を引き受けるようになります。海老坂はその理由として3つ挙げています。第1に一般の読者にも自身の哲学(「実存の哲学」)を広めるため、第2に自分自身の哲学体系に何らかの名前をつける必要があったため、第3に退廃的な暮らしをする「実存主義」者たちが「現実の読者」であり「潜在的読者」でもあったからです(海老坂 1996: 6-7)。

 私は海老坂が挙げた3つの目の理由が気になります。なぜなら、今まで少し見てきたようにサルトルの実存主義と退廃的な実存主義者たちはあまり相性がよくなさそうだからです。何となく、この違和感の裏には、私の知らない世界が隠れている気がします。それが何なのかをわかる方がいれば教えてください。


 今回は読書感想文、というより本の紹介みたいなことをしました。小池は思想の強さに定評があるのでこういう話が大好きです。みんなでいつか思想バトルしましょうね。(小池)


【文献】
J‐P・サルトル,1946=[1955]1996,『実存主義とは何か』 伊吹武彦・海老坂武・石崎晴己訳,人文書院

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